第3話「再生の秘儀」(改定)
神土 征四郎が目を覚ますと、そこは暗闇だった。
何者かの声を聞き、会話を交わしたような気もするが…。
そもそもは、戦場に居た筈だ。
否、見知らぬ地で空を見上げていた筈だ。
それとも、双方共に夢の出来事だというのか、と征四郎の思考は混乱していた。
「夢、ではない。」
淡々とした声が聞こえた。
聞き覚えのない、少女の声にも聞こえる。
いや、如何だろうか、本当に聞き覚えが無いといえるのか。
それに、子供らしさはまるで感じない老成したような、ある種の諦観にも似た声音。
そんな声を発する者を少女と呼んで良いものか。
「少女、でもない。」
再び響く声。
先程までの状況と一変しすぎている。
混乱をきたしながら身を起こして周囲を見渡した。
粘つくような奇妙な音が響いたが、特に問題も無く視界は高くなった。
暗闇に視線を凝らすも何も見えてはこない。
何なのだと毒づく前に気付いた、身体に痛みが無い事に。
やはり夢だったのかと自身の体の状況を確かめるべく腕を腹に伸ばす。
ぐちゃりと指先が腹にめり込んでいくような異様な感触に、征四郎は粟立つような寒気を感じた。
「貴公は、貴公だ。肉体が変容しようとも、意思が己を己足らしめる。過去の賢人が言ったのであろう?我思う、ゆえに我あり、と。……生半可な意思では、飲まれるぞ?」
忠告のように、三度言葉が響いた。
途端、暗闇に微かな光が差した。
そこで征四郎は自覚する、肉体は人のものとは思えぬ形状に変わっていた事に。
言うなれば、泥濘。雨が降れば塹壕の底に溜まっていたあれだ。
腕だと思っていた物は、隆起した泥濘だ。
高くなったと思っていたのも、ただ隆起した泥濘からの視界だったのだ。
黒く、蠢く一塊、或いはタール状の何か。
これでも征四郎は征四郎であると言えるのか。
自身に対する認識が揺らぐ。
この泥濘に脳などあるのか?
無いとするならば、何故私は私として思考している?
私は、一体何なのだ?
その様な思考の袋小路に征四郎が嵌った際に、見えざる力に引っ張られている事に気づいた。
蠢く塊である泥濘、タール状の征四郎は微かな明かりでは到底見通せぬ深遠へと、引きずられ出していた。
何が起きているのか、最早自身の眼球で見ているのかすら分らなかったが、征四郎はじっと深遠を見詰めた。
ああ、何かがそこに居る。
「原初の存在だ。貴公、原初に帰るかね?」
征四郎には最早、その声を気にする余裕は無かった。
何故ならば、見えてしまったのだ、深遠に存在する何者かの姿が。
それは、黒く巨大な泥濘の塊であり、のたうつタールであり、不定の狂気である。
今の征四郎を何十倍にも膨れ上がらせたような巨大な塊だ。
その周囲には薄暗い霧が立ち込め、その周囲には血だまりの様に黒い泥が点在している。
そして、その巨大な塊から奇怪な生物が絶え間なく生み出され無意味に争い合い、貪り合っている。
このままでは引きずり込まれ取り込まれる、と征四郎は恐怖を覚えて必死に抗っていたが、ずるずると体は引きずられていく。
不意に、征四郎の胸中にこの世の全てはアレから生まれたのではないかと言う妄想が、鎌首を擡げた。
そんな馬鹿な話があるかと、体を震わせるも今の征四郎はただのタール状の何かだ。
ずる、ずると引きずられる中、こんな恐怖に晒されるのならばいっその事、黒い塊に飛び込んでしまえば良いのだと征四郎は自棄を起こして思う。
自分が自分でなくなるような感覚に晒され続ける恐怖は冷静さを奪い、理性を駆逐していくのだ。
ああ、そうだ、そうしよう……征四郎はそう考えて抗う事を止めようとした。
(約を果たさずに…恐怖に飲まれて、消え逝くか?)
…不意に征四郎の胸中に浮かんだ言葉、一瞬それの意味が分らなかった。
自身の思考であるはずなのに、その一方で征四郎は思考を放棄していた。
その体の形状に相応しい単純且つ単調な思考に陥っていた。
そう、征四郎は原初の生物に還ろうとしていたのだ。
そのことに気付いてしまうと、恐怖が胸中に止め処もなく溢れ出す。
恐るべき事だ、実に恐るべき事だ。
理性が放つ警鐘が、今や征四郎の愚かな感情を塗りつぶしていく。
そうだ、そうだとも、恐怖に飲まれて私が消えて、何者かと混ざり合うような出来事など認められない。
アレに飲まれてしまえば抵抗できる筈がないじゃないかと、今更ながらに思う。
足掻け! 足掻いて、足掻いて、それで駄目ならばまだしも、今の状態はまだ足掻きが足りないと征四郎は己の意思に鞭を打つ。
足掻く一方で、征四郎は今の体が匂いも感触もいま一つ理解できぬほどに退化していることを喜ばねばならなかった。
人の体のまま、人の脳髄のままここを訪れていたならば、永劫に狂気の世界から逃げ出せはしなかっただろう。
そうであれば、抵抗する間もなく飲み込まれていたはずだ。
冷静に思考する一方で、征四郎は何時しか絶叫を上げていた。
それは声にはならず、空気を震わせることも無くただただタールのような身体が激しく蠢いていただけだが、明らかな変化が生じた。
引きずられていた身体が…既に身体と呼べるものかは不明瞭だが…巨大な蠢く塊より逃れられたのだ。
実の所、引きずられてなどいなかったのでは無いか。
自ら無に帰ろうとしたのでは無いかと言う気すらして来た。
其れほどまでに、今となっては逃れる事が容易くなっていた。
「原初の存在は貴公など歯牙にもかけない。全ては自身の中に。進み消えるも、戻り保つも。だから貴公、それで良い、それで良い。さ、戻るが良い。」
またあの声が響いてきた。
相も変わらず淡々としていた物であったが、何処か安堵に似た響きが伴なっているように感じた。
ともかく、原初の存在とやらから逃れる為に征四郎は必死に足掻く。
慣れないタール状の体を懸命に動かし、恐るべきモノより逃れる為に体を動かす。
そして、一体己は何処の誰で、どのような姿形であったかを強く思い描いた。
自分自身の名を、如何なる人生を送ってきたかを。
そして、何を生業としてきたかを。
原初の存在から離れれば離れるほどに、征四郎の思考ははっきりとしてくる。
己は、己だ。
そうだ、神土征四郎だ。
皇国軍人の神土征四郎だ!
自身で自己を定義できなければ、ただ飲み込まれていくのみ。
そう強く念じていると、いつしか征四郎は自身が二本の足で駆けている事に気付いた。
恐る恐る視線を下に下げると、其処には見慣れた身体があった。
衣服を全く着ていない状態であり傷が全て完治している。
夢か現か分らないが、先程までの存在が消失する恐怖に…他者と混ざり合い己が泥濘となり、何か良く分らないものに変化する恐怖に較べれば、この程度の変化はどうと言うことは無かった。
「肉体の再定義は終わった。怪我も癒えた様で何より。もう少しで、貴公はこの世界で生きていけるようになる。」
あの原初の存在を垣間見てしまった今となってはこの淡々とした感情の見えぬ声すら愛おしい。
姿が見えぬ以上は、とてつもない化け物の可能性はあるが。
暗い霧に満たされた空間で泥濘の中横たわるあれに較べれば大抵の…。
其処まで考えて、不意に思い出した。
いや、待て。この声はどこかで聞き覚えがある、と。
「忘れていたのか?無礼な奴だ。」
自身の身体があることを、視覚のみならず掌で確認している折に響く声。
すまないと言葉を発しようとして、漸く征四郎は不可思議な事に気づいた。
自身は声を発していないというのに、会話が成立している事に。
……思考を読み取る妖怪の話は、民話に良く聞く話だ。
であれば、今更何を騒ごうと言うのだ、魂の消失や、存在の変容、良く分らない物との同化と言う忌まわしくも恐るべき物を見聞きし、その危機に晒されていたのだから。
「…人の身では忘却は安らぎか。だが、貴公は約を違えぬと告げたと聞く。――。さあ、目覚めよ、神土 征四郎。余との約を果たす為に。」
目覚め。
ああ、自分は眠っていたのだろうか。
呼び声に答えて、征四郎は目を覚ます。
夢であって、夢では無いこの不可思議で恐ろしい空間から目覚める為に。
双眸を開けば、そこには視界いっぱいに光が満ちている。
目が慣れてくると、相変わらず空には一つきりしかない恒星が浮かんでいた。
見上げる空は青々と広がりを見せている。
空の青さ、恒星の輝きに双眸を細めた途端、不意にフードで額まで隠されながらも、美しいと分る顔立ちの娘が私の顔を覗き込んできた。
「目覚めたな、良くぞ生きていた。」
その古めかしい物言い、先程まで聞いていた声によく似ている。
淡々としていながら、何処か暖かさを感じさせる声音。
言葉を返せぬままに娘を見詰め続けた。
美しい顔立ちでありながら、異質なのだ。
フードより零れる髪は白金色。
肌の色は薄い褐色で、これが健康的に日に焼けているのか元からなのかは判断しづらい。
瞳は煌くような翡翠色であるが、瞳孔が縦に長く蛇を思わせる双眸は、僅かながら嬉しげに細められている。
鼻筋は通っているが、口元に僅かに浮かぶ笑みは何処かで見た事が在る類の笑みだ。
さて、何処で見た類の笑みだったか…。
何か引っ掛かりを覚えながらも、私は娘が異質な部分を含めて総じて美しいと感じていた。
纏う衣服は、フードの付いたカーキ色のローブのようだ。
少し視線をずらすと、その臀部から驚くべきことにトカゲの様な尻尾が生えている。
異様な姿であるにも拘らず、征四郎は嫌悪も驚きも無く当然のことのように受け止めていた。
当然だ、征四郎は彼女に会った事が在るのだから。
「…ロズワグン=ナグ?」
不意にその名前を思い出した。
そうだ、私は彼女に出会っていた…と征四郎ははっきりと思い出す。
砲雨降り注ぐ戦場から、この地へと追放された際に。
謎の男に送り出された先で、数多の邪悪が跋扈する場面を垣間見て、精神が疲弊しきり後少しで狂うという段になり、この声が響いたのだ。
降霊術の最中に、死に掛けていた征四郎の魂と接触したと彼女は言っていた。
幾つか言葉を交わした後に彼女は言ったのだ、貴公は面白い、どうせ死ぬなら余の元に来たれ、と。
酷い話であるが、征四郎は思わず了承してしまったのだ。
何故に了承したのかは、今となっては征四郎自身にも不明だ。
あの空間での出来事は、彼女の言に寄れば時間と空間を渡るという行為の代償だが、非常に恐ろしい物であった。
今しがた、体験した夢のような空間での出来事に勝るとも劣らない程に。
おかげで征四郎は心身ともに死に掛けていたと言える。
それを救ってくれたのは彼女であるかも知れないと、感じたためだろうか。
いや、理由など如何でも良いのだ。
征四郎は約束を交わした、故に守るのみである。
約束とはそう言うものだ、だからおいそれと交わしたりはしない。
「では、改めて。おはよう、神土 征四郎。」
微笑を浮かべそんな他愛も無い言葉を告げる死霊術師に微かに笑みを浮かべて、征四郎は身を起こした。
自分が本当に生きているのかを確かめる為に。