雨と少年
雨の音で目が覚めた。その音を聞いた途端にメリーエインは胃が重たくなって、鉛でも飲み込んだように感じられた。雨の日はどうしても憂鬱になる。
布団の中から枕元に置いてある時計に目をやると、針は四時二十八分を指していた。
まだ夜も明けない早い時間なので、もう少し寝ていようかとも思ったが、思い直して、むっくりと起き上がった。
カーテンを開けると、雨の音しかしない静かな町並みが広がっていた。雨によって、町の輪郭がなくなってしまったかのように、全体に霞がかかってぼんやりとしている。
メリーエインには雨音が強くなるにしたがって、町が静かになっていくというのがとても不思議に感じられた。でもそれは、彼が生まれたときからそうだったのである。
彼はひとつ、ため息をついた。
ゆるゆると着替えをすませ、乾燥してカピカピになったパンを人工水で流し込むように食べた。帰りに明日のパンを買ってこなくてはならない、とメリーエインは思った。彼の家の冷蔵庫にはもう何も入っていなかった。
食事を終えると、居間の時計は五時を指していた。そろそろ陽の昇る頃合いだ。メリーエインはクローゼットから、黒いビニールでできた子供用ポンチョを取り出し、頭からすっぽりとかぶった。手には手袋、足には長靴を履いた。最後に使い古しの、ビニール革製の防水カバンを肩にかけて外に出た。
雨はさっきよりだいぶ弱まったようだった。メリーエインは胸をなで下ろした。アパルトマンの玄関の鍵を閉め、ポンチョのフードを頭にかぶり、後ろへめくれてしまわないように左手でおさえ、水たまりを避けるように歩き出した。
通りには思った以上に人影があった。おそらく彼と同じように雨の音に心がざわついて、眠っていられなくなったのだろう。通りにいる人はどこかまだ夢見心地な、呆けたような表情を浮かべながら歩いている。その様子からは目的があって歩いているのか、ただ、じっとしていたくないから歩いているのか、判別するのは難しかった。
メリーエインは粛々と歩いて、細い路地から大通りに出た。まばらだが、車も走っている。等間隔にぽつぽつと並ぶ街灯が、息切れを起こしたようにちらちらと点滅している。車の音は雨によってひとつ残らず吸収されているようだった。彼はほおっと息を吐いた。朝の冷え込んだ大気によって、息が白くなる。
そのとき、向こうから、水たまりをばしゃばしゃはね飛ばしながら、駆けてくる人影が見えた。
それはスーツを着た勤め人風の若い男だった。革のかばんを頭上に掲げて、雨から身を守ろうとしていたが、男の体はもうずぶ濡れの状態であった。男は必死の形相で、メリーエインのいる方へ走ってきた。その迫力にメリーエインは歩みを止め、通りの端に避けて男に道を譲った。
男はメリーエインの存在に気がついていないような感じで、脇を駆け抜けて行った。メリーエインがあっけにとられていると、男は足を滑らせたらしく、どしゃっと顔から地面につっぷした。
メリーエインは助けを呼ばなくては、と思ったが、すでに男の体からはドライアイスのように白い煙がもうもうと立ち上っていた。転んだ男はもう立ち上がる気力もないようだった。先程の力走は、まさに死に面していたからこそできたものだったのだ。
男が小声で何か言っているようだったので、メリーエインはかがみこんで、自分の耳を男の口許に近付けた。
「プレゼントを……」
男は消えゆく線香のように、きれぎれの細い煙を口から吐きながら、それだけ言った。次の瞬間、男の肉体は、火のついたマッチを水に漬けたときのように、パシュッとかすかな音を立てて蒸発し、瞬く間に雨の中に消えてしまった。
男の体が消えたあとには、彼が身につけていたずぶ濡れの衣服やかばんが、ぽつんと残された。
メリーエインは、ふと思い立って、男のかばんを開けた。すると中から、赤と緑の縞模様の包装紙でかわいらしくラッピングされた小箱がでてきた。その色合いを見て、メリーエインはふと、今日がクリスマスの朝だと思い出した。小箱には「マリメへ」と書かれたメッセージカードがついていた。男の娘であろうとメリーエインは推測した。
おそらく男は残業で会社を出るのが遅くなったに違いない。そして、今日はクリスマスだ。娘が起きる前になんとか家に帰って、枕元にプレゼントを置いておこうとしたのだろう。それで、慌てて会社を出たところで突然の雨に降られて、ずぶ濡れになって、消えてしまった。その結果、残ったのがこの小さな箱なのだ。
メリーエインはかばんの中から、男の身分証を探し出した。アンドリュー・クレヴァリー。二十六歳。住所はポロドール三の二の五。
ポロドール三の二の五なんて、このすぐ近くじゃないか、とメリーエインは驚いた。あと少し、あと少し雨が降るのが遅ければ、彼は無事に娘の枕元にプレゼントを置くことができたのだ。
彼はプレゼントを男の娘に届けなければならないと思った。そこで、残された衣服をかばんに押し込み、小箱を脇に抱えて歩きだした。
もう雨に打たれて消えていく人を見るのにも慣れてしまった、とメリーエインは肩を落とした。しかしこればかりはどうにもならないことだった。
男の家は家というより小屋と言ったほうが正しかった。呼び鈴を鳴らそうかとも思ったが、事情を説明しないとならないのは気が引けた。元から助からなかったものとはいえ、なんとなく負い目を感じていたからだ。
メリーエインは郵便ポストに男のかばんと小箱を入れておくことにした。ポストに、男の娘が書いたと思われる家族三人の絵が貼ってあって、彼はいたたまれない気持ちになった。
雨はまだ降り続いている。五時半になろうかとしていた。
彼はそろそろ仕事場に急がなくてはと思い、早足で歩いた。遅刻すると、怒られてしまうし、給料を減らされるからたいへんであった。
大通りから一本脇道に逸れると、両側に石造りの住宅の立ち並ぶ界隈になる。始業時間には間に合いそうだ、と彼は思った。
と、バタンと大きな音がして、一軒の家からおじいさんがパジャマのまま外に飛び出してきた。
おじいさんはみるみる雨に打たれて、体から煙を発していく。
メリーエインはおじいさんに向かって叫んだ。
「あぶないですよ、あぶないですよ」
しかし、おじいさんはそんなことおかまいなしだった。そればかりでなく、体が蒸発するのも構わず、高らかに笑いながら天を見上げ、くるくると回った。
「たがが外れている!」とメリーエインは戦慄した。
すると、どこからか、
「おじいちゃん、戻って。戻って」という声が聞こえた。
見ると、おじいさんが出てきた家の玄関から、彼の家族が必死におじいさんを呼んでいた。
「どうしたの。死んでしまうわ。戻って」
おじいさんは、まだ笑って雨に打たれている。
「わしが子供のころはこれが普通じゃった。死ぬ前にもう一度、こうしたいと思っていたのじゃ」
と言うと、おじいさんは天をあおいで口を大きく開け、なんと雨を口で受け、ごくりごくりと飲み始めた。
「やめて、おじいちゃん。やめて」と玄関口から声がする。
おじいさんは体が消えゆくのも構わず楽しそうに雨を飲んだ。
「わしが幼いころはこうやって……」
そして、おじいさんは白い煙となった。
あとには、おじいさんのパジャマだけが残された。ビニールスーツに着替えたおじいさんの家族が泣きながら、くしゃくしゃになっているそのすり切れたパジャマに向かって駆け寄った。皆、雨に濡れたパジャマに顔をつけんばかりに泣いていた。なんにもわかってない風な幼い子が、
「おじいちゃん、どうしたん。おじいちゃん、どうしたん」とお父さんらしき男に訊いていた。
メリーエインはここにいてはいけないと思って、足早に立ち去った。
仕事場につくころには雨はほとんどやんでおり、雲の切れ目から朝日が差し込んでいた。人がふたり消えていった長い夜は、こうして朝を迎えた。娘にプレゼントを渡すために消えていったあの若い男は、最期の瞬間、何を思って逝ったのだろう。雨を飲んだあの老人は、久しぶりの雨の味をどう感じたのだろう。
メリーエインはその気持ちを知りたいと思ったし、同時に知らないままの方がよいとも思いながら、仕事場の門をくぐってタイムカードを押した。