写真館のダンジョン
巨大なレンズの形をした扉を通り抜け、ミウは暗いダンジョンに足を踏み入れた。扉が開く瞬間、超新星のようなフラッシュを浴びた。その眩しさがまだ残っている。まばたきをするたびに、黄緑や薄紫の光が宙に増えていく。
何度もつまずきながら、ミウは階段を下りた。しぱしぱとついてくる光の残像が、まるで何かを警告しているようだ。
「暗くて何も見えないなあ」
ダンジョンというのは、地下に造られた迷宮や監獄のことだ。たいていはおかしな仕掛けがしてあったり、恐ろしいモンスターがいたりして、簡単には先へ進めない。ミウは壁づたいに歩きながら、懐中電灯を持ってこなかったことを後悔した。
幸い、出てきたのは蚊だかモンスターだかわからないほど小さな生き物ばかりで、時々腕に止まられたが痛くもかゆくもなかった。
目が慣れてくる頃、ようやく最初のフロアにたどり着く。そこには、茶色いキャスケット帽をかぶった男がいた。
「あの!」
ミウは走っていこうとしたが、男が真剣に床のゴミをこすって剥がしているので、終わるまで待った。
やがて男は顔を上げ、こんにちは、と言った。かなり若そうだ。汗と埃で汚れているが、はつらつとした顔をしている。
ミウはそっと近づいた。
「あの、兄がこのダンジョンをめちゃくちゃに壊してしまったと聞いて……本当にすみません」
「えっ」
男は急いで立ち上がり、ミウをじっと見た。シニョンに結った髪から顔へ、冒険用の黄色いスーツと靴にまで視線を走らせる。
「それじゃ、君は」
「水野未生といいます。兄がご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」
「いや、いやいや、ちょっと待って!」
男はタオルで顔を拭き、胸の名札を両手で持って見せた。
「俺は掃除ギルドのタイガ。このダンジョンには派遣で来てるだけで、持ち主でも何でもないよ」
「えっ。あっ、そうなんですか」
「そうそう。確かに水野さんが三日前、ここの五階と六階をぶち抜いて大騒ぎになったけど、まあ、いつものことだから。飛び散った破片なんかはもう片付けたし」
「そうだったんですか。重ね重ねすみません」
ひょっとして、この世界には賠償金という概念がないのかもしれない。そうでありますように、とミウはこっそり祈った。
「君……ミウ、どこから来たの?」
タイガはふいに言った。ミウは顔を上げ、えっ、と聞き返した。
「私は……私は」
自分の出身地や家など、すらすらと言えて当たり前だ。なのにそれが出てこない。ここへ来てからのことばかりが頭に浮かぶ。強いフラッシュ。暗い足元。おぼろげに見えた、壁の写真。おびただしい数の写真。目を凝らすと、フロアの壁にもびっしりと写真が貼られている。
「この町に住んでるの?」
「違います……私は」
「お兄さんの下の名前は?」
「何でそんなこと聞くんですか」
冷たい風が吹き抜ける。壁の写真から写真へ、空気が移動しているようだ。真正面に貼られた青い目の少女の写真が、一瞬動いたような気がした。周り中から、得体の知れない視線がミウを見つめている。
自分はどこから来たのだろう。駅のそばの小さな事務所。スーパーマーケットの地下倉庫。お菓子売り場から鳩が飛び、耳をかすめていく。
階段を駆け上がる音が響き、気配が近づいてくる。ミウは体を縮ませた。
「タイガー!」
きらきらと光が飛び散り、深い海の底のような色のローブをなびかせて、誰かが通り過ぎていく。
「僕のほう、もう終わったから先帰るね!」
「あっ、ちょっと、水野さん」
タイガが呼び止めるのも聞かず、その人は竜巻のように天井へ飛び、消えてしまった。水滴が宙に漂い、ミウはしばらく見つめていた。
「あれが私の兄ですか」
「こっちが聞きたいよ」
「ていうかあの人、先に帰っちゃっていいんですか」
「ダメだよねえ」
水滴が弾けて消えていく。ミウは兄との思い出を探そうとした。十五で家を出ていったきり、一度も戻らない。トロンボーンに乗って旅をして、いつの間にか漁師になっていた。固い音符を餌に、空から女性を釣る。何人も何人も、飽きるまで釣ったら雨とともに空へ返す。
そんなことがあるはずもなかった。
「あーっ!」
突然タイガが大声を出し、ミウは現実に引き戻された。
「ミウ、もしかして、傘ささないで来た?」
「傘?」
「やっぱり!」
タイガはミウの腕をつかんで引っ張っていき、壁の写真を指さした。小さなトイプードル、赤く染まった楓の木、颯爽と雪山を滑り降りるスキーヤー。
「これはみんな、このダンジョンを訪れた人の記憶なんだ。入り口のフラッシュを浴びると、記憶が吸い取られて写真になっちゃうんだよ」
「嘘! だって私、自分の名前もわかるし、それに……」
「偽の記憶を蚊が媒介してるんだ。君、虫よけスプレーもしてこなかったの?」
ミウは腕を押さえた。階段を下りる間、小さな虫のような生き物に何度も止まられた。もう注入されてしまったのだろうか。空っぽの頭にすっぽり入る、偽物の、どうでもいい記憶を。
「でも、私は確かに水野未生です。好きなものは読書と星の観察、嫌いなものはトマト。生まれ変わったら猫になって、一日中屋根の上に……」
「いいから探そう! この中に君の記憶があるはずだよ」
タイガは壁に顔を寄せ、目を皿のようにして写真を見た。
「俺が見てもわからないんだった」
そう言ってミウを前に立たせる。写真はどれもよそよそしい顔をして、どこか遠くを見ているようだ。
四人家族が幸せそうに微笑んでいる。その隣では、寂しげな目をした老人がバイオリンを弾いている。にんじん畑にモンシロチョウが飛んでいる。丸々とした猿が毛繕いをしている。
「無理よ、こんなにたくさんの写真の中から……」
言いかけて、ミウは止まった。
一枚の写真が、ミウを凝視している。通り過ぎようとしても、その写真の前から離れられない。写真全体がミウを締めつけるように見ている。
それは、赤いジャージを着た男の写真だった。黒い髪にくっきりとした眉、少しつり上がった目はうっすらと緊張感を放っている。見たことがあるようなないような顔だ。誰だろう、と思う間もなく男は動き、写真の表面から手を突き出した。
「ミウ!」
強い声だった。思わず引き寄せられそうになる。
男はミウに触れようと、さらに手を伸ばしてきた。
「ミウ、ここにいたのか! 帰ろう、こっちへ来い。早く!」
「あの、あなたは……?」
「俺だよ俺! ほら、俺だよ!」
待て、とタイガが言った。
「離れろ、そいつはモンスターだ」
タイガはデッキブラシを伸ばし、赤ジャージ男の顔をぐいぐいと押し戻した。男も負けじと写真の枠に足をかけ、乗り越えてこようとする。
どうすればいいだろう、とミウは思った。兄だと思っていた人物よりも、他のどの写真よりも、この男はミウの気持ちを引きつけた。でもこれは、好意だろうか。親しみだろうか。
「邪魔だ、どけ!」
男はタイガの腕を蹴った。タイガの体がぐらりと傾き、半開きのリュックから缶が転がり落ちた。ミウは拾い、ラベルを読んだ。
「強力、シール剥がし……」
タイガは汗を流し、腕や顔に痣を作り、それでも応戦している。
見ず知らずのミウのために、デッキブラシ一つで戦っている。
ミウは缶を開け、蓋についている刷毛でたっぷり中身をすくい、写真の縁に塗りつけた。
「この野郎!」
男は目をむき、赤いジャージを裂いて全身から鋭い棘を伸ばした。タイガはデッキブラシの柄を盾のように使い、棘を避けた。そこへミウが、シール剥がしを塗りながら写真を巻き取っていく。異変に気づいた男は、身を縮めて写真の縁から逃れようとした。
「させないわ!」
ミウは素早く刷毛を動かし、写真を剥がし続けた。やめろ、やめろ、と男は叫び、写真と一緒に丸まっていった。
「この中へ!」
タイガはポリ袋の口を開けた。紙くずや落ち葉のゴミが入っている。ミウは写真をくしゃくしゃに潰し、中へ放り込んだ。柔らかい、嫌な感触が手に残ったが、男はもう出てこなかった。
「ふう……」
タイガとミウはその場に座り込んだ。嘘のような静けさに包まれ、残された写真たちの視線が頭の上を飛び交っている。
「ミウ、筋がいいね」
しばらくしてタイガが言った。
「お兄さんよりずっと才能あるよ。掃除ギルドで働かない?」
「ありがとうございます。でもまずは記憶を探さないと」
一体どれだけたくさんの写真があるのだろう。ここで見つからなければ次のフロア、その次のフロアへと、延々に旅を続けるしかない。
「いっそ本当に、さっきの人の妹だったらなあ」
水滴のように下りて、竜巻のように飛んで、一瞬で全てのフロアを探索できたらどんなに楽だろう。写真たちと向き合いながら、ミウは偽物の記憶を何度も思い返していた。