夜が明けて その2
セオドアは一晩中、考えていた。
居間で叔父たちの話を聞いているときも、どこかの親戚にお見合いを勧められて聞き流しているときも、喧騒の中に取り残されて一人で窓から空を見上げているときも。自分はどうしたいのか。どうしたらいいのかと。
ゆっくり進んで行けばいいと思っていたのだ。彼女にはもう少し自分のことに集中する時間が必要だ。まだ恋愛をする余裕があるようには思えない。余裕があるからするものでもないけれど、恋愛はとかく自分のことが疎かになり、相手に気持ちが向かってしまうものだ。今はまだ、何より自分のことを考えてほしい。だが、ウィルと杏奈の間に何かあったと聞いたときから、心のどこかが焦がされるように落ち着かない気持ちが続いている。あの村の教会で一人で目覚めた彼女は寂しかっただろう。誰か傍に居てくれる人を求めたのは当たり前のことだ。そんな彼女がウィルに惹かれることを考えもしなかった自分はアルフレドの言う通り鈍いとしか言い様がない。ウィルは、ずっと彼女の傍に居ていつも明るい笑顔を向けていた。
もし、二人の想いが既に通じ合っていたとして、自分はどうすべきなのだろう。いや、通じ合っているのなら見守るしかないから簡単だ。諦めきれない思いだとしても、彼らを引き裂くことなど自分にはとてもできそうにない。相手がアンドリューならば、何の遠慮もなく自分の思いを告げることができただろう。それが久しぶりの恋に終止符を打つだけのものだとしても、僅かの可能性に賭けるつもりで正々堂々挑める。しかし、ウィルにとって杏奈は何もかも失った後に初めて見つけた大事な人だということは容易に想像がつく。そこに、どれほどの思いがあるか。アルフレドの口ぶりでは、まだ恋人という程の関係ではないように思えた。もしウィルの片思いだとして、杏奈の思いが決まっていないのなら。自分は名乗りを上げるべきなのだろうか。
考えても、考えても答えはでない。自分の思いは明らかだが、そこにウィルが出てくると急にどうすればいいのか分からなくなる。
そのまま、祭りの夜は更けて夜の終りが近づいてきた。
セオドアは日の出が見える裏庭に出て、じっと太陽が昇ってくるのを待った。昔から夜明けが好きで、早起きしては夜明けの空を見ていた。騎士になって戦場に身を置くようになってからは一日生き延びた証に思えて、それまでよりも一層夜明けへの思い入れが増したと思う。何が変わるわけではないが、ただ朝日から前に進む力を感じるのだ。
ゆっくりと暗闇を裂いて赤い光が走り出す。朝が始まる。その力を少しでも体に感じたいと空をみつめていると一晩かけてこんがらがった思考が少しずつ解けていく。そしてすっかり解け切きるかと思った時に、人が歩み寄ってくる気配を感じた。
「セオドアさん、おはようございます。」
そう言ったのは一晩中彼の頭を占めていた杏奈だった。とても申し訳なさそうに、自分の様子をうかがっている。昨日のことを気にしているのだろう。星祭りの羽目の外し方から言えば、あのくらい可愛いものだ。しかし反省してくれて次から立てなくなる程飲まないでくれるなら、それに越したことは無い。自分以外の男に、酔った彼女を介抱されたくはない。
「調子はどうだ?」
問いかければ、ますます小さくなってもう大丈夫だと言う。その耳に昨日結局手渡すことができなかった贈り物をみつけた。見かけた時に彼女の昔の宝物だったという白鳥の羽を思い出して買い求めたものだ。ちゃんと着けていてくれることに満足して、一晩中自分を駆りたてていた焦燥と不安が急にしぼんでいった。自分の単純さに呆れる。彼女が手の届くところにいて、自分を見てくれているだけで、もう普通に笑顔も浮かべられる。朝日だってこれほど素早く自分の不安を払ってはくれない。小さな耳飾りにも、貰い過ぎだと彼女は恐縮するが、昨日自分の指を握りしめて眠ってしまった彼女がどれほど喜びを与えてくれたか。自分は十分以上の対価をもらっている。
「いや、俺はもう十分もらったから。気にするな。」
彼女は良く分からないというように首を傾げた。そのようにすると耳と首筋が覗く。清楚な小さくて白い耳飾りは、思った通り彼女に良く似合っている。
(にしても、この格好は寒そうだな。)
しかし、冷えるから早く家に戻れという気にはならない。そのまま、マントでくるんでやるついでに抱き寄せる。二人で夜明けを眺めながらセオドアは腕の中に杏奈がいるだけで心が満たされるのを感じた。これほど明白なことに一晩も悩んだのかと、呆れてしまう。何も難しいことはないのだ。この娘を何かに遠慮して何もせずに諦めるというのは、自分にはできない。そもそもアンドリューなら良くて、ウィルなら遠慮すると言うのは彼に失礼な話だ。同じ男として、相手が誰でも正面から挑めばいいのだ。自分が杏奈を思う気持ちは決して中途半端なものではない。決めるのは杏奈だ。
「また一緒に夜明けが見られるといいな?」というセオドアの問いかけに「はい」と答えてしまってから、その失言の意味に気がついて杏奈は弁解の言葉を色々考えた。しかし、杏奈が意味のある弁解の言葉を述べる前に、セオドアに分かっているから、と頭を叩かれて話は終りになった。
家に戻りながら杏奈は先ほどの一連の出来事を思い返し、一人で赤面したり眉を寄せたり忙しい。この間、送ってもらった時といい今朝といい、最近セオドアの自分に対する態度が少し変わってきている気がする。村の教会にいたときも泣き疲れた自分を抱きしめてくれていたが、それは彼の胸に杏奈の額がぶつかっただけの状態で背中に手を置いてくれていたような緩い抱擁だった。
(でも、今日のはもっとぎゅっと体もくっついてたし、腕の力の入れ方も全然違うし。なんていうか。なんていうか。恋人みたい、なんて。)
すぐさま、先日口づけされるかと目を閉じたら何もなかったことを思い出して自意識過剰だと思いなおす。
(深呼吸してみよう。)
セオドアはいつも自分を守ってくれる。命だけではなく、彼女の心も。助けを求めている時がどうして分かるのか不思議に思うくらい、彼は現れて彼女の傍に居てくれる。余計なことを言わず、静かに。とても感謝している。大事な人だ。特別に思っている。それは間違いないけれど、それが恋かなんて考えたこともなかった。今も分からない。ウィルを弟だと思うように、セオドアは自分にとって兄のようなものだろうか。杏奈はセオドアを心の中で兄に位置付けてみる。父親代わりのアルフレドの甥でもあることだし、おかしなことではないはずだ。
(優しいお兄ちゃん。優しいお兄ちゃん)
自分に暗示をかけるように心の中で繰り返していた杏奈は途中から小さく口に出してしまっていた。
「どうした?何ぶつぶつ言ってるんだ。」
セオドアに怪訝そうに振り返られて、はじめて声に出していたことに気がついた杏奈は焦った。慌てた杏奈はセオドアに、暗示の流れの呼びかけてしまった。
「お兄ちゃん。」
「は?」
セオドアはぴたりと足を止めて、杏奈を見下ろした。
「お前、今、お兄ちゃんって言ったか?」
「いや、えーと、その。」
「言ったよな?」
「うーんと、はい。」
言い逃れできないくらいはっきり言ってしまったのだから仕方ない。杏奈は俯いてお兄ちゃん発言を認めた。
(父親扱いよりはいいが、お兄ちゃんも喜べないな。何でこの流れで急にお兄ちゃんなんだ。前回といい、こいつの頭の中はどうなってるんだ。)
「あのな、アンナ。」
「はい。」
「お前が俺を家族同様に見てくれるのは嬉しいけどな、俺はお前の兄じゃないからな?」
言葉を選びながら言い聞かせるセオドアに杏奈は俯いて、小さく「はい」と返事をした。
(お兄ちゃん、嫌なんだ。)
杏奈は自分が悪いと思いつつ、なんだか悲しくなって本当に気持ちも俯き加減になってきてしまった。そのしょんぼり落ち込んだ様子は力ない返事を聞いたセオドアにも伝わった。今度はセオドアが焦る番だ。
「お前の家族になるのが嫌なわけじゃないぞ。でも、どうせなるなら兄じゃない方がいい。」
そう言うと、杏奈はまだ落ち込んだ気持ちのまま顔を上げた。
「でも、弟じゃないでしょう?お父さんは隊長さんだし。」
「おじいちゃんとか、勘弁してくれよ。」
セオドアが先手を打つと、杏奈は真面目に答えた。
「それはディズレーリ先生が引き受けてくださるそうです。」
「それはまた。ずいぶん強烈な家族だな。」
確かにそうだと杏奈は笑って、話は曖昧なまま二人はまだ酒の匂いの濃厚に残る家に戻った。
その日、随分時間が経ってから杏奈はこの会話を思い返して話が中途半端に終わったままだったことを思い出した。掃除をしながら考える。
(弟、兄、父、おじいちゃんでもない家族って。セオドアさん何だったら良かったのかしら。現実に即して、いとこ?)
一緒に家の片付けをしていたマリに聞いてみた。
「マリさん。家族の中で男性って言ったら、お祖父さん、お父さん、お兄さん、弟以外で何か思い当ります?やっぱりあとは叔父さんとか従兄弟ですよね。」
マリは唐突な質問に「へ?」と目を瞬かせて「そうねえ。そんなものかしら。」と呟いた。そんな二人に後ろからミランダが割り込んでくる。
「どうしたの、アンナ?誰かに僕の家族になってほしいとでも言われたのかしら?」
その言い回しを聞いた瞬間にマリと杏奈は目を合わせて叫んだ。
「旦那さん!」
まだ若い二人には夫婦が家族であるという認識が薄かったが、確かに夫も男性の家族には違いない。
(ま、まさか。ねえ。)
杏奈は明け方のセオドアの言葉を思い出して、そういう意味に解釈できるか検証してみる。
「やあねえ。この子ったらにやけてるわ。若いっていいわね。」
「え、アンナ。本当に求婚されたの?どっち?アンドリュー師団長?それともミラード司祭?詳しく話してよって、ちょっと、聞いてるの?もう、アンナったら。」
「ああ、自分の世界に入っちゃってるわね。本当に、いいわね。若いって。」
マリとミランダはしばらく難しい顔とすっかり緩んだにやけ顔を繰り返す杏奈を眺めていたが、やがて馬鹿らしくなり仕事に戻った。杏奈が我に返った頃には4人の女中は皆、訳知り顔で彼女を見ており「大丈夫。まとまるまでは旦那さまには内緒にしておいてあげるわ。」と請け負ってくれた。最早、何を黙っていてくれるのかとは聞き返せない雰囲気に、杏奈は困ったような笑顔で頷くことしかできなかった。
(ああ、どうしよう。本当にプロポーズされたことになるのかしら。もう、セオドアさん、紛らわしいっていうか分かりにくいですよ。私はどうしたらいいんですか。もう今日眠れないかも。)
プロポーズであるなら分かりにくいし、違うのならば誤解を招く表現をするのが悪い。杏奈はセオドアへの恨み事を胸に溜めつつ、必要に以上に力をいれて残りの片付けに勤しんだ。