亡霊現る
ここ何日か同じことが続ている。稽古場に来ると決まって首から肩にかけて痛みが襲う。さっきまっでは何ともなかったのに―――。
ふぅ、来た時よりひどいな。
だんだん腕や首が滑らかに動かせなくなってくる。
「!!」
またタイミングがずれた!次の音に間に合わせなきゃ。
少しばかり動きを早め次に繋ぐ。
ほっ、間に合ったぁ。
明らかにこの痛みは意志があるようで、これでもか!と私の邪魔をしてくる。なんとか唄が最後まで流れ終わると、しんどさにため息が出る。
「——ふぅ」
鏡の中の自分と目が合う。
疲れた顔してるな…。
「どうしたの。やる気がないなら出て行っていいのよ」
厳しい口調の母から目をそらす。
やる気がない訳じゃない。体が動かないんだよ…。
心の中で呟くことしかできない。左手で右の肩を押さえ、首を動かしてみる。
駄目だ、やっぱり痛いなぁ。
そんな私を見ていた母は、
「今日はもう止めにしましょう」
そう言って背中を向け片付け始めた。
舞台まで時間がないのに…。
こんなんじゃ駄目だと気持ちは焦るけど、母の背中を見ても言葉は出てこなかった。
悔しいけど、これ以上は無理だ。一体どうしたんだろう。こんな事今までなかったのに…。私は病気なの?
母は無言で稽古場を出て行った。
一人床に目を落とし、立ち尽くすしかなかった。涙が出そうになるのをグッとこらえる。
「っ!?」
殺気!?
バッと窓の外を見る。でも、そこに見えるのは静かな我が家の庭と、小さな稲荷社だけだった。
―――誰もいない。
おかしいな?確かに誰かに見られてる気配がしたのに…。
ふっと顔を戻す。
「っ!!?」
鏡に女が!!私の背後に!!
恐怖にぐっと喉の奥が詰まる
声が――――出ない!!
その場から離れようと慌てて後ずさるけど、力の抜けた足は思うように動かなくて、床に尻もちをついてしまった。
間違いじゃない!!幽霊だ!!
私の目はそれをとらえたままそらすことができない!女は私の背後に立ったままの姿でそこから動かずにいる。
誰!?私に恨みがあって出たの!?
さっきまでの痛みは、驚きと恐怖でかき消えている。
始めてみるそれは、長い黒髪を日本髪に結い、粋と思える紫の縞の着物を着て、黄色?いや、からし色と裏が黒の昼夜帯を締めた、いつの時代の人?と思える若い女だった。青白い顔に虚ろな目?それはまだ覚醒していないかのような目をして、鏡の中を見ている。
私に気付いていない?今なら離れられるかも――。逃げなきゃ!
力が上手く入らない手足を何とか動かし、床にお尻をつけたままじりじりとゆっくり出口へ移動していく。
気づいてない。気づいて……ない。気づいて
「っ!!」
ギョロッと目玉が動いた!鼓動が一瞬止まる。目が合った恐怖で動けない!!
来ないで―――!!
私は残る全ての力を使って一目散にその場から逃げ出した。
何なの!?あれは何!?
その夜、幽霊の映像が脳裏から消えることは無く、遅くまで寝つくことは出来なかった。
次の日―――。
睡眠不足と、また襲ってくる痛みとで上手く踊れないでいる。
あ~嫌になる。いい加減にこの痛み消えてよ!
ズキズキする頭に手をやりながら、ぶつぶつと呟く。
「次こそは…次だけは…」
こんな痛みに負けたくなくて、無理やりにでも意識を集中させる。
ズキッ!!
「っ!」
まただ!
ぐっとこらえる。深い深い心の奥から出た言葉は
―――あんたなんかに負けないんだから―――。
―――視界が色づく。
ここは夕暮れ。店先に一人立つ。
ふっと見上げると、薄暗がりの中、ほの白く浮き上がってくる満開の桜。
遠くから鐘の音が聞こえて来る。
掛行燈の灯がほのかにゆらめいた。
世界が変わる――――。
その日、師である母は何も言わなかった。稽古場の角を見ると、またあの幽霊が立ってこっちを見てる。
気づかなかった―――。さっきから同じ部屋に居た筈なのに、何もしてこないんだな。
チラチラと女を気にしつつ、片付ける。
この幽霊、美人だな。昨日は怖さばかりで気づかなかったけど、落ち着いて見ると、目鼻立ちも整っている。ただ、表情は相変わらず何を思っているのか分からないけど…。
さて、そろそろ戻ろうかな。
出口に向かって振り返る。
「!!」
目の前に!!
一瞬ギュッと縮まった心臓を両手で押さえ、小さく深呼吸する。
びっくりするから止めて!急に目の前に立つのは―――。
その幽霊は何を思っているのか、ジッと私を見たまま動かない。
何もしてこないかな…?大丈夫かな…。目が合ってる。どうしようこの沈黙…。
恐る恐る、
「あのぉ、何か…?」
沈黙が続く。返事は返って来ないのだな、と諦めたころ、
「………………良かった………」
「!?」
褒められた?力のない声だったけど、褒めたよね、今。聞き間違いじゃない?幽霊って恨みや心残りとかがあるから出てくるものじゃないの?褒める幽霊って聞いたことあったかな?私はない。やっぱり聞き間違い―――
「……………………おせん……」
「?」
おせん?
また唐突な言葉が耳に届く。私の思考はその言葉に悩み、頭を抱える。
確かに踊っていたのは『おせん』だけど、この歌を知ってる?いや、待って―――おせん?
幽霊を見つめる。
「…………………」
くるっと幽霊に背を向け、両手で頭を抱えた。
今のはおせんと名乗ったの?それとも、おせんという唄の名を言ったの?一体、どっちの事を言ってんのおー!
『おせん』と言ったきり黙り続ける幽霊。
見つめてくるだけじゃ分からないよ。それでなくても、影薄くて無表情なんだから!
もう一度幽霊を見る。
「お願い!もうちょっと詳しく言って!」
お願いするも、頭を悩ませる私に、黙り続ける幽霊。
ズキッ!
「痛ぁ…」
両手でこめかみを押さえ、目をギュッと閉じこらえる。目の前にいる幽霊をかすかに見る。
「この痛み、あなたがしてるの?」
何の返事もない。無言が続く。
「…………………」
答えられないのかな。やっぱり返事を期待するのは無理かぁ。諦めかけた頃、
「………………………………違う……」
―――――今かぁ。
このちぐはぐな間にどっと疲れが増す。
もう少し早く返事がほしいです。
「っ痛ぁ」
その場に座り込む。
「………………来て…………」
痛みをこらえ片目を開け幽霊を見ると、稽古場の出口に立ち、出るよう促しているようだった。
自分の部屋に戻り、ベッドの上に腰かける。すると、痛みは徐々にとれてくる。
昨日もだけど、稽古場を離れると治ってしまう。そして今日も。
幽霊は今も目の前にいるけど、痛みはおさまりつつある。
憑いて来ちゃった…。やっぱ、さっき言ってた『違う』は本当みたい。
では、原因はあの部屋にあるのかな?
それにしても…。
だんだん怖くなくなってきたけど、この幽霊さん、消えてくれそうにないな。
どうしよう…。




