その104
制御を離れたゲートが変じてできた空間の穴から出てきたのは、全身を黒い靄に覆われたかろうじて人型であると認識できる何かだった。
穴から音もなく出てきたそれはその場に立ち尽くし、その輪郭すら靄で不確かな中、紅く光る瞳だけがはっきりと浮かびその双眸がこちらをジッと見据えている。
どこか不気味な雰囲気と威圧感を放ち、そこから感じる強大な力に俺ですら少し圧され背中を冷たい汗が這う。ちらりと笹倉さんの様子を確認すれば彼女も警戒している様子だが気圧されている様子はない。
そんな俺の視線に気づいたのか笹倉さんがこちらを見ると小さく笑う。その笑みからは強い信頼が感じられ、そして目には戦意に溢れていた。
……なるほど。信頼には応えないとね。
そう気合を入れ直した所でこれまで身じろぎ一つしなかったそいつはついに口を開く。
『ふっ、なるほど我を前に気を保つか。最低限の資格はあるらしい』
無機質で二重に聞こえるその低い声が発せられるだけで大気が震えたように感じられ、その声が耳に届けば得も知れぬ重圧が肩にのしかかる。
先程から繋がりが戻った感じもないし、やはりエージではなく別の何かを呼び出してしまったのだろうか。
「お前は……何だ」
『我が何者かだと? ハッ! 言わずとも分かっているだろう。貴様が求めたのだ、悪魔を!』
戦闘態勢のまま告げた俺の問いにそいつは気を悪くするでもなく、楽しげに応え両手を広げてこちらを見下ろし、口元の靄が裂けるように上下へ分かれると血のように赤い口が三日月を描く。
その瞬間空気がさらに重苦しくなったように感じた。
そんな中、その悪魔と名乗る何かは言葉を続け――――
『さあ、言え。望みがあるのであろう? 貴様には資格がある。魂と引き換えに願いを叶――――』
――――突如異界部屋へと乱入してきた存在による一撃を受け言葉が途切れた。
一撃を受けた悪魔はそのまま異界部屋の壁すらぶち破り外へとはじき出され、異界の地面へと叩きつけられ噴煙を撒き散らした。
突然の状況変化に思考がまとまらずそれを成した存在へと視線を向ければ、綺麗な朱色の髪を揺らめかせ、赤黒いオーラを全身に纏うルミナスさんがそこに居た。
どうもお怒りのご様子な彼女は拳を勢いよく振り切った体勢のまま険しい表情でぶっ飛ばした悪魔へと視線を向けている。
彼女の視線を追えばちょうど噴煙が消え去るところで、その噴煙の中にいた悪魔はあの謎の黒い靄がなくなっていてその姿かたちをはっきりと捉えられるようになっていた。
「そういうことかよ」
「びっくりしたー……」
それを見て俺は目を見開いて驚き、次いで大きく肩を落としてため息を吐く。笹倉さんも状況を察して胸を軽く押さえ息を吐いていた。
ルミナスさんの一撃を受け、情けなくも腹部を抑えてプルプルと震え、忌々しくも俺によく似た顔で苦渋の表情を浮かべているそいつは紛れもなくエージであった。
その姿を見てルミナスさんは息をゆっくりと吐き、全身を覆っていたオーラを引っ込める。
それからゆっくりとエージの方へ歩み寄り、先程勢いよく破られた結界の側まで近寄るとそこから異界には出ずにエージを見下ろすと、静かな声でルミナスさんはエージに語りかけた。
「のう、エージよ。一人残されたときの絶望がどれほどのものだったか分かるかの」
「……一人にしたのは悪かったって思ってる。でもあの時は」
「ああそうとも、そうするしかなかったのだろうよ。……それが分かっていたからこそ自己崩壊すら招きそうな絶望の中で我は生きることを選んだ。お主の覚悟を無駄にしないためにもそう選んだのだ」
そう言ってあの時のことを思い出しているのか少し遠くを見るルミナスさん。
エージもその表情に思うところあったのだろう、どこか気まずげにして口を閉ざした。
「だがの、我は絶望した挙げ句に諦めてしまったのだ。そこのユージは信じていたのに他ならぬ我がお主の無事を信じてやれず心を癒やすため深い眠りの中に落ちたのだ」
「いや、それは雄二が馬鹿なだけだから……」
その会話に俺は少し思うところはあったが、邪魔できる雰囲気でもなかったので今はそれを無視。
しかし、ルミナスさん俺が考えてた以上にエージのことを想ってたんだな。
そんなふうに考えているとルミナスさんがさらに話を続ける。
「だというのにお主はこんな短期間のうちに戻ってきて、その気配に我は飛び起きたわけだの。その瞬間どれほど嬉しく思ったか……。そして諦めてしまった自分をどれだけ悔いたことか……。ああ、それでも! お主が戻ってきた喜びのほうが大きかった。すぐに会いたいと、そう思ってここへ来たのだ」
「ハハ、ルミナスにそんな正面から言われると少し照れるな」
「だというのにお主は……お主は……」
と、そこまで言った所でルミナスさんが顔を伏せる。
その体がふるふると細かく揺れていて、まさか泣いているのだろうか、と思ったその時。
ルミナスさんの全身を再び赤黒いオーラが纏い、彼女を中心に風が渦を巻く。
同時に彼女から圧倒的な力の波動を感じ取り、その力に俺の意思よりも早く反応した体が周囲を結界で囲う。
「貴様という奴は!!」
「え、ちょ」
先程までのどこか悲しげな様子は途端に消え、激しい怒気を撒き散らしながらルミナスさんがエージを睨む。
そしてそのまま一歩踏み込むと一瞬で間合いを詰め、いつの間にか鋭い刃のごとく伸びた爪で襲いかかった。
一振りごとに異界の地面が綺麗に斬られていくほどの威力なのだがエージはそれを焦った声を上げながらもほとんど避け、あるいは完全に受け止めていた。しかもその動きにはどこか余裕すら見える。
外から見ている限りあの猛攻を耐えるのすら相当に厳しそうなのにあっさりそれを可能としているところを見ると、どうやら悪魔になった関係かエージのスペックがだいぶ向上しているようだ。
ざっと探った感じ今のエージの能力は共有されておらず、そもそも例の繋がりも無いようなのであいつ単体でそれだけの力を身に着けてきたらしい。呆れると同時に少し恐ろしい話である。
「ちょ、待って、ごめん事情を! 事情説明プリーーーズ!!!」
「分からぬか! ああ、そうだろうの! 逸る気持ちを抑えて来てみれば茶番を繰り広げる貴様の姿を見た我の気持ちは分からぬだろうて!!」
「あ。……そ、それは本当にごめん!!!」
猛攻の中どういった理由でルミナスさんが怒り狂っているのか、その事情を聞いたエージは不意に避けるのをやめた。
そして謝罪の意を叫びながら、漆黒になるまでオーラを集めた拳の一撃を真正面から受け地平線の彼方までぶっ飛ばされていった。
そこまでやってルミナスさんも気が済んだのかようやくオーラを霧散させると、一つため息をついてエージが飛んでいった方へと飛んでいく。
そうして彼女の姿も見えなくなった頃。
その反対方向から飛来してきたそいつは土下座の姿勢で地面を滑ってきた。
「――――いませんでしたーーー!!!! ってあれ、ルミナスは?」
「……あーあ」
案の定そいつはエージで、その顔を見るに地球一周してきましたーとかそういうくっそうざいギャグを披露したのだろう。ここ異界だけど。
なんだろう最初の茶番といい今のといい、こいつ悪乗りがすぎるのではないだろうか。
こっちに戻ってくるまでに一体何があったのか非常に気になる。
だが、それを聞けるのはもう少し後になりそうだ。
エージの背後に静かに降り立った怒りの化身を見てそう思う。
「はあ……全部済んだら部屋に来てくださいねー」
どうやらしばらく出来ることは何もなさそうなので当事者に任せ、俺は最低限のことだけ伝えると結界を直し部屋に設置してあるソファへと腰を下ろした。
その隣に笹倉さんも同じように腰掛けて、ため息を一つ。
「……明らかにテンションとかおかしかったよね?」
「まあ、色々あったんだろうけどな……はあ」
心の底から望んでいたはずのエージとの再会。
しかしそれを喜ぶ間もなくあのアホ自身の行動によってしっちゃかめっちゃかにされた今。
果たして俺はあいつの帰還を喜んでいるのか分からなくなった。
まあ、少なくとも。
どこか安心感を抱く自分が居ることだけは認めなければならないだろうが……。
「はあ……」
また一つため息が零れた。




