16
からからと、糸車が回っている。金華さま、やってみますか? ほら、ここをまわして、もう片方の手で糸を紡ぐんです……。
懐かしい声がする。金華が幼い頃、よく聞いていた声だ。からからから……。糸車が回転する乾いた音。思えば、金華にとっての母はあの女だった。
金華が生まれたのは、凍てついた季節だった。その年には、飢饉が起こったという。天災がおこったのは金華のせいだとされ、ますます忌み嫌われた。
物心ついたころには、すでに月籠庵に住んでいた。月の光が射さない場所。かわりに朝陽も射さない場所。世話係は金華の世話を志願したというお針子で、いないことも多かった。
そんなとき、金華は寂しくて後宮へと向かった。実の母がいる、後宮へ。
──いいですか、金華さま。後宮へ行ってはいけませんよ。
世話係は、よくそう言った。どうして、と尋ねると、彼女は困った顔をした。
母上は美しいひとだ。金華は、王妃を見るたびにそう思っていた。だがなぜか、母を見ると身体がひやっとした。それでも、そばに居たかった。彼女は母親なのだから。金華は世話係との約束を破って、後宮へ向かった。
「母上、一緒に寝てもいいですか」
枕を抱きしめ、そう言った金華を見て、王妃が冷めた声でつぶやいた。
「なぜ化けものが私の寝所にいるの」
女官が遠慮がちに言った。
「王妃さま、金華さまはまだ五つです」
「だからなに。子供だろうが妖は妖よ」
「母上、ここに赤ちゃんがいるのですか?」
金華は、母の膨らんだ腹に手を伸ばした。触らないで! 悲鳴のような声が聞こえた直後、金華の額に何かがぶつかった。女官たちがきゃあっ、と悲鳴を上げる。
熱くてぬるりとしたものが、額を流れ落ちた。額に当たった瓶が落ちて、砕ける。
「金華さま!」
部屋に飛び込んできた葉月が、金華を抱きしめた。金華は、女の着物に赤いものがついたことに気づく。ああ……これは、自分の血だ。王妃は、おぞましそうに自身の腕をさする。
「葉月! それをちゃんと管理しなさいと言ってるでしょう」
「申し訳ありません。さ、金華さま、行きましょう」
金華の相手をするのは、もっぱら葉月という名のお針子だった。額を出した髪型の、優しい顔つきをした女。廊下に出た彼女は、そっと金華の額をぬぐう。
「金華さま、王妃さまは少し調子がお悪いのですよ」
「僕のせい?」
「いいえ。王妃さまは懐妊中ですし……金華さまは隠の気が強いのでしょう」
「隠の気って、なに?」
「陽の気が神やひと、獣だとすれば、隠の気は妖や霊、鬼といったものたちです。陰の気は、人に害を為すそうですよ」
「僕は人間じゃないの?」
「いいえ、可愛い御子ですよ。ただ、妖が憑いているだけ」
妖は悪いものだ。金華にもそれはわかった。だから母は、あんなに嫌がるのだろうか?
「いい子にしたら、母上は僕のこと好きになってくれるかな」
その言葉に、葉月が瞳を揺らした。
「金華さまは十分いい子ですよ」
「もっといい子にならないと、だめなんだよ」
そう。金華は化けものなのだから。普通の子供ではないのだから。普通以上に努力しなくては、愛を得られないのだ。金華は本をたくさん読んだ。
妖を払うにはどうしたらいいか、書いてある本はたくさんあった。金華はそこにあることを片っ端からためした。だが、全部嘘だった。
一応長兄である金華は、週に二回ほど王政について学んでいた。金華は、書物を読みふけったおかげで、従来の講義よりもずっと先のことを知っていた。たまたま講義を見にきていた国王が、珍しく褒めてくれた。
「明朗な子だ。妖憑きでさえなければな」
国王はそう言った。金華は、彼と一緒にいた母親の顔を伺った。王妃はなにも言わずに、ただ冷たい横顔を見せていた。
それから一年経ち、弟が生まれた。
弟は、普通の子供だった。彼はみんなに愛されて、すくすく育った。
金華は、一度でいいから弟を抱っこしてみたかった。母たちが後宮を出ている間に、金華はこっそり中へ入った。そばでは守り役の侍女が船を漕いでいた。
金華は足音をたてないよう、ゆりかごに近づいて行った。そっと覗きこむと、赤ん坊がすやすやと寝ていた。小さくて、腕も足もたよりない。なによりそのあどけなさに、金華はほおを緩めた。
「可愛い」
金華は、弟の小さな指に触れた。赤ん坊は、きゅっ、と金華の指を握り返した。──僕のことがわかるのかもしれない。僕のこと、好きなのかもしれない。そう思って、金華はうれしくなった。
「なにをしているの!」
金華はびくりとして、赤ん坊の指を離した。すると、赤ん坊は火がついたように泣き出した。
次の瞬間、金華の身体はふっとんでいた。
思い切りほおを叩かれたのだとわかったのは、壁が身体にぶつかってからだった。周囲の女官たちが悲鳴を上げる。王妃は唇を震わせて叫んだ。
「私の子に触らないで!」
ああ、そうなんだ。金華はぼんやりとした頭で思った。
たしかに、金華は王妃から生まれた。しかし自分は、彼女の子供ではないのだ。王妃はこちらにやってきて、また手のひらを振り上げた。叩かれたのは、金華ではなかった。
「お許しください、王妃さま」
「葉月、おまえは一体何をしているの!」
葉月は、金華の代わりにぶたれた。金華に当たらないよう、必死に小さな身体を抱きしめた。金華は、じんじん痛む頭で考えた。なぜだろう。
なぜ、赤の他人が必死で金華を守るのだろう。なぜ、金華を産んだ女が、あんな恐ろしい顔で折檻してくるのだろう。
葉月におぶわれて、金華はその場をあとにした。大丈夫ですか、金華さま。葉月は心配げな声で尋ねてきた。金華より彼女のほうが、よほどひどい怪我をしていた。
月籠庵にたどり着いた金華は、ぽつりと言った。
「ごめん、葉月」
「いいえ。どうってことありませんよ」
彼女は優しい声で言って、
「可愛かったですね、夾月さま」
「うん」
本当に、可愛かった。だからみんな、夾月が好きなんだ。夾月はいいな。金華はそう思った。自分もあんな風に可愛かったらよかったのに。
月籠庵にたどり着くと、葉月が冷やした手ぬぐいを持ってきた。腫れた金華のほおにあてる。冷たくて、気持ちよかった。
「大丈夫。すぐに腫れがひきますよ」
葉月はそう言って、手ぬぐい水につける。ちゃぷちゃぷ……。水の跳ねる音が、しんとした部屋に響く。たらいに沈んだ手ぬぐいを見て、金華はぽつりと呟いた。
「僕、わかったんだ」
ちゃぷちゃぷという水の音がやんだ。
「なにが、ですか?」
「母上は……僕のことを、一生好きになってくれないんだ」
いい子にしても、どんなに勉強を頑張っても、愛してはくれない。金華が化け物である限り。そのことに、やっと気づいたのだ。
「金華さま……」
「僕ね、猫になれるの」
金華はそう言って、銀の腕輪を外した。小さな身体が、さらに小さくなり、黒い獣に変わった。
猫になったら誰かひとりくらい、僕のことを好きになってくれるかな。そう言ったら、葉月が涙をこぼした。
「どうしたの?」
彼女は黙って、獣姿の金華を抱きしめた。暖かくて、心地よかった。金華は、彼女に尋ねた。
「葉月は、僕のそばにいてくれる?」
「もちろんです。もちろんです、金華さま」
葉月は金華を抱きしめたまま、何度も何度も頷いた。
そして季節はめぐり、三年が経った。三才になった夾月は、明るく元気な子に育っていた。陽華国には、また寒い季節がやってきていた。金華の生まれた冬が。
その年は、例年よりもずっと冷え込んでいて、雪が降る日が続いた。そんな二月のある日、葉月が口を開いた。
「もうすぐ九歳のお誕生日ですね、金華さま」
金華は書物をめくりながら答えた。
「うん」
「贈り物は何がいいですか?」
「なんでもいいよ、どうせめでたくもない」
「こらっ」
葉月は、金華のほおをぐいと引っ張った。
「いっ」
「そんなことを言ってはいけません!」
「……」
金華は眉を寄せて葉月を見た。葉月は手を打ち合わせ、
「そうだ。新しいお着物を縫いましょう」
「いいってば」
「だめです! ほら、採寸しますから立って!」
せかされて、金華はのろのろと立ち上がった。金華の背をはかりながら、葉月が言った。
「随分背が伸びましたね」
「当たり前だよ。大きくならなかったら困るだろ」
「そうですね……」
なぜか葉月は目を潤ませていた。金華の晴れ姿でも想像しているのだろうかと思うと、なんだかくすぐったかった。
そして数日が経ち、誕生日がやってきた。葉月は金華に着物を差し出した。その着物は、黒地に、見事な牡丹の刺繍が施されていた。つやのある赤い刺繍糸は、反射によって銀色にも見えた。
「羽織ってみてください」
促されて、金華は着物をまとった。葉月はなぜか、ひどく震えていた。
「どうしたの? 葉月」
「いいえ……」
葉月はぎゅっと目をつむった。
「申し訳ありません、金華さま」
彼女がそう言った瞬間、太ももに激痛が走った。
「っ……」
目の前が真っ赤になって、痛みに耐えかねた金華は倒れた。身体ががくがく震えて、冷や汗が額を濡らした。青ざめた葉月の顔が、二重に見えた。
「葉、月……」
ああ、僕は死ぬんだ。そうなんだ。金華はそう思いながら目を閉じた。
次に目覚めたとき、全身がひどく痛んだ。部屋中は荒れ果てて、そこら中に生々しい爪痕と、血の飛び散ったあとがついていた。一体何があったのだ。金華はそう思う。
見知らぬ男が、こちらを見下ろしていた。
「お気づきになられましたか?」
「……だれ?」
男はにこりと笑い、
「柳英俊と申します」
金華はぼんやりとあたりを見回した。
「葉月は……」
毒を飲んで死にました。英俊はそう言った。
「妹さんが、ご病気だったそうです。屋敷はもぬけの殻で……この手紙が」
金華は、渡された手紙を開いた。手紙には、震える字で、妹のことをよろしく頼む、と書かれていた。毒を飲んでから書いたのだろう。
金華は目を閉じた。
「僕は……化け物になったの?」
「ええ、おそらくは。命の危機を感じ、金華猫に変化したのでしょう」
英俊は、淡々と言った。
「僕は誰か殺した?」
その問いに、英俊はかぶりを振る。ただ、止めようとした兵士が二、三人けがをしたらしい。
「金華さま、黒幕をとらえましょう」
「なんのために」
「あなたは殺されかけたのですよ」
「調査官って真面目なんだな」
無駄だよ、と金華は言った。
「葉月が逆らえなかったんだ。誰もかなわないよ」
「……」
英俊は黙り込む。母親は金華を厭う。父親は金華をいないもののように扱う。姉のようだった葉月も、結局は金華を捨てた。
誰だって、自分の家族が一番大事に決まっている。結局、最初から金華はずっとひとりだったのだ。
金華は手紙を破り捨てた。ひらひらと、雪のように紙片が舞う。葉月の笑顔が一瞬浮かび、また消えていく。無表情で、金華は呟いた。
「大人しくしていれば、殺されることもないんだ」
「どうなさるおつもりで?」
「妖怪らしく過ごすよ」
金華猫は色香で人をたぶらかす妖。政治など、国のことなどどうでもいい。
色ボケた王子を演じているうちに、本当にそうなっていた。
深い愛を求めるより、得難い相手に抱きしめられるより、いっとき満たされたらそれでいいのだと、そう思うようになっていた。