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春の気配

 王国の冬は東から順に終りを告げてくる。杏奈はそれをミラードから教わった。


 ミラードは以前に夜会で約束した通り、折に触れてヴァルター家を訪れていた。先触れなしで訪れることが多いのが難点だが、杏奈は基本的に家にいるのですれ違ったことはないし、たまたま店の前を通ったからとか何とか理由をつけてはお菓子などのお土産を持ってきてくれるので、使用人達からの評判は概ね良い。

 空は薄灰色の雲に覆われ、冴え冴えと冷たい空気が頬を刺すような寒さが続いていたある日、ミラードはお菓子ではなく目にも鮮やかな黄色い花束を持って現れた。

「これは、見事な。ミラード司祭様、東方に行ってらしたのですか。」

 出迎えた執事の言葉にミラードはにこりと微笑んで「ええ、仕事がありまして。」と答えた。そして柔和な笑顔のままその花束を杏奈へ差し出した。

「ありがとうございます。」

 ミラードの手にある間、花束は大きなものには見えなかったが、杏奈の片手では支えきれなくて両手で抱えるように受け取ると久しぶりに感じる野草の香りがした。薔薇や百合のような華やかな香りではないが、素朴な野原を思わせる瑞々しい香りだ。鮮やかな黄色と相まって急に春がきたようだ。杏奈はミラードを見上げて「春の匂いがしますね。」と笑いかけた。

「この花は春告草といって、名の通り春を告げる花と言われているんですよ。知っていますか?」

 杏奈は小首を傾げた。どこかで見たことがあるかもしれないが、花の名前は初めて聞いた。

「東の海岸から王都の辺りまで、春が来ると一番に咲く花です。この通り目に鮮やかだから特に印象に残るのでしょう。野原が黄色に染まると皆、ああ、春が来たと思うものです。西方の山の中ではあまり見かけなかったかもしれませんね。暖かい気候を好む花だから。」

 ミラードは外套を執事に預けながらそう説明してくれた。

「そうなんですか。でも、まだとても寒いのに。」

 狂い咲きだろうかと杏奈が不思議そうにすると、ミラードはもうその微笑みだけで冬など追いやってしまいそうな優しい笑顔のまま続けた。

「もうじき冬もおしまいですよ。東の海岸の近くはもう春告草で随分黄色く染まっていました。この国ではね、春は東の海から風に乗ってやってくるんです。」

 杏奈は思わず目を閉じた。想像したくなったのだ。海から暖かい風が吹いて海岸線から町へ、村へと黄色い花の絨毯が広がって行くところを。

「素敵ですね。」

 ゆっくり目を開いてもう一度黄色い花束に視線を落として杏奈はうっとり呟いた。

「ええ、本当に美しいですよ。もう少し待っていて御覧なさい。王都にもじきに春風が届くでしょう。」

 執事がミラードを居間へ誘いながら目を細めた。

「春の訪れの使者として貴方ほど相応しい方を私は他に知りません。ミラード司祭様。」

 杏奈も執事の言葉に深く頷く。

「扉を開けてミラードさんが花束を持っていらした姿は本当に春の神様の御使いかと思いました。」

 冬の弱い陽光でも輝く金色の波打つ髪、杏奈がいつも舐めたら甘そうだと思う飴玉のような蜜色の瞳、白い外套に引き立てられた黄色い花束。極めつけは優しい笑顔と全身から放たれる何とも言えない柔らかな雰囲気。もうだいぶミラードの姿は見慣れたはずなのに、扉が開かれた瞬間に思わず動きを止めて魅入ってしまった。

「春の神様ですか。ふふ、面白いことを言いますね。」

 この国で神といえば、国の守護神と崇められるアウライール。他にも神はあるが、春や季節を司る神の話などついぞ聞いたことが無い。季節を巡らせるのは時を操る神の業。季節そのものに神がいて、勝手にやってきたり、休んでいるわけではない。話す度、杏奈の言葉の端々に現れるこの国の誰も思いもつかないような発想には全く飽きない。ミラードは小さく笑いながら、花束を抱きしめている杏奈を見下ろした。


(この子には、やっぱりただならぬものを感じるなあ。)


 二人の様子は傍目には恋人から送られた春一番の花束を喜ぶ娘と、それを嬉しそうに見守る男のように見えて大層微笑ましいがミラードの胸のうちはそれほど甘やかなものではなかった。最初は本当に彼女のことが心配で会いにきていた。一割くらいは治癒の際に感じた不思議な力のことが気にかかっていたが、それよりも死の淵から帰ってくるという強烈な体験をした彼女を案じる気持ちが勝っていた。しかし、何度か会いに来て杏奈との会話の中で感じるちょっとした違和感が、彼に様々な疑問を抱かせた。ミラードが高位の司祭の地位についているのは優れた治癒の能力のおかげだけではない。もちろんそれに相応しい学識や神やその力についての理解があってこそだ。彼の知り得る、そして世間の多くの人が知りえない知識に照らして、杏奈の発言には捨て置けないものを感じるのだ。記憶が無い。それだけでは説明がつかない、特別な何か。杏奈の精神状態が非常に安定していると分かっている現在、ミラードの訪問の目的は当初の杏奈を案じるものから、彼の中に降り積もった疑問を解き明かすためにと変わってきていた。


(誰もが知っていることを知らない。誰も知らないことを知っている。常識にとらわれない発想とひどく常識的な振舞いが彼女の中では矛盾なく同居している。どうしたらこうなるんだろう。どこで、どう育った?)


 ミラードは既に仮説をいくつか持っている。ただ、どれも確証はなく、答えがどれであっても、例えば王国がひっくりかえるような危機につながるものは無い。つまるところ、彼の個人的な興味として知りたいだけだ。


(司祭としての才能がなければ自分は学者を目指したかもしれないな。)


 ミラードはそんな自分を発見して、それはそれで面白いなどと思いながら居間に落ち着いた。杏奈は女中に花を生けてもらうように頼んでいる。女中に愛想の良い笑顔を振りまきながらミラードは、しかし研究対象が杏奈というのは学者というより変質者になりかねないと、彼の笑顔にうっとり見惚れる女中が知ったら大変残念がりそうなことを考えていた。


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