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陽花国は、大陸の隅にある小さな国だ。かつては大陸を統一した一華国の一部だったが、民族紛争が起こり、独立を果たした。その際、故郷を失った異民が多く入ってきたため、「忌み子」と呼ばれる金髪や銀髪の子が生まれたのだ。
この国の気候は暖かく、穏やかだ。水路が張り巡らされた古い町並みは、風光明媚で知られている。そして、最も有名なのは都の名を冠した「景都刺繍」だった。
絹糸で縫いあげられた鮮やかな刺繍は、裏地に違う模様が施された逸品だ。その中でも宮廷のお針子が施した刺繍は、他国への献上品として使われている。
銀鈴と英俊は、紫陽宮と呼ばれる宮廷に来ていた。英俊は、門番をしていた兵士に札を見せ、宮中へと入る。銀鈴も続こうとすると、兵士が声を尖らせた。
「待て。忌み子は髪を隠す決まりだ」
「まあ、いいじゃないですか」
英俊がとりなそうとするのを遮り、銀鈴は手早くほっかむりを被る。
「これでいいですか」
兵士はふん、と鼻を鳴らし、入るよう促した。門をくぐったあと、英俊が囁いてくる。
「銀鈴殿、すいません」
「こんなの慣れっこですから」
なにせ、九歳の頃からほっかむりを被ってこの門をくぐっていたのだ。むしろ被って通れるなら御の字だろう。英俊は銀鈴を連れて、宮廷の奥へと向かった。
いくつかの建物を通り過ぎ、だんだんと人気のない場所に近づいていく。一体ここは宮中なのか、それともただの荒れ果てた竹林なのか。ぎゃあ、ぎゃあ、とカラスが鳴く声に、銀鈴は身体を震わせた。
「あの……こんなところに、一体何があるんですか?」
「もうすぐ着きますよ」
倒れた竹にとまったカラスが、鋭い目で睨みつけてくる。侵入者は許さぬといわんばかりの目だ。
そんな目で見ないでほしい。銀鈴だって、こんなところに来たくないのだから。しばらく荒れ竹林を歩いていくと、小さな建物の前にたどり着いた。
「ああ、着きました」
「こ……ここは?」
「月籠庵です。月の光が射さぬようになっているので、その名がついています」
銀鈴は視線をあげた。長い竹林が覆いかぶさるようにして生えているので、月の光を遮るようになっているのだろう。門をくぐると、上り口があった。そこには黒丸を描いた札が掛けられている。
「おや……来客中ですね」
「はい?」
「人が出てきたら、入れ違いに入ってください。私は少々用事がありますので失礼」
「えっ? ちょっ」
去っていく英俊を、銀鈴はポカンとした顔で見送る。え……なんの説明もなし?
銀鈴は戸の前にぽつんと立ちすくむ。ピーヒョロロロ……鳴き声を耳にし、空を見上げた。あ、ひばりが……飛んでいるはずなのだが、竹林に遮られて見えない。一応宮中ではあるのだろうか。ここは別世界だ。暗く、隔離されている……。
もしかしたらここは冥界か何かで、英俊は案内人だったりして。
ひばりが旋回しているのをぼーっと見ていたら、戸が開く音がして、一人の女性が出てきた。
色白の頰が紅潮し、目が潤んでいる。ほつれた髪が首筋に張り付いて妙に艶かしい。彼女は銀鈴と目が合うと、かあ、と赤くなって足早に去っていった。
銀鈴は呆気に取られたままそれを見送り、戸の隙間から中を伺った。いったいこの中で何が……。
銀鈴はごくりと唾を飲み、戸をそっと開けた。中に入り、廊下を歩いていく。並んでいる障子の前に、銀鈴は立ち止まった。
耳をすますと、室内からかすかに衣擦れの音がする。障子をそっと開けたら、薄暗い部屋の中が見えた。頭上を覆う竹のせいで、日差しが差さないのだろう。
「あの……」
だんだん目が慣れてくると、部屋の主の姿がはっきりしてくる。
「──っ!」
銀鈴は彼の顔を見る前に、思わずばっ、と目を背ける。寝台に寝転んでいる男は、ほとんど裸だったのだ。着物を無造作に羽織り、緩く帯を締めている。投げ出された足は妙に白かった。どこかひやりとした、艶のある声が響く。
「閉めろよ」
「へ」
「障子」
銀鈴はぎこちない動作で障子を閉めた。ぼうっ、と発火する音がして、蝋燭のあかりが部屋を照らす。あ、明るくなってしまった。今振り向いたら半裸の男が……銀鈴は部屋の主に背を向けたまま、障子にすがりつく。
「なんで後ろを向いてる?」
「あ、あなたこそなぜ裸なのですか!」
「裸じゃない。ちゃんと服を着てる」
いえ、ほとんど裸です! 後ろを向いたまま叫んだ銀鈴の耳に、くすくす笑いと衣擦れの音が響く。
「初心なんだな、あんた」
「普通です、服を着るのが人間の義務、っ!」
かたん、と音がして、大きな手が障子にかかった。耳元に吐息がかかる。
「じゃあ、俺は着なくていいのか。人間じゃないから」
その言葉に、銀鈴は思わず振り向いた。こちらを見下ろしているのは漆黒の瞳。髪は艶のある美しい紫黒……。
まさしく、人間離れした美しさの青年だった。
銀鈴が二の句を告げずにいると、金華の長い指先が髪に絡んだ。ふっ、と黒い前髪が揺れて、唇が近づいてきたので、銀鈴は慌ててそれを防ぐ。
「ちょ、ちょっと!」
「なに?」
「いきなりなにするの」
「口付けしたことない?」
大丈夫、すぐ慣れる。そう言った金華が、銀鈴の腰に手を回した。銀鈴はひっ、と悲鳴をあげ、金華の顔をぐいぐい押しのける。
「慣れたくない! 離して!」
「随分じゃじゃ馬だな。見た目は梅の精みたいなのに」
金華はなぜか楽しそうに銀鈴を拘束する。なんなのよこいつ、女を弄ぶ悪い貴族!? まさか、これは愛人試験なのか!
「離してって、言ってるでしょ!」
銀鈴は金華の腕を掴み、足を引っ掛けて床に倒した。だあん、とものすごい音が響く。舞い上がったほこりがきらきら輝いた。彼は苦痛に呻いたのち、むくりと起き上がった。不満げな表情で背中をさする。
「いたいだろう。顔に似合わない乱暴者だな」
「なんの試験だからわからないけど、帰らせてもらいます!」
がらりと障子を開くと、英俊が立っていた。彼は、銀鈴たちを見て目を瞬く。
「おや、どうされました」
「どうしたもこうしたもないです! なんなんですか、この色ボケ男は!」
「色ボケ男……」
英俊は反駁したのち噴き出した。ばんばん柱を叩いてわらう。
「ぶっ……くくく、あはは、はははははははは」
「笑いすぎだろ」
男が不機嫌に突っこむ。英俊は口元に手を当てて、
「ふふ、いいですねえ」
何がいいのだろう。さっぱりわからない。
「おい、英俊。この女はなんなんだ?」
「彼女は陽銀鈴殿ですよ、金華さま。名前に聞き覚えは?
その言葉に、金華があ、と声を漏らした。
「覚えておいでですか。そうですよねえ。銀鈴殿がお針子試験に落ちたのは、金華さまにも責任がおありですもんねえ」
「……え?」
銀鈴は思わず金華を見た。金華は目をそらす。
「金華さまもお針子試験の審査官をしてらしたんですよ。一応縫糸部の長官なので。ねっ、金華さま」
「……」
金華は素知らぬふりで、自身の腕輪を撫でている。銀鈴は金華を凝視し、じりじりと近づいて行った。彼が同じくじりじり後ずさる。英俊は感心したように、
「おや、金華さまが押されている」
銀鈴は、金華を壁に追い詰めた。壁に手をついて、彼をねめつける。
「どーいうことか説明していただけますう?」
「いや……なんというか、悪いな」
「私は理由を聞いてるんですが!」
「その日は女と約束してたんだ。会議が長引くのは面倒だった」
なるほど、女と約束ねえ。へえ、そう……。銀鈴はにこ、と笑った。
「いいんです。気にしてませんから」
金華はその言葉にほ、と息を吐く。
「ああ……」
「って言うとでも思ったかあ! ふざけんなこの色ボケ男ー!」
銀鈴は金華の襟首を掴み、背面投げを食らわせた。半身を強打した金華が呻く。
「失礼しますッ!」
勢いよく閉めた障子の向こうから、英俊の爆笑が聞こえてきた。