12
「おはようございますっ!」
翌朝、銀鈴はいつものように、金華の部屋の障子をスパン、と押し開いた。春巻きのごとく布団にくるまっている金華を、あっという間に転がす。
金華は寝台からごろんと転がり落ち、棚にガッ、と頭を打ち付けた。彼はむくりと起き上がり、不機嫌顔で後頭部を撫でる。
「もっと穏便に起こせないのか?」
「寝起き悪いですからね、金華さま」
銀鈴は、距離を空けて言う。
「さ、早く起きてください。ごはんをたべて、縫糸殿に行きますよ」
「本当に行く気か」
「当たり前でしょう。手柄を立てて、皇金華はここにありと周りに示すんです!」
銀鈴はぐっ、と拳を握りしめた。金華は面倒そうに頭をかいて、ふ、とその手を止めた。
「というか、なぜそんなに離れてるんだ?」
「金華さま、一般的に考えて、女を口説いてばかりの男は信用なりません」
「はあ。だから?」
「信用ならない男は仕事ができない! 」
銀鈴の力説に、金華は目を瞬く。
「事実、取引先のアホ息子は既婚者のくせに、何度も何度も私を口説いてきてめちゃくちゃ鬱陶しかった。しかもあの人、仕事もできませんでした」
「……アホ息子? 口説かれた?」
「ですからこれからは、本当に好きな子だけを口説いてください。いいですね? 大体、ちゃんと仕事をしてたらそんな暇はないはずですから」
彼はふうん、と相槌を打った。
「本当に好きな子か……じゃあおまえのことは口説いていいんだろう?」
「それっ!」
「どれだ」
「その反射的な口説きをやめてください。私には効きませんから」
「効かないなら別にいいじゃないか」
近づいてきた金華から、銀鈴はしゃもじを持ったままじりじり後ずさる。いつの間にか追い詰められて、壁に背がついた。彼は指先で銀鈴の髪を鋤き、低い声で尋ねる。
「で、アホ息子っていうのは誰だ?」
「誰と言いましても、金華様はご存知ないかと」
「へえ、言えないってことは何かやましいんだな」
「やましくないです! 『明月亭』の班喜栄です」
明月亭か。金華がつぶやいた。
「宮中にも品を卸す大行商人だ。玉の輿ってやつじゃないか」
「だから、その人既婚者なんです。それにいくらお金持ってようが、好きでもない人と結婚なんかいやです」
「意外と乙女なんだな」
笑われて、銀鈴はむくれた。
「ええそーですよっ、色ボケ猫……金華さまとは違うんです」
「口づけは? したことあるか」
「ないですよ。悪いですか?」
顎に指先が触れて、上向かされる。銀鈴が視線をあげたら、金華と目が合う。
「こういう時は、目をつむるものだ」
「……っ」
油断した! 瞳に見据えられると、身体がこわばる。さらりと金華の髪が揺れて、銀鈴の額に触れる。唇がふれあいかけたその時、からりと障子が開いた。
銀鈴は、思わずしゃもじで金華をスパン、と叩く。彼がぐえっ、とうめいた。
「何やってるんだい、銀鈴」
障子を開け、こちらを怪訝そうに見ていたのは、祖母だった。銀鈴は金華の方にてのひらを向け、
「お、おはよう、婆様。こちら、金華様です」
「……これが化け猫憑きかい」
祖母はそう言って、鼻を鳴らした。
「そのお綺麗な顔で騙して、何人たぶらかしたんだい」
金華はしゃもじで頭を押さえられたまま、指折り数える。
「えーと、十、二十、三十」
すかさず突っ込む銀鈴。
「単位が最初から二桁!?」
金華は数えるのをやめ、あっけらかんと、
「それ以上は覚えてない」
「その様子だと五十人近いですね」
呆れる銀鈴と違い、祖母は眉をひそめる。
「……あんたが何人手玉にとろうが勝手だけどね。うちの銀鈴には手を出さないでおくれよ」
「出してない。今の所」
「今の所?」
金華は髪をかきあげた。
「銀鈴には不思議な壁がある。金華猫の妖力がきかない、というかな」
その言葉を聞いて、祖母が一瞬黙り込んだ。のち、鼻を鳴らす。
「教育がしっかりしてるもんでね。妙な男には引っかからないようになってるのさ」
「なら、心配する必要なんかないだろう?」
「念のためだよ。銀鈴、妊娠させられる前に早く戻っておいで」
祖母はそう言い置いて、さっさと部屋を出て行く。妊娠という言葉の生々しさに、銀鈴は顔を引きつらせた。
「気の強いばあさんだな」
金華は祖母を見送ったあと、不機嫌な顔でこちらを見る。
「おい、もので殴るな。痛いだろ」
「す、すいません。反射で」
銀鈴はしゃもじを握りしめ、赤くなった。それから、ちらりと金華に目をやる。
「あの、婆様は金華猫に不信感持ってるみたいなんです」
「みたいだな。だから?」
「だから、ええと、気にしないでください」
金華はちらりとこちらを見た。ふ、と笑い、
「別に気にしてない。ばあさんは守備範囲外だし」
「そういう問題ですか?」
「ああ。昔は美人だったんだろうけどな」
「なんでそんなことがわかるんです?」
「目元だよ。あの歳であれだけ眦が上がってるってことは、切れ長の瞳だったはずだ」
ちょっと見ただけでそんなことがわかるなんて。謎の審美眼である。
「すごいですね……婆様の若い頃なんか、全然想像がつきません」
「そんなことより、腹が減った」
「あ、すいません、ただいま」
銀鈴はお櫃を開き、ごはんを茶碗によそい始めた。金華は朝食を食べながら、
「おまえの弟たちは?」
「ああ、今食べてます」
その時、障子に小さな影が映った。銀鈴が障子を開けると、悠鈴が器を手に立っていた。
「どうしたの、悠鈴」
「猫ちゃんにご飯を持ってきたの」
「あの猫ちゃんはね、ちゃんとご飯をもらってるから大丈夫なのよ」
そう言ったら、彼女はがっかりした顔になる。と、銀鈴の背後に誰かが立った気配がした。振り向くと、金華が立っている。悠鈴は彼を見て、目を丸くしていた。
「おにいちゃん、だあれ?」
「金華」
「猫ちゃんの飼い主さん?」
金華はふ、と笑い、身をかがめて、悠鈴から茶碗を受け取った。
「ああ、そうだ。渡しとくよ」
「うん!」
悠鈴は、嬉しそうに頷き、駆けていった。銀鈴はちらりと金華を見る。
「子供嫌いって言ってませんでした?」
銀鈴の問いに、金華は首を傾げてみせる。銀鈴は、ハッとして叫んだ。
「まさかの守備範囲内!? うちの妹に手を出したら許しませんからね!」
「だれが出すか。子供には興味ない」
金華は呆れ顔で言い、部屋の中に戻る。訝しむ銀鈴をよそに、再び朝食を取り始めた。ちゃんと悠鈴が持ってきたご飯を食べている。そこに、珍しく緊迫した面持ちの英俊がやってきた。
「少々困ったことになりました、金華さま」
「なんだ。百七十六本目の筆でもなくしたのか?」
「いえ、今は百八十一本目です。それより、朝貢のことで問題が」
「まさか、針が混入していたとでも難癖をつけられたのか」
金華は関心ない口調で問う。英俊が首を振った。
「いいえ。刺繍自体は大変素晴らしいものですから」
「じゃあなんだ?」
「問題は手紙です。朝貢に添えられた手紙に、金華さまを世継ぎに押すよう懇願する文面があったと……」
金華は動かしていた箸を止めた。英俊を見て、目を細める。
「それを俺が書いたとでも? 世継ぎなんかひとつも興味がないんだが」
「私もそう思いますが、事実金華様の名を騙った手紙が、使節と共に返ってきています」
銀鈴はしゃもじを持ったまま、二人を見比べた。英俊はじっと金華を見て、
「金華さま……」
「申し開きをしろというんだろう。わかってる」
金華は箸を置き、立ち上がった。ちらりと銀鈴を見る。
「悪いな、縫糸殿へはいけない」
「そんなことより、大丈夫なんですか?」
「さあな。生首で返ってきたら、裏手にある椿の下に植えてくれ」
「やめてくださいよ、そんな」
青くなった銀鈴を見て、金華がふ、と息を吐く。
「冗談だ。そんな顔するな」
大きな手のひらが、銀髪の頭を撫でる。
「正装をお持ちします」
英俊はそう言って、さっ、と部屋を出て行った。
銀鈴は、金華に背を向けて座っていた。背後でしゅるしゅると衣擦れの音がしている。銀鈴が月籠庵に来て半月、金華は一人で着物を着れるようになっていた。きゅっ、と帯を締める音が響く。
「あの、金華さま」
「なんだ?」
「跡継ぎを懇願する手紙って、まずいんですか」
「ああ、相当な」
「でも、跡継ぎを決めるのは陛下ですよね? 一華国には関係ないのでは」
「いいや。朝貢国は、支配国に対し世継ぎのお伺いを立てなければならない。万が一反対された場合、関係が悪くなることがあるからな」
「そんなことで?」
「外交とはそういうものだろ」
銀鈴にはよくわからない。銀鈴にとって、陽華国は大きな存在だ。だが一華国から見たら、支配国の一つに過ぎない。そういうことなのだろうか。金華が羽織を、と言ったので、打ち掛けにしていた羽織を取る。
銀鈴は、金華に羽織を着せながら言う。
「一華国の意向はそれなりの効力があるんですね」
「ああ。しかも、自分から跡継ぎの話を持ち出すのは、現王に対する反逆でもある」
ますますまずいのではないか、それは。
正装をまとった金華は、王族にふさわしい品を感じさせた。なんだか違う人のようで、銀鈴は戸惑う。
「なんだ、ジロジロと」
「なんか、王子さまみたいですね」
「王子だよ、一応な」
金華はそう言って、裾を払った。
「こういう格好は堅苦しくて好きじゃない」
「似合いますよ」
「珍しいな、おまえが俺を褒めるなんて」
「褒めてあげたんだから、生首回避してくださいね」
金華は笑って、銀鈴の手をとった。
「おまえが口づけてくれたら平気な気がする」
「ちょーしに乗……」
かすかに金華の手が震えている気がして、銀鈴はハッとする。
「金華、さま?」
「寒いせいかな。手が震える」
平気なように見えた。だけど、金華も怖いのだ。
「大宮殿に入るのは始めてだ。父親と話すのは…十二年ぶりだ」
「大丈夫です」
銀鈴は、彼の手を握り返した。
「人っていう字をたくさん書いて飲み込めば、平気になりますよ!」
「なんだそれ」
「本当ですってば。私も、お針子試験の前はよくやりました」
金華は手のひらに数回人、と書いて飲み込んだ。銀鈴は、じっと金華を見上げる。
「どうですか?」
「うん……平気になったような気がする」
銀鈴はほっ、と息をついた。
「じゃあ平気になったところで口づけを」
伸びて来た金華の手をはたき落とす。
「英俊さんが待ってるんですから、早く行きますよ!」
銀鈴は金華の背中をぐいぐい押して、月籠庵を出る。表で待っていた英俊が、金華を見ておお、と声をあげた。
「まるで王子のようですねえ」
「……なぜおまえまで意外そうなんだ」
「いえ、中々正装を見る機会もないので」
金華は肩をすくめ、銀鈴に言った。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
歩き出した二人の背中に向かって、銀鈴が声をあげる。
「あの、美味しいお茶を淹れて待ってますから!」
金華は、振り向かずに片手を上げた。