19
誰かの落胆する顔や、軽蔑する顔は見慣れていた。恐怖におびえる顔だって、知っていたはずなのに。銀鈴の見せた表情が、金華の胸を突き刺した。
ひどく寒い。
ぶるりと身を震わせ、金華は目を開いた。雪に埋もれているのかと思いきや、自分の身を包んでいるのは柔らかい布団だった。左ほほに暖かい日差しが触れ、鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「……」
ぼんやり瞳を開けると、見慣れぬ天井が目に入った。自分の部屋ではない。まさか、無意識で女のところに来たのだろうか──。
「やあ、目が覚めた? 兄さん」
声をかけられ、金華は視線を動かした。そこには意外な人物がいた。
「夾月?」
思わぬ人物を前に、金華は困惑をあらわにする。つまりここは、弟の部屋か。金華の住む月籠庵とはまるで違う、大きな明り取り用の窓。美しい調度品の数々。
チリ一つない部屋。夾月の部屋に入ったのは初めてだった。なにせ、この部屋に入ることは王妃が絶対に許さない。夾月とて、金華の訪問を望んではいない。
「梅林を散歩してたら、でかい可燃物が落ちてたからびっくりしたよ」
「……」
兄を可燃物呼ばわりとは。特に驚きはしないが。夾月は、湯飲みに茶を注ぎ、金華に差し出した。
「はい、どうぞ」
「……」
金華は茶碗を受け取り、無言で茶を植木の土に流した。みるみるうちに、植木の葉が枯れていく。夾月は、キョトンとした顔でこちらを見た。
「あれ? なんで毒入りだとわかったの?」
「おまえが理由もなく、俺に構うわけがない」
「あはは、たしかに」
夾月は、湯呑みを揺らして見せた。
「これ、素敵でしょう。曜変天目茶碗っていうんだよ。今日、兄さんの誕生日でしょう? あげるよ」
夾月は目を細め、嬉しいでしょう? と囁いた。たしかに、目の前の湯呑みは美しかった。しかし、毒付きの湯呑みをもらって喜ぶ人間はいまい。
「……よく覚えてたな」
「当たり前だよ。せっかくの誕生日なのに、さえない顔だね」
「……」
「ああ、そっか。今日は、お針子が死んだ日でもあるもんね」
かわいそうだね。にいさんのせいで死んだんだ。夾月はなごやかな口調で言う。金華は、ぐっ、と寝具を握りしめた。
「今年も誰か死ぬのかな? 兄さんのかわりに」
「……死んで困るような相手はいない」
「あれ? 兄さんにはいるじゃない、胡散臭いお付きと、可愛いお針子係が」
金華は、ハッとして夾月を見た。
「銀鈴に何かしたのか」
「おや、英俊のことはどうでもいいって言うの? ひどいなあ」
「答えろ、夾月」
夾月は、すっと表情を消した。腰から引き抜いた剣を、金華に突きつける。
「命令するなよ、化け物」
金華は夾月を睨みつけた。夾月は笑みを取り戻し、剣の切っ先で金華の喉を撫でた。
「ねえ、兄さん。椿の花が落ちるところを見たことがある?」
弟は目を細めて囁く。
「僕はあの瞬間が好きなんだ。人の頭が落ちるところに似ているから」
椿には毒はないけど、特別に好きなんだよね。夾月がささやいた。花と人間は違う。夾月には、その感覚はないのだろう。彼にとっては、花が落ちるのも、人の頭が落ちるのも、どちらも大したことではないのだ。金華は声をかすれさせた。
「何が望みだ」
「これを飲み干したら、銀鈴は助けてあげる」
夾月が、再度天目茶碗を差し出してくる。茶碗の底で揺らめく虹色。金華は、湯呑みを受け取った。たしかに美しい湯呑みだ。しかし、夾月が選んだだけあって、どこか蠱惑的な姿をしていた。見ていると、取り込まれてしまいそうな……。
虹色は湯呑みの底で揺らめいて、色を変える。銀色に、金色に、水色に……。色の変化はめまぐるしく、そのせいで妙に胸がざわつく。
「曜変天目はね、不吉の象徴なんだ。兄上はこの湯呑みに当てられ、毒を飲んだ。どう? この筋書き」
「ああ、いいんじゃないか」
金華はそう返し、湯呑みの中身を飲み干した。その直後、喉が焼けるように痛くなる。ごほりと咳き込んだら、寝具に椿のような赤が散った。綺麗だなあ。夾月がそう言う。全身がガクガクと震える。
これは死の兆候なのか。目の前が徐々に赤くなっていく。金華は着物をぐっと掴み、苦痛に耐えた。燃えるように熱いのどから、言葉を絞り出す。
「ぎ、んれいを……」
「銀鈴を出すように言って」
夾月が、従者にそう告げる。従者は無言でうなずき、さっと姿を消した。その瞬間、金華は身体の力を抜く。目の前が暗くなっていき、だんだん死が近づいているのだろうということがわかった。
銀の髪が、翠の瞳が脳裏をよぎる。
もう一度だけ、会いたかった。金華はぎゅっと目を閉じる。
そのとき、金華の身体に異変が起き始めた。
「ぐ、う……」
長い手足が、ぐっ、と縮み、毛深くなっていく。銀の腕輪に、亀裂が入る。頭には獣の耳が生え、口は三日月のようにぐにゃりと形を変えた。銀の腕輪がひとりでに割れ、パラパラと落ちる。
夾月は異変に気付いたようだったが、なぜか愉快そうにこちらを見ている。
金華の変わりようを見て、従者が悲鳴をあげた。
「に、げろ」
そう言った直後、金華は弟を弾き飛ばしていた。転がるようにして、従者が逃げていく。
金華は障子を突き破り、部屋を飛び出した。混乱する宮中を、ただひたすら走り抜ける。
──金華が化けたぞ!
──なぜだ、満月でもないのに……っ。
──あれはもはや第一王子ではない、射よ!
──避難が先だ、陛下を王宮の外に!
人々の叫び声や、悲鳴が聞こえてくる。自分のことを言っているのだ。
「構え!」
金華は、弓を番えた兵士をなぎ倒した。次いで、剣を構えた兵士を振り払う。蹴散らしながら、屋根の上に上って吠えた。
頭上には、薄い満月が浮かんでいる。あの月が恋しい。恋しくて狂ってしまいそうだ。
吐き出したい、「月亭の精」を。今までにない欲望が胸を占めていた。自分のものではない、強い願い。誰かを、殺したい。でも、誰を。
脳裏に浮かぶのは、自分を産んだ母親だった。痛みと憎しみが胸を満たしていく。頭に、椿の花が落ちる光景が浮かんだ。徐々に脳裡が赤く染まっていく。なんのために生きて来たのか、わかった気がする。
──殺すためだ、王妃を。私の母を。