闇の中で 後編
私達がその部屋から出ると、照明の明かりはずっと先の突き当りを左に曲がるところだった。音を立てぬようゆっくり進む。
気持ちが落ち着いてくるうちに私の腰も少しずつ動けるようになり、廊下の突き当り、左に曲がる頃には四つん這いで歩けるようになっていた。もう少しで立てそう。
壁に隠れ、撮影班の様子を探る。この辺りは手術室が並んでいるようだった。どうやら撮影班のお目当てはこの廊下の一番奥の部屋みたいで、照明の光はそこまで行くと動きを止めた。私達は一旦覗いていた顔を引っ込め、小声で、
「どうする?いつ行く?」
おせんさんに聞く。すると、じっと彼らの行く先を見ていたおせんさんは、少し目を細め、
「………………駄目……」
?
「どうした?」
と薫が聞く。
「…………強い………黒くよどむ………」
私と薫は顔を見合わせた。
「今、例の幽霊が出ると噂されている部屋の前に来ています」
と、カメラに向いた男が話す。
「今から入ってみようと思います」
そう言った後、男はドアに手をかける。
ギィィィ。ガラガラ…
錆びついたドアは軋みながら開く。
私達はまた壁から顔を覗かせ、見る。
照明は部屋の中へと入っていく。
「もうちょっと近くへ行こう」
と小声で言うと薫はゆっくり闇に移動する。私も後を言う。
“くくくっ”
何?耳元で何か聞こえた気が…。
おせんさんを見上げてみたけど、おせんさんの声じゃない?聞き間違い?
入口へと進み、中の様子をうかがう。
光に照らされた室内には窓がなく、手術台やら、上から無造作に垂れ下がってる何本ものチューブや、手術道具を置く台もそのままにある。壁際には仕切りのカーテン。棚の中はなに?何か入ってるみたいだけど、よく見えない。何だろう、この気持ち悪くなるほどの重たい空気は。
フッ。
照明が消えた。一瞬にして闇が支配する。
「どうした!」
「すみません、急にライトが!」
「早くつけて!」
慌て始める。
「———つきません!暗くて何も見えないです」
私はおせんさんに聞く。
「おせんさんがしたの?」
「……………いえ……」
“————うぅぅぅぅ――――”
!?
女の声?おせんさんの声と違う。泣いているような笑っているような、ねっとりとした湿り気のある不気味な声。
この声はどうやらそこにいる人たちにも聞こえた様で、動きが止まる。
「今、声しなかったか?」
「……しました」
「……………」
“———うぅぅぅ、ぅぅ―――”
ひやりと心臓に冷たいものが絡みついてくる。
ぞくぅ。
鳥肌が立つ。どうやら薫も同じことを感じているようで、ピクリとも動かない。
「うわぁ!」
耐えきれなくなった誰かが叫んだ。その動いた瞬間、何かにぶつかったのか大きな音が響く。
ガチャン!
「きゃあ!」
そこにいる人達もそれにつられてパニックを起こす。
「くるな!くるなぁー!」
ドシャン!ガシャン!
出口が分からなくなっているようだ。
「どうする?」
「助けに行かなきゃ!」
と薫が言うと、すっとおせんさんが部屋の中へ入っていく。暗闇の中、ほの白く浮かび上がる。中の人達はおせんさんが見えないようで、変わらず騒いでいる。だが、敏感に反応した者がいた。
闇の主だ。
おせんさんにつられるように、部屋の奥、闇の中から現れたのは、乱れた長い黒髪をだらりとおろし、こけた頬、青白い顔をした女だった。半眼に開かれた目は病的で、口元だけが赤く紅をさしたように鮮やかで、にたぁっと笑う。白衣を着ているところを見ると、生前看護婦だったのかもしれない。
同じ幽霊でもおせんさんとは違う。まるで、肌の色こそ違うが、映画などでよく見るゾンビのようだと感じた。
質が違う。違い過ぎる。恨みや悪意を持つものと持たぬものの違いは、こんなにも大きいのか。
白衣の女からは不気味な赤黒い陽炎のようなものがゆらめいている。半眼の目が狂気を増す。
ガタガタ。ガタガタ。
辺りの物が小刻みに動き出す。中に居た人達も、かすかにこの異変に気付き出し、皆口を閉ざす。恐怖にその場から動けずにいる。
「まずい!」
と言うが早いか、薫が部屋の中へ飛び込んでいく。
「薫!」
慌てて薫を止めようと手を伸ばすが、薫には届かなかった。中から薫の声がする。
「早く出て!」
ビュッ!
ドスドスッ。ガチャガチャン!
「薫!!」
鈍い音と、何かがぶつかり割れる音。音が消えた後を見ると、おせんさんの前には何かの台の様な物が立てられている。あれは…手術台?飛んでくる何かを防いだ様子がかすかに分かる。目を凝らし必死に見てるけど、暗闇の中、はっきりとは見て取れない。
そうか、幽霊同士使える力は同じなのかもしれない。でも、力の差は歴然と思えた。何故なら、お互いの体から出てる気の様なものの大きさや色が違うからだ。おせんさんからは、白く淡い陽炎の様なものが、白衣の女からは赤黒い陽炎の様なものが、おせんさんよりも倍大きく出ている。
侵入者をじぃっと見つめる目は、おせんさんを敵と認識したのか、じわじわと、さらに大きく赤黒い影が立ちのぼる。それは、おせんさんを飲み込もうと、その手を不気味に伸ばしてきた。
私の心臓は、先程から壊れたかのように異常なほどドクドクいってる。
おせんさんは相手の威嚇にも一歩も引かない。ただそこに立つ。今まで見たこともない強い眼光で女を睨みつけながら。
こんな時だけど、私達を守ろうとしてみせるおせんさんの心の強さが、私はかっこいいと思った。
チリチリチリ。カチャカチャカチャ。
また動き出す。第二弾の攻撃態勢に入ったことが分かる。
「薫!皆早く出て!出口はこっち!」
開けた戸のところから叫ぶ。その声に我に返った数人が、音を頼りに跳び出てきた。薫はまだだ。
「薫!!」
今度は先程よりももっと細かいものたちが動く気配がする。一瞬キラッと見えたのは、ガラスの破片たちがゆっくり浮き上がり、切っ先をおせんさんに向けて静止した場面だった。
動きは止んだ。
狙いを定めているの?この無音の瞬間が苦しくなる。張り詰めた緊張が伝わってくる。
シュッ。
トトトトッ。カチャ!カチャン!
「ひっ!?」
中から声がする。
どうしたの?中でどうなってるの?
出口からそっと覗くと、壁にいくつものガラス片が突き刺さっている。
薫は!?薫は大丈夫なの!!?
睨み合う亡霊。私はもう一度声をかける。
「早くこっちへ!!」
その声に反応して、中から薫が最後の一人、カメラマンを連れて逃げてきた。
「薫!」
私はぎゅっと薫を一度強く抱きしめ、
「怪我は?」
「大丈夫!」
「ここから早く出よう!」
こんなの洒落になんないよ!もう二度と嫌だ!
そう何度も心の中で叫びながら逃げた。