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「はああ……家に帰りたくないなあ」
水面に映る自分の顔を見下ろしながら、銀鈴はため息をついた。さらさらとした銀の髪、瞳は翠。憂い顔は、彼女の美しさを引き立てる。
小さな石を落としても、あまり溜飲が下がらない。銀鈴は、もう少し大きめの岩に手を伸ばす。それを持ち上げ、池に落とすと、ざぶんと水しぶきがあがる。少しだけ気分が晴れた。
(もっと大きな石はないかな)
銀鈴は辺りを見回し、さらに大きめの岩に目をつけた。岩は周囲を柵に囲まれており、大きさが銀鈴の背丈ほどもある。腕まくりして、岩に近づいていく。岩を両手で掴み、ふんっ、という掛け声とともに持ち上げようとしていたら、かすかな笑い声が聞こえてきた。
銀鈴は岩に手をかけたまま視線を動かす。こちらを見ていたのは、一人の男だ。細面の顔は中性的で、柔和な表情を浮かべている。若いような気もするし、それなりの歳にも見えた。青の官吏服を着ている。男は後ろ手を組んだまま、口を開く。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
「その岩大事なものらしいので、投げないほうがいいですよ」
銀鈴は岩を見下ろした。記念碑なのだろうか。たしかに、文字が刻まれているし、というかよく見ると、柵に囲われ、安置されていたようだ。
「そ、そうなんですか」
銀鈴は慌てて岩を置き直した。そうしてごまかすように言う。
「投げたらどこまで飛ぶかなあと思って……あはは」
そんな銀鈴を、男は笑みを浮かべたまま見つめる。
「もしかして、お針子試験を受けましたか?」
「えっ」
「だけど結果が思わしくなかった、とか?」
図星を突いてくる。銀鈴は怪訝な顔で彼を見た。なぜそんなことを知っているのだろう。そう思いながら頷いたら、彼がなるほどねえ、とつぶやき腕を組んだ。
「ところで、猫ってどう思いますか?」
「は?」
いきなりそんなことを問われ、いぶかしみつつ銀鈴は答える。
「どうって……あんまり好きじゃないかな」
「おや、それまたどうして」
「だっていきなり引っ掻いてきたりして気まぐれだし。犬の方が好きです」
「ふむふむ、言い得て妙ですねえ」
青年は顎に手を当て、懐から帳面を取り出す。彼はペタペタと胸元をたたき、
「ええと、筆、筆……」
銀鈴は思わず口を出した。
「腰のところに」
「ああ、あったあった」
男は腰につけていた筆を抜き取り、帳面を開いた。
「お名前はなんでした?」
「陽銀鈴です」
「いいお名前で。ちょっとこちらに書いていただけますか?」
差し出された帳面に、銀鈴は名前を書いた。金華はしげしげとそれを眺めて、
「ふむ。見かけによらず力強い書ですねえ」
懐に帳面をしまい込んだ。なぜそんなものを書かせたのかの説明はない。
「あの、あなたは?」
「ああ、申し遅れました。私、柳英俊と申します。一応宮廷で働いております」
「銀鈴殿はなぜ岩を投げ込まれていたんでしょう?」
「八回目のお針子採用試験に落ちたから……」
「八回目……失礼ですが技術に問題があるのでは?」
銀鈴はその言葉にむっとした。私の作品です、と懐から手巾を出すと、男はそれを受け取り、ため息をつく。
「これは美しい手巾ですね。紅白梅図……刺繍糸に光沢があるが、絹糸ですか?」
銀鈴は得意げに答えた。
「絹糸は高いので、麻を染めたものを使ってます」
「この腕でなぜ八回も落ちたのかな」
得意そうに上がった肩が、ぐ、と下がる。
「私、銀髪のうえにこの目の色だから、なかなか採用してもらえなくて」
「ああ……」
この陽花国では、黒や茶以外の髪色を持つものは忌むものとして扱われる。銀鈴も昔からなにかとケチをつけられてきたものだ。まあ、そんな人間には必殺背面投げを食らわせてやったのだが……。
「髪や目の色のせいで落とされるなんて、さぞ無念でしょう」
「仕方ありません。私だって自分がこの髪じゃなかったら、差別するほうに回ってたかもしれないし」
差別意識というものは、おそらくされる側に回らねばわからないものなのだ。青年はじっと銀鈴を見て、柔らかく微笑んだ。
「うん、いいですね」
「はい?」
「ほんとうは池に石を投げるくらい腹を立てているのに、あなたは我慢強い。どうだろう、お針子ではないが、ちょっとした仕事を受けてみる気はありませんか?」
「仕事……? なんのですか?」
「ふふ。気になるのなら一緒に行きましょう」
英俊に手招かれ、銀鈴は一瞬躊躇した。悪い人間ではなさそうだが、見知らぬ男について行ってはならないと、銀鈴はよく言い聞かされていた。──忌み子に何かあっても、誰も助けちゃくれないんだからね。自分の身は自分で守りな。祖母がよくそう言っている。
しかし、なんの成果もなく家に帰るのははばかられた。銀鈴は、英俊について歩き出す。
彼が何者だろうが構わない。これがつてになって、いつかはお針子になれるかもしれないのだから……。