浪人詩集(13)
浪人詩集(13)
(大学ノートの中に、レポート用紙が数枚、挟まれていたのです。紙は茶色く変色しているので、多分、その当時か、二、三年後に書いたものでしょう。読んでみると、懐かしくなったので、この作品を、浪人詩集に入れようと思った次第です。内容については、誤字脱字や表現の方法があまりにもひどいので、かなりの部分に手を加えました)
53.三太と山びこ
山田投手は、大きく振りかぶり、頭の後ろで両腕を軽く二度ほど揺すると、空に向かって突き出すように足先をつんと立て、左ひざを高々と上げて、次に腰を大きくひねって一度ホームベースに背中を見せる。
そして、すっと真下に少し沈むと、ゆったりとしたフォームから、一転して、思いっきり胸を張り、腰をひねり戻して、弾けたバネのように、ぶうんとしなる長い腕から、地を這うように白球を繰り出した。
唸る快速球に、バッターは、思わず後ろにのけ反って、尻餅をついた。
「バシーン」
腰をぐっと引いて構えた捕手のミットの中に、まるで弾丸が飛び込んだかのように、寸分たがわず、白球が食い込み、少しおいて、乾いた音が球場にこだました。
球場を埋め尽くした観客は、息を呑んで、しんと静まり返った。
「ストライク」
インコース高めいっぱいに、恐らく、高校生のアンダースロー投手では、初めて150キロを超す、スピードボールがミットに収まり、審判の腕が高々と上がったその瞬間、満員の観衆は波うち、どっと、どよめきの声が上がった。
主審は密に舌を巻いた。
「あるいは、今のはボールだったのかも知れない。いや、確かにボールだった。ボール三分の一、いや半分ほど高めに外れていた。それにも拘わらず、この私としたことが何ということだ、つい、右手を高々と上げてしまった。それにしても、すごい、この少年は。ゆったりとして、それでいて小気味良い、踊るようなフォームから繰り出す変化球は、そうだ、あれは直球ではない変化球だ、彼の手を離れてからキャッチャーミットに収まるまでそのスピードは全く衰えない、いや、それどころか、バッターの手前でそのスピードを増している、すごい逸材だ、小気味よい球のキレ味に私は魅了されてしまったようだ」
地鳴りのような拍手と歓声の中、山田投手は、ゆっくりとマウンドを下りていく。
八回の表も無失点で切り抜けた。
ヒットはわずかに一本、セカンドの頭上にふらふらと上がった内野フライを追った野手が踏み荒らされたグランドの土に、足を取られて転倒し、落球した、その一本だけである。
準々決勝、第二試合、今大会屈指の好投手、山田投手を見ようと、大観衆が詰めかけ、ウイークデイにも関わらず、球場は満員であった。
拍手と歓声の中、一塁側内野席の片隅に一人の男がいた。
年の頃は五十代の後半であろうか、時どき、汚れた薄い背広、多分夏用の背広であろう、の内ポケットから茶色の瓶を取り出しては、中の液体を口に含んで、かち割の氷水と伴に美味そうに飲んでいる。
男の後ろから、誰かが肩を叩いた。
「安岡校長、すごいじゃないか、山田投手は」
「ああ、山崎さん、まあ、あんなものですかね」
そう言いながら、安岡隆太郎はまた、茶色の瓶を傾けて、安物のウイスキーを飲み干した。
その時、ちょうど、茶色いガラス瓶の中に、ややうつむき加減にダぐアウトに引き上げて来る、山田投手の姿が見えた。
足を少し引きずっている。
空のウィスキービンを通して見る山田投手は、まるで、夕焼けの中を歩いているように見える、と安岡隆太郎は、懐かしく思った、そして、遠くを夢見るように空を眺めた。
こうして、山田投手の姿を見ていると、六年ほど前、山で出会った少年のことが懐かしく思い出されるのであった。
その時の空も、今日と同じように、夕焼けが近づきつつあった。
ある秋の晴れた日の夕暮のことであった。
自宅から徒歩で、小一時間ほどの所にある、立花山という山の山頂まで登り、沢伝いの小道を下って帰る途中であった。
下から、松葉杖を頼りに、泣きながら、がむしゃらに上って来る少年とすれ違った。
立花山は、標高三百メートルほどの、素人が登るには手ごろなハイキングコースではあったが、それでも、危険な個所はいくつかあった。
ましてや、足の不自由な少年が、松葉杖を頼りに、一人で登るにはあまりにも無謀で、危険であった。
その上、少年の足取りは、危なっかしく、おぼつかなく見えた。
「おい、君、大丈夫か、もう少し、ゆっくり歩いたらどうだ」
しかし、少年は、隆太郎の呼びかけに、振り向きもせず、黙って真っ直ぐ正面を向いて登り続けたのであった。
「あの子は、確か、近所に住む三太君じゃないか。生まれた時の病気がもとで足が少し不自由だと聞いたが、あんなに思いつめた様子で、どうしたのだ。何かあったのだろうか、無茶をしなければ良いが」
隆太郎は、額と首の汗を拭きながら、少年の後姿をいつまでも見ていた。
三太は悲しかった、そして、腹立たしかった。
「どうして、僕だけが、何時もこうなんだ」
三太は、泣きながら、がむしゃらに、立花山の頂上を目指して登り続けた。
例え、危険を顧みず、不自由な足で頂上に登り着いたとしても、それで自分の置かれた状況が変わるわけではないことは、十分に分かっていた。
しかし、何かをやらなければ、もって行き場の無い屈辱と怒りと悲しさが、自分の中で渦巻いて、体が震えて、今にも爆発して、どうにかなってしまいそうであった。
このままでは、この不満を、自分よりも弱い人、あるいは、自分を愛する人にぶつけてしまうのではないかという、恐れもあった。
頂上近くは、急にきつい登りになっていて、簡単に歩いて登ることは出来ず、何かにつかまって、這うようにして登らなければ、頂上に辿り着けない。
三太は、松葉杖を肩に担ぎ、蔦や蔓にしがみ付き、両腕を使ってよじ登った。
時には、蔦蔓が切れて、二三メートルほど転げ落ち、別の蔦蔓に取り付いて、辛うじて体を支えながら、辛抱強く登り続けた。
身体や顔のあちこちに、無数の切り傷や擦り傷が出来ていたが、痛みなどは感じなかった。
三太は、すごく、すごく腹が立っていた、そして、悲しかった。
誰かに自分の思いを聞いて欲しかった。
しかし、誰に話せばよいのか、そしてまた、どの様に思いを伝えればよいのか、分からない、言いたいことは山ほどあるのに。
いつの間にか、立花山の頂上にいた。
周りをぐるりと見渡して、山頂に誰もいないことを確認して、荒い息を整えた。
「わあああああ」
松葉杖を両脇に挟んで立ち、両手を口に当てて、大声で思いっきり叫んだのであった。
暫くして、『わあああああ』と、山びこが返ってきた。
「僕の足が、そんなにおかしいかあ」
と、三太が叫ぶと、
『僕の足が、そんなにおかしいかあ』
と、山びこが答えた。
「僕は、母さんを憎むぞお」
と、三太が叫ぶと、
『僕は、母さんを憎むぞお』
と、山びこが答えた。
「僕は、父さんを憎むぞお」
と、三太が叫ぶと、
『僕は、父さんを憎むぞお』
と、山びこが答えた。
足が不自由になったのは、父さんや母さんのせいではない、それは分かっている。
だが、父さんと母さんは、口には出さないが、三太の足を見て、何時も悲しそうな顔をする、それが、無性に腹立たしかった。
「僕は、僕を笑う奴を憎むぞお」
と、三太が叫ぶと、
『僕は、僕を笑う奴を憎むぞお』
と、山びこが答えた。
こうして、三太が叫ぶと、すぐに、山びこの声は返って来るのであった。
「僕は、僕を慰める奴憎むぞお」
『僕は、僕を慰める奴憎むぞお』
「僕は、僕をこんなにした病気を憎むぞお」
『僕は、僕をこんなにした病気を憎むぞお』
「世の中の全部を憎むぞお」
『世の中の全部を憎むぞお』
「わあああああ」
『わあああああ』
「僕は、もう、一生だめなんだあ」
どう言う訳か、今度は、山びこの答えは返って来なかった。
そこで、三太は、もう一度、一層声を張り上げて、叫んだ。
「僕は、もう、一生だめなんだあ」
山びこの答えは、やっと返って来たのであった。
『そんなことが、あるもんかあ』
おや、と思った三太は、もう一度大声で叫んだ。
「僕は、もう、一生だめなんだあ」
『そんなことが、あるもんかあ』
『そんなことが、あるもんかあ』
こんどは、二度も続けて、山びこは返って来たのであった。
驚いた三太は、ぽかんとその場に立ちつくしたのである。
彼方に海が見えて、その少し上で、夕日が、赤く、赤く、燃えながら、くるくると回って海に沈もうとしていた。
三太の頬には、涙がさらさらと流れて、それは虹色に輝いていた。
「もしかしたら、歩けるのかも知れない」
三太には、あの山びこの声が、なぜか、奇跡を起こす、神様の声ではないかと思えた。
漠然とだが、神の存在を、ごく身近に感じた。
誰かが、自分のことを見守っていてくれている、そんな風に思えたのだ。
意を決した三太は、松葉杖をぱらんと手放すと、不自由な足を、恐る恐る前に踏み出した。
そして、つんのめるように、頭から、どうっと倒れたのであった。
「やっぱり、だめだぞう」
倒れたまま、悔しさのあまり、両手で草をむしりながら、三太は叫んだのであった。
『そうでない』
『そうでない』
『そうでない』
『そうでない』
『そうでない』
『そうでない・・・・』
返って来る山びこの声は、山の隅々、空の隅々に何度も響き渡った。
青空が広がって、いわし雲が西空の彼方まで連なって、山も空も海も、夕焼けに真っ赤に染まった、九月の中旬のことであった。
「おい、校長、あと一人だよ」
「うん、なんだ」
肩を揺すられて、安岡隆太郎は目を覚ました。
いつの間にか、つい、うとうととしてしまったのだった。
山田三太は、大きく振りかぶり、頭の後ろでゆっくりと腕を振っている。
隆太郎は、今更ながら、三太の活躍に目を見張らざるを得ない。
こうして、三太を見ていると、目頭が熱くなる。
一体何が、どのようにして、この子をこんなにまで逞しく成長させたのだろう。
多分、自分なんかには想像もできない、苦労と努力と鍛錬を経験したに違いない。
安岡隆太郎は、改めて、あの時のことを思い出していた。
「私は、こっそりとあの子の後を追いかけた。
私の家の近くに住む、三太という少年に、偶然にも、山の中で出会った。
そして、あの子の、あまりにも思いつめた様子がどうにも気になって仕方がなかった。
それがどうだ、立花山の山頂で、あらん限りの力で、叫んでいるではないか。
あの小さな子が、これから先、洋洋たる未来が開かれているはずの、あの小さな子が、人生に悩んでいる。
私には、放っておけなかった。
あの時、この私も悩んでいた。
私は、県下では進学校といわれる、県立F高校の教師をしていた。
化学を教える傍ら、生徒の生活指導にも力を注いでいた。
しかし、その当時、私は五十代の半ばに差し掛かり、何時しか、人生に空しさを感じ始めていた。
今まで、一体何をやって来たのだろう、大切な何かをやり残してはいないだろうかと、悩み、苛立ち、そして、長い教員生活に疲れていた。
それらの悩みのせいからか、厳しく生徒を指導していた私は、生意気な生徒に、つい手を上げてしまった。
その行為がもとで、転勤が決まったばかりだった私は、失意の中に居た。
彼が山頂で叫ぶ声を聞いた私は、山びこをまねて答えた。
あの子の思いつめた様子が気がかりで、元気付けようと思っての行為だった。
私がやったことが悪いことだとは思わない、しかし、だからと言って最良の行為だったかと問われれば、今も自信がない。
自分だけの勝手な思い込みだと言われても致し方ないのかも知れない、だが、やらずにはおられなかった。
その当時の屈折した私の心は、あるいは、身勝手にも、自分自身の憂さを晴らすため、いたずらに、その少年を驚かせてやろうと考えたのかも知れない。
ほんの遊び心で、少年の心を弄んだのではないかと咎められたとしても弁解は出来ない。
後になって、自分の行為が、果して良かったのかどうか悩んだ、そして、長い間気に掛かっていた、だがそれも、いつの間にか忘れてしまっていた。
あれから六年、今年の春、私は、定年までの最後の一年間を過ごす場所として、再びF高校に戻ってきた。
それだけでも不思議な因縁を感じたのだが、そこに、野球部のエースとして活躍している、山田三太という少年を見かけた時には、腰を抜かさんばかりに驚いた。
あの子が、素晴らしく快活で逞しい若者に成長していたのだ。
その後、あの子に何があったのだろう。
ぜひ聞きたいのだ、いや、聞きたくてたまらない。
だが、山びこであるこの私が、彼に聞ける筈も無い」
安岡隆太郎は、そんなことを思いながら、逞しく成長した三太の姿を見ていた。
山田三太は思っていた。
「苦しかったが、楽しい高校生活だった。
僕はこの先、高校を卒業して、どのような人生を送ろうかと、迷っていた。
有難いことに、プロ野球のスカウトの幾人かは、僕の実力を高く評価してくれた、本当に有難く、嬉しい。
ここにきて、僕は自分の目指す進路がはっきりと見えた気がする。
思えば、小学生だったあの秋の日、僕は、人生に絶望していた。
どうして良いかわからず、ただ、あの山の頂上で、叫んでいた。
そして、僕は、あの山びこの声を聞いた。
今、振り返ると、あの声は、何だかおかしかったし、誰かのいたずらであったのかも知れない、そういえば、音程も少し外れていたような気がする。
だが、あの声の響きは真剣であった。
そして僕は、あの山びこの声に励まされ、心を揺さぶられたのだ」
三太の足が青く晴れ渡った球場の空に向かって高く上がった。
次の瞬間、地上すれすれに、砂塵を巻き上げるように走って来た白球は唸りを上げて、ベース近くで、ふっと浮き上がった、ようにバッターには見えた。
バットがボールの遥か下で、虚しく空を切った。
「ストライク、バッターアウト」
審判の手が高々と上がった。
「やった」
安岡隆太郎は立ち上がった。
「おい、おい、校長、また勝っちまったよ。こいつは、金が掛かるぜ、PTAで集めた金も、もう底をついてしまった、どうするんだ」
「山崎さん、何を小さなことを言っているのですか、あなたは、我がF高校のPTA副会長ですよ。しかも、県会議員という肩書もある。選挙のたびに、我が校OBはあなたに清き一票を入れているのです。然るに、あなたの周囲では、贈収賄に関わる黒い噂が絶えないし、その上、あなたは、近いうちに、官憲の捜査が入り、逮捕されるのではないかと言われている人ですよ。お金ぐらい、何とかなるでしょう。いいですか、初めて全国大会に出場した我が校が、しかも公立高校で、唯一ベスト4まで勝ち残った、これは、快挙です。山崎さん、良いですね、頼みましたよ」
「おい、校長、何て失礼なことを言う、この俺を誰だと・・・・」
言いかけて、山崎は、安岡校長の気迫に押されるように口をつぐんで黙り込んだ。
ぐっと山崎を睨みつける、安岡隆太郎の目には、大粒の涙が次々と溢れて、流れ出していた。
三太は、空を見上げた、そして、思った。
「僕は教師になろう、そして、もしも、少しでもなやんでいる子どもがいたら、あの夕焼けの美しい立花山で経験した出来事を話して、勇気づけるのだ。そんな馬鹿なことあるもんかと言われても、それは、それで良い。そして、今年の夏は、何としても、あと二つ勝つぞ」
山田三太の将来の目標は決まった。
突き抜けるような青空の日差しはまだまだ暑い。
明日はいよいよ準決勝、山田三太、高校生最後の夏に青春の炎を燃やすのであった。