18
その夜、銀鈴は物音で目を覚ました。寒風が窓をたたいている音だ。
起き上がると、身体の芯まで凍るような寒さに震える。銀鈴は寝巻きの上に一枚羽織って、そっと障子を開いた。暗がりの中、灯りを持った人物が見える。あの後姿は──。
「……金華さま?」
彼は厚手の上衣を着て、頭巾をかぶっていた。金華は廊下を歩いて行き、戸を開けて出て行った。
(こんな夜更けに、どこへ行くんだろう……)
もしかして、女の人のところだろうか。べつに、金華さまの女遊びはいまに始まった話じゃないけれど。でも、最近は全然だったし。それに、一応蟄居中なのに……。もやもやした思いが、胸を締めていく。
(べつに気になるわけじゃなくて、念のために!)
銀鈴は金華の後を追って、月籠庵を出た。
暦の上では、今宵は満月のはずだ。しかし、空には厚い雲がかかり、月光が指す気配はない。残雪は固く、下手をしたら滑ってしまいそうなほどつるつるしていた。しかも辺りは暗く、よく見えない。
銀鈴は慎重に歩きながら、金華の持つ灯りを追った。吐く息が白い。誰もいない宮廷を、金華は歩いていく。その足取りにはよどみがなく、まるで闇に住む生き物のようだ。
金華は後宮を通り過ぎ、夾月が住む天華殿を通り過ぎた。彼が向かったのは天精華殿にほど近い、夾竹桃に囲まれた東屋だった。暗くてよく見えないが、誰かが座っているようだ。
(誰かいる……?)
銀鈴は、夾竹桃の後ろに身を潜めた。金華は東屋の前まで来て立ち止まる。そうしてこう言った。
「おまえが朝貢に手紙を紛れ込ませたそうだな」
「ゴホゴホ……なんの話ですか」
東屋の人物が答えた。えらくしゃがれた声だ。金華は鋭い声で尋ねた。
「なにが目的だ?」
「なにを言っているのか、よくわかりませ、ゲホッ、ゲホッ」
その人物こそ、なにを言っているのか不明瞭だった。
(このせき込み方……どこかで)
どこからともなく風が吹いて来て、凍った地面を小石が転がっていく。
「そうか。言う気がないなら仕方ないな」
金華は灯りを地面に置いて、頭巾を脱いだ。ゴォォ……と風の音が響いて、分厚い雲がかすかに動いた。そのわずかな隙間から、月光がそそぐ。
金華の髪は紫黒のはずだが、月の光で金色に見えた。その瞳も、金色に光って見える。
東屋にいる人物が、息を飲んだ気配がした。
金華は右腕につけた銀の腕輪に手をやった。するりと外れた腕輪が、重力を失い、地面に落ちて音を立てる。美しい髪の毛がぶわりと伸びて、地面を埋めた。
美しい顔立ちは異形へと変わっていき、手足はぐぐぐ、と形を変え、毛深くなって行った。銀鈴は、呆然とその様子を見ていた。金華はすっかり獣に変わっていた。
金の瞳、黒い毛並み。特徴はあるものの、いつもの変幻とはまるで違う。もはや猫とはいえない大きさだ。まさか、あれが金華猫──?
東屋の人物が悲鳴をあげた。金華は跳躍し、その人物にのしかかる。
「言え、誰の命だ?」
確かに金華の声だ。
「うぐ……た、たすけて」
金華の下にいる人物が、ぐっと体重をかけられてうめく。あのままじゃ死んでしまう──。銀鈴は、夾竹桃の後ろから飛び出した。
「金華さま!」
金華がハッとして振り向いた。力を緩めた隙に、押さえつけていた人物が逃げ出す。金華は歯を剥いて、その人物を追おうとした。銀鈴は、金華の前脚にしがみついた。
「金華さま! ダメです」
「離せ、銀鈴」
「嫌です」
銀鈴は、ぎゅっと力を込めた。
「だめ」
「……邪魔するな」
「だめです。あの人を殺す気なんでしょう」
「自白させるだけだ」
「そうは見えませんでした! だって今の金華さまは……」
銀鈴はハッとして、金華を見上げた。金色の瞳と視線が合う。その瞳が悲しそうで、銀鈴は息を飲む。
「……だろうな。おまえから見たら、今の俺は化けものだ」
「違うんです、そういう意味じゃなくて、あっ」
金華は銀鈴を振り払い、銀の腕輪をくわえて走り出した。
「金華さま! 待って!」
銀鈴は灯りを掴み、金華を追う。獣姿の金華は滅法足が早く、追いつけそうになかった。銀鈴は、残雪を丸め、雪玉をぶつける。金華はまるで気にせずに走っていく。
「金華さま、金華!」
ぐんぐん離されて、ついには姿が見えなくなった。
「止まりなさいよ、この色ボケ猫!」
銀鈴は叫んで、その場にへたり込んだ。膝に顔を埋めて、呻くようにつぶやく。
「……話を聞きなさいよ、ばか金華」
後にはただ、風の音だけが響いていた。
一夜明け、朝日によってゆるんだ雪が、どさどさと地面に落ちていた。銀鈴はいつものように、金華を呼びに向かう。
「金華さま、朝ですよ!」
そう呼び掛けて、障子を開けようとした銀鈴は、一瞬躊躇した。昨夜のことが、脳裡によみがえる。ええい、ままよ。そう思って障子を開けると、盛り上がった布団が見えた。銀鈴は後ろ手に障子を閉めて、ぽつりと言う。
「あの、昨日はすいませんでした」
返事は返ってこない。
「謝ってるんだから、なんとか言ってくださいよ」
銀鈴は、金華の寝台にずかずか近づいて行った。布団をばっ、と剥ぎ取る。布団の下はからっぽだった。
「──金華さま?」
銀鈴は、部屋中を見回した。窓の外、棚の中、縁の下。どこを見ても、金華の姿がない。途方に暮れていたら、英俊がやってきた。
「どうされました、銀鈴殿。縁側に何か?」
銀鈴は、困惑顔で答えた。
「それが……金華さまがいないんです」
「え?」
英俊は、銀鈴の脇から室内を覗き込んだ。室内はがらんとしている。
「確かに……どちらへ行かれたのでしょう」
「英俊さまも知らないんですか?」
「ええ。金華さまは出不精ですし、滅多に外出されることもありません」
彼は顎に手を当てた。
「しかし、昨夜は別だった。金華さまは、とある男に会いに行かれた」
銀鈴は、はっとして英俊を見上げた。
「英俊さん。私、金華さまを……あの人を傷つけてしまった」
「と言いますと?」
銀鈴は、昨夜あったことを英俊に話した。
見た目で判断されることが一番嫌だと、銀鈴自身が思っていたはずなのに。英俊は黙って聞いていたが、口を開く。
「腕輪は持っていきました?」
銀鈴が頷くと、
「なら大丈夫。冷静だから、そのうち帰ってきますよ」
英俊はそう言ってほほ笑んだ。彼は懐から冊子を取り出し、銀鈴に渡した。
表紙には、「英俊友人録」と書かれている。
「これって……」
「銀鈴殿にも書いていただきましたね」
銀鈴はうなずいて、パラパラと帳面をめくった。一番最初に書かれていたのは、金華の名前だ。子供の時に書いたものなのか、少し拙い感じがした。銀鈴は、帳面を順にめくる。
「夾月さまのも……あ、晶馬や悠鈴のまで。いつのまに」
幼い弟や妹の筆致は、たどたどしいが、やはり微笑ましい。自然と笑みを浮かべていたら、英俊が口を開いた。
「私、人の字が好きなんですよね」
「字が……ですか?」
だからこんなものを集めているのだろうか。
「ええ。いっとき、科挙の採点官をしていたことがあって。面白い字を書くひとは、大抵合格していたなあ」
英俊はのんびりと言う。
「面白い字って?」
「例えばこの人」
英俊は帳面をめくり、銀鈴に見せた。その字を見て、銀鈴はギョッとする。なんというか、みみずがのたくったような字だ。
「すごく汚いッ!?」
「ははは」
彼は愉快そうに笑い、
「個性的でしょう?」
「いや、はっきり言って下手ですよ」
「この字を書いたのは、科挙に最年少合格した人なんですよ」
「えっ」
「あんまりにも癖字なので、不合格になりかけて。僕はちゃんとわかったんですけど」
「す、すごいですね……」
「面白いでしょう? 官吏をやめたら、癖字研究家になろうかなあと思ってるんです」
「英俊さん、金華さまに付く前は完全に文官だったんですね」
「というより、調査官でした。科挙の採点官も、不正がないかを調査するためにやったんですよ」
十二年前でしたね。
「いろんな部署に潜り込んでたなあ。まあ隠密みたいなものなので、友達もいなくて」
「隠密……」
全然見えない。いや、見えないからこその隠密なのか。
「金華さまと初めて会ったとき、彼は九歳でした」
英俊は、懐かしむように帳面を眺めた。それからふっと表情を陰らせる。
「金華さまは、ちょうど十二年前の今日――誕生日に殺されかけたんです」
銀鈴は目を見開いた。
「な……」
「誕生日祝いの着物に、毒針が仕込まれていた。黒地に牡丹の花の、美しい着物です」
行李の中にあった着物を思い出し、銀鈴は喉を震わせた。あの着物だ。
「金華さまの字は、少し癖字なんです。だけど美しい字です。僕は最初に彼の字を見たとき、ああ素晴らしい手跡だなと思った。皇金華はきっと素晴らしいひとになる。そう思ったんです」
英俊の声がわずかに低くなった。
「だが、朝貢と共に送られた手紙は違った」
銀鈴はハッとした。
「あの手紙は猿真似です。金華さまが書いたのではない。僕は少し見ただけで、誰が書いたのかすぐにわかった」
「え、な、ならすぐみんなに」
「証拠がありません。筆跡などどうとでも言い訳がつく。金華さまには味方が少ない。疑いを晴らすには、犯人に自白させるくらいしかないんです」
「だから金華さまはあの男を……」
銀鈴は金華の邪魔をしてしまったわけだ。
「あなたのためですよ」
「え?」
「金華さまはね、自分の不名誉などどうとも思わないんです。今回のことには、おそらくあなたが関わっている」
「私が……?」
英俊は、懐から木片を取り出した。赤い字で何かが書かれている。この国の言葉ではなかった。
「これ、なんですか?」
「ヒトガタです」
「ヒトガタ……?」
英俊は、ええ、と頷いた。
「呪いの人形、とでも言ったらいいのかな。金華さまが、縁側の下で見つけたものです」
なせそれを銀鈴に見せるのか。理由は一つしかない。
「ここには、こう書かれている。『陽銀鈴に死を』」
銀鈴は息を飲んだ。その反応を見て、英俊は眉を下げる。
「すいません。金華さまには内緒にするよう言われていたんですが」
「……なんでこんな」
「忌み子──失礼。他に言い方がないので──を、どうしても受け入れたくない一群がいるんですよ」
「なぜなんでしょう」
銀鈴が言うと、英俊があっけらかんと答えた。
「美しいからでしょうかね」
「え?」
「あと自分たちと違うから。理由なんてその程度だと思いますよ」
「そんな適当な」
「ええまあ適当なんですが、現王がその筆頭なんですよ。ここがやっかいなところで」
銀鈴は歯噛みした。王様が国民を差別するなんて。英俊が続ける。
「今回の手紙は、あなたが宮廷に来てから仕込まれた。金華さまがあなたを宮廷に入れたこと。おそらくはそれが問題なわけです」
「じゃあ私が宮廷を出て行けば、金華さまの蟄居は解ける──」
「ええ。でも出て行ったらだめですよ」
「え」
「敵の思う壺ですから。それに、金華さまが拗ねてしまう」
「私……金華さまに謝りたい」
「大丈夫ですよ、膝枕してあげれば一瞬で許すと思います」
英俊がにこりと笑った。さすがにそこまで単純ではないのでは。
バタバタバタ……足音が聞こえてきた。首を傾げる銀鈴。英俊の瞳が鋭くなった。
「隠れて」
「え? わあ」
いきなり腕を引かれ、銀鈴は目を白黒させる。英俊は障子を開けて、銀鈴を中に押し込んだ。銀鈴は、内側から声を上げる。
「ちょ、英俊さん!」
「しっ」
英俊は、小さな声で囁いた。
「いいですか、何があっても声を出さないように」
「え」
足音が近づいてきて、ぴたりと止まる。銀鈴は、息をひそめて様子をうかがう。
「柳英俊だな」
「ええ、そうですが」
兵士は冷たい声で言った。
「おまえに第一王子を謀反に駆り立てた疑いがかかっている」
「謀反?」
「忌み子を宮廷に引き入れたのはおまえだそうだな。とある筋から情報が入った。おまえの行動は、新法案への抗議ともとれる。すなわち王への反逆だ」
反逆と言う言葉に、銀鈴は息をのんだ。
「忌み子、ではありませんよ」
「なに?」
英俊はにこりと笑った。
「陽銀鈴殿です」
兵士はふん、と鼻を鳴らした。
「早く捕らえろ」
英俊が拘束される。銀鈴は息を潜めて箪笥に隠れていた。しばらくして、人の気配がなくなる。障子を開けた銀鈴は、連れて行かれる英俊の後姿を目にする。謀反の罪って、死罪とか……?
「た、大変だ……早く金華さまを探さないとっ……」
銀鈴は急いで、月籠庵を出た。
竹林を抜け、宮廷をかける。銀髪をあらわにして走る銀鈴に、注目が集まった。しかし、そんなものに構っている暇はない。昨夜金華が駆けて行った方向へ向かおうとしていたら、
あの、と声をかけられた。銀鈴は勢いよく振り返る。
「はい!?」
銀鈴の険しい顔を見て、男が身を引いた。銀鈴は、その人物が見知った男であることに気づく。
「あなたは……」
彼は咳払いし、しゃがれた声で言った。
「銀鈴殿、金華さまがお呼びです」
「金華さまが?」
何か伝えたいことでもあるのだろうか?
銀鈴は、彼について歩き始めた。男は、宮中の奥へ奥へと歩いていく。随分と遠くまで来るものだ。じきに、氷室らしき建物が見えてくる。男は、そこで立ち止まった。
氷室をふさいでいる岩を押して、銀鈴に顎をしゃくる。銀鈴は、氷室に近づいた。雪を入れて凍らせるための建物は、一瞬で銀鈴の体温を奪う。中は真っ暗で、何も見えない。腕をさすり、銀鈴は尋ねる。
「あの、こんなところに金華さまがいるんですか?」
どんっ、と背中を押された。
「ちょっ!?」
のち、入り口が塞がれる。がこん、と音がしたのち、あたりが真っ暗になる。そうして、外からゴホゴホ、と咳き込む声が聞こえた。