交わりの予兆 前編
早朝のまだ肌寒い2月の稽古場。チャン チャチャン。チャ チャン。チャン チャン。鳴り続ける三味の音に合わせ、軽やかな太鼓の音も混じる。
長椅子に腰かけ黒塗りの盆で顔を隠す。耳を澄ませて音と音の間に集中する。
今だ!
スッと立ち上がり、カタカタカタッと下駄を鳴らしながら前へ出る。おっと、とよろけ、盆を下へ開け顔を出す。
目の前の鏡にその姿が映る。白地に紺の吉原つなぎの浴衣、白地に黒のラインと、そのラインに絡みつく様に藤の小柄が入った半幅帯を一文字にキリッと締めた自分がいる。色白の肌は、既に何回も踊っている為、ピンク色に蒸気し、少し疲れが出ている。
暑い。ジワリと汗が背中に滲む。
板の間に座布団を引き、厳しい視線を向け座っている母は、私の日舞の師である。
プッ。音が止まる。母は立ち上がり私の隣に来ると、
「ここはもっと肩を落として―――」
と、見本となる姿勢を作る。
なるほど。
私も同じようにまねる。
すると、うん、と満足気に頷く。
今踊っているのは、小唄『笠森おせん』。このおせんという女性は、江戸の頃実際にいた人物で、その美しさから錦絵、手ぬぐいなどに描かれた人物らしい。これは怪談話の序幕舞台の一場面。
鏡に映る母は、「それと、あとここも、少し首を傾けて―――」と次から次へと私への要求は尽きることがない。一つ良くなると、また次へと増える。
これ以上はもう入らない。私自身、そろそろ限界がきている。
チラッと壁に掛けられた時計を盗み見る。
あと少しで…。
母もチラッと時計を見た。「フゥ」と息をつくと
「今日はここまでにしましょう。生徒さん達がそろそろ来てしまうからね」
その一言にホッと肩の力が抜ける。
やっと終わった―――。
その場に膝を揃え座る。両手を前につき、一度師を見る。目が合ったことを確認し、シャンと背筋を伸ばし頭を下げる。
「有難うございました」
稽古場に私の声が響く。盆と下駄を片付け、一言呟くように、
「…難しいな」
と言うと、
「大丈夫よ。舞台まではあと少し時間があるから。それと、おせんって女性はね、か弱い女性ではなく、芯の強い女性なのよ」
という。
そうだよねぇ。だって、お姉さんの敵を討った女性だもん。泣いてばかりの弱い女性では決してないよね。
片付けが終わり、稽古場から出ようと扉に手をかける。、
「まぁ、頑張りなさい」
私はうん、と頷いて廊下へ出た。
目の前には、妹の薫が壁に寄りかかって待っていた。
「なんだ、そこに居たの?」
薫は私と4つ歳が違うけど、身長は既に拳一個分私より高い。黒髪は腰のあたりまで伸ばし、割と美人タイプだと思えるけれど、友人、知人は、中世的でカッコイイと言う。顔のパーツは私と似ているのに、私はそんなこと一度も言われたことは無い。どちらかと言うと日本女性らしいと言われることのが多いかも。
私の顔をジッと見てる。
「どうしたの?」
「大変そうだねぇ」
薫の前を通り過ぎながら、
「変わってくれてもいいよ」
と言うと、薫は少し笑って、
「残念。私、今受験中。後1ヶ月しかないからね」
自分の都合の良い時だけ受験という言葉を持ち出す。
調子がいいんだから…。
自分の部屋に戻ろうと廊下を歩いていくと、薫は両手を頭の後ろで組んでついてくる。
「ねぇ、その『おせん』がいた笠森稲荷って実際にあったんでしょ?」
「らしいよ。今は何処かに移されてるらしいけどね」
我が家はちょっと木造和風の造りになっていて、庭も小さいながら和風庭園と呼べるであろうものがある。趣のある竹垣に囲われた庭のはじには、小さな稲荷社がある。廊下の窓越しに見える庭に目をやり、二階へ向かう。
薫は言葉を続ける。
「だったらさぁ、行ってみない?」
階段を上がりきる。
稲荷社かぁ…どうしようかな。少し迷うな。
「舞台近いんでしょ。気分転換になるかもしれないよ」
薫は昔から稲荷社と相性が良いのか、あの朱い鳥居を見ると行きたがる。私はあの鳥居に近付くと、変な違和感を感じて近づきがたい気持ちになる。だから庭の稲荷様にもあまり近づかない。他の神社は好きなのだけど、本当に不思議。
「薫は受験でしょ。そんなことしてていいの?」
素っ気無く言う私の言葉にも気にする様子もなく、
「私は庵姉の気分転換に付き合いつつ、足を延ばして天神様にでも合格祈願するかなぁ」
薫の言葉を聞きつつ、フッと今朝見た夢を思い出した。