その90
幸せ、というのは人を強くする。
例えば大好きなあの人と結ばれたとすればその幸せに支えられなんでもやってやろうという気になるだろう。
あるいはこの幸せを守るために奮起することができるかもしれない。
幸せでなくても幸せになるために頑張れたりするかもしれない。
そういう意味で幸せは人を強くすると思う。
俺もそうだ。
美しく優しく強く、そしてか弱い女神様。
そんな女神様と結ばれた俺は生涯に渡って彼女と共にある幸せのためあらゆる壁を打ち破れると確信を持って言える。
「ああああああああああああ!!!!」
しかし、幸せは人を弱くする。
今ある幸せを守るために必死になって周りが見えなくなったり。
あるいはその幸せを失い深い深い絶望の底に落ちてしまったり。
何かのきっかけで感じていた幸せを幸せと感じられなくなり、幸せを失った反動で人は戸惑い、迷い、折れてしまう。
大きな幸せであればあるほど、失った時の反動は計り知れないほど大きく。
そう、俺は少しばかり彼女と結ばれた幸せに油断をしていたのかもしれない。
「ちくしょおおおおおおお……ッ!!」
だからこそ、異界に俺の叫び声が響いているのだろう。
周りには俺以外に誰もいないから、その叫び声を咎めるものは居ない。
俺もその叫びには共感できるところがあったので耳につんざくその叫び声を聞いても嫌な顔なんてするはずもなかった。
そう、響き渡る叫び声。
それは俺のであって俺のではない、別の存在の叫びであった。
俺の目の前で悔しげに地面を拳で叩きながら深い絶望の叫び声を上げるその存在は、まるで生き写しのように俺と同じ姿をしていて俺と同じその顔には血の涙が止めどなく流れていた。
「なんで……なんでこんな残酷なことにいいい!!」
俺と同じ姿をした彼は叫ぶ。
その声に俺はつい今しがた起きてしまった不幸な出来事を思うのであった。
愛すべき女神様と一つになってから一週間後のこと。
俺は今日も今日とて異界浄化のお仕事のため異界へと赴いていた。
絶大な力を運良く持っている俺にとっては、異界の魔物など敵ではなくいつものように目についた魔物を蹴散らして順調に事を進めていた。
しかしながら簡単に倒せるとはいえ、この仕事はなかなかキツいものがある。
異界の魔物は肉団子だったり人の腕や脚が数十本生えたものだったり数十種類の動物の目をもつ球体だったりと、基本的には異形そのもので視界に入る度に気が滅入るのだ。
その鬱憤を晴らすために少しばかりオーバーキルな威力の魔法を放っているが、こいつらに血肉というものがなくて本当によかった。
ただでさえキモいのにスプラッタな死に様を見せられたら堪らないっつの。
そうして精神的な疲労を少しずつ蓄積させながらも魔物を殲滅し、残り僅かというところでそいつは現れた。
異形ばかりの魔物としては珍しく、そいつは完全に人と同じ形をしていて、まるでそこだけ黒く塗り潰されたように真っ黒で棒人間とかを彷彿とさせる。
それを見た瞬間、笹倉さんのお祖父さんから聞いた話が脳裏に蘇る。
曰く、姿形の整った魔物には気を付けろ、そいつは他の魔物とは比較にならないほど強い、と。
そんな話を思い出し、しかしながら魔王とさえ互角にやりあった経験もあった俺はそれでも軽く考えてしまった。
その油断に足をすくわれたのは直後のこと。
「――――な!?」
黒い人型のそれは力強く踏み込み、その身体を一気に加速させた。
それは俺自身の能力から考えれば捉えきれない程ではなかったが、しかしその速度で動かれることは想定していなかったせいで反応が遅れ、接近を許してしまった。
そして黒い人型はそのまま俺の頭を掴むと何かしらを奪い取っていったのだ。
しかし油断していたとはいえ完全に緩んでいたわけもなく、即座に密度を高めた魔力をぶつけそいつを弾き飛ばして距離をとる。
それから集中を高めてそいつを睨みつつ、俺は自身に異常がないかを確かめて……特に何も異常を見つけられないことに困惑した。
確かに何かしら力のようなものを奪われた感覚があったというのに魔力が減ったわけでも酷く疲れるといったこともない。
毛根だって無事である。
あの時感じた奪われた力が何か、それは分からないが量は相当のものであったと感じたはずなのに。
あるべき異常がないという異常。
途端目の前の黒い人型の脅威度を最大限に引き上げて身構える。
「……なんだ?」
しかしその人型はなぜか動かない。
先程吹き飛ばした際に倒れまいと仰け反り必死に地を足で掴むかのような体勢のままだ。
が、次の瞬間異変は起こる。
異界の中に漂っていた魔力が忽然と動き出し、黒い人型を中心にして渦を巻く。
高密度に集まった魔力が視界を阻んでわかりづらいが、どうやら人型に魔力が流れ込んでいるらしい。
咄嗟に火の槍を放つ魔法で牽制をいれるもその魔法すら渦に取り込まれ魔力に分解されてしまい、それを見て下手に手を出せば余計ややこしくなると判断して、何が起きても反応できるよう意識を集中して推移を見守った。
そして魔力の渦が巻き起こって数十秒。
暴虐なまでの魔力の渦は始まりと同じように忽然と消失し、後には人影が一つ残されていた。
それはもう黒い人型ではなくなっていて、そして酷く見知った姿をしていた。
即ち、俺の姿そのものに。
「「………………は?」」
そしてそれは意思を持っていたようで、同時に口から漏れた同じ声が重なったのであった。
さて、どういうわけか俺と同じ姿をしたこいつには理性があった。
なんなら俺と同じ思考をしているとも言えるこいつと色々話をしたりしてわかったのは、目の前のこいつはドッペルゲンガーであり、エージ、そしてビージと同じように俺の分体という扱いであることが判明した。判明してしまった。
そう、久保田くんからも噂話に聞いていたあのドッペルゲンガーは実際に異界に生まれ、ふらついては誰かの魂を奪おうとしていたらしい。
ニュートが名を得て存在を確立したように、そいつは誰かの魂を奪って存在を確立しようとした。
しかし魂と肉体との結びつきは強固であり奪おうとして奪えるものでもなく、出会った人々は結局一時的に意識不明になる程度だったわけだ。
まさかあのオカルト記事のほとんどが事実だったとは驚きである。
その辺のことがわかったのは目の前のこいつがドッペルゲンガーとしての知識と記憶、さらには異界に漂う情報へのアクセス権を持っていたからだ。
で、魂である。
普通魂とはそれが宿る肉体と強く結びつき、死ぬまで離れることはない。
しかし世の中にはなんか魂が肉体から離れ、もっと言えば分裂して尚ピンピンしてる異物が存在する。
そう、俺だ。
誠に遺憾ながら俺は色々魂の機能がバグっているようで、だからこそ俺の魂を奪えちゃったドッペルゲンガーは俺の分体として覚醒したのである。
なんだそれ。
そこまでわかった段階で目の前のこいつにはデージと名付けておいた。
ドッペルゲンガーのDというわけだ。
そして、その後デージが不意に気づいたのだ。
女神笹倉さんの存在に。
誰がその女神と結ばれたのかを。
かつてエージとビージが生まれた時、俺はまだ笹倉さんを遠くから見ているだけだった。
その時の俺の記憶しかない状態だった二人はそうダメージを負うことはなく、切り替えも早かった。
だが今目の前に生まれたばかりのデージは。
悲しいことに俺がこいつに出会うその瞬間までの記憶をそのまま保持してデージは爆誕した。
そして記憶に気づき、その瞬間にデージはそれがオリジナルである俺のものであって自身は引くべきだと即座に決断したようで。
「雄二!! 当然だが、笹倉さんと結ばれたのは、俺じゃねえ! お前だからな!!!!」
そうハッキリと告げたのである。ただし血涙を流し鬼の形相だった。
言われて俺もその問題があったことに気づき、そして揉める前にデージに解決されてしまったことに若干拍子抜けしつつもそんなデージの決断に俺は大いに感動した。
そして現在に至る。
「ぐそおおおおおおおお、あんまりだあああああ」
精一杯の決意をもって笹倉さんとの繋がりを諦めたデージだったが、その絶望はしかし軽いものではなく。
その絶望にデージは尚も慟哭していた。
「なんならさ、一発だけ俺のこと殴っておくか?」
いたたまれないその姿にそんな提案をしてみるが、それを聞いたデージはキッと睨む。
「それをすれば笹倉さんが悲しむ……愛する人を悲しませるなど……いやこれは俺の記憶だけど俺のじゃない? いやでも……くそ、くそっ!!!! くそおおおおおおおおおお!」
「あー……うん、今は気が済むまで叫ぼうな」
提案を否定し再び情緒不安定になって叫び出す。
そんなデージの姿は俺がずっと胸にいだいてきた信条の体現のようで、不謹慎かも知れないがちょっと誇らしい。
だがもし、この絶望の果てにデージが折れて入れ替わりとかを目論んで来た場合は俺も誠意を持ってそれを受け止めよう。
そう胸に誓い、今はただただ泣き叫ぶデージを見守るのであった。




