甘い
ヴァルター家からの帰り道、セオドアは先ほどまで目の前にいた杏奈と彼女の話してくれたことについて考えていた。
荒唐無稽な話だ。それは分かっているが、セオドアには杏奈の語ったことが真実に思えた。
思えば最初から不思議なところの多い娘だ。神の使いにあちこち振りまわされて記憶が吹っ飛んでいると言われれば「ああ、そういうことか」と思ってしまう程度に謎が多い。
あの日、あの川原に倒れていたこともまだ説明がついていない。村の誰も知らない余所者がモンスターが跋扈する夜の森を一人で抜けくることは、そういう行動をとる理由という意味でも不可解であり、実現性という意味でも不可能に近い。セオドアが見つけたとき、怪我もなかったのに気絶していた理由も、疲れ切ったからだろうという曖昧な推測でしかない。
知識についても、非常に偏りがある。記憶喪失というものがどういう仕組みで起きるのかは分からないが、自分のことだけきれいさっぱり忘れているならまだ聞いたことがある。しかし彼女は自分のことの他に、世の中の常識も半分くらい分からなくなっていた。杏奈の話を聞いてから思い返すと、忘れたのではなく、知らなかったのではないかとも思える。教わりながら、思い出すと言うことがなかったのもそれなら納得がいく。加えて、忘れている、知らない、だけではなく「誰も知らないことを知っている」という点も、遥か遠くで生まれ育ったと言う彼女の言葉を裏付けているように思える。
(あの子守唄。アンナはどこで覚えたのか。誰か歌ってくれる人があったのだろうか。)
杏奈の歌う歌は、皆優しく聞く者を勇気付けたり、安らかな気持ちにさせるものだ。もしその歌を彼女に誰かが歌い聞かせて育て、彼女が自然に学んだのだとしたらいいとセオドアは思う。彼女の語った前世は、あまりに寂しく、幸薄いものだった。大白鳥が願ったように遠く遠く百の海と千の空の向こうで彼女が幸せに生きていた時間があったのならば良い。少しでも心が休まる時間があったのならば良い。もう過ぎてしまったことだが、そう願う。
どうしてか、そこに留まれなかったことは気がかりだ。もしそれが幸せな時間だったのならば、そこから急に引き離されたことになる。そのおかげで彼女が自分達のところへやって来てくれたにせよ、手放しでは喜べない。彼女を愛情を持って育てた家族や、友人、いたかもしれない恋人は今どうしているのだろう。
セオドアはぐるぐると考えながら彼女を急に失ったかもしれない遠い世界の誰かのようにいつかの自分達が杏奈を失うことを想像してしまう。彼女の言葉を信じるならば、杏奈がしっかりしていればいいらしいが今日のあの様子では甚だ不安だ。
(あいつ、さっきの話の流れでなんで顔色の話になるんだ。あれだけ悩んでいる風で、顔色って。遠い世界ではみな青だか赤い顔でもしていたんだろうか。)
正直、自分の胸に顔を寄せて蹲っていた姿はたいそう庇護欲をそそる様子で、どこにも行かせないから心配するな、とできもしないことを口走りそうになったと言うのに。
「言うに事欠いて、顔大丈夫ですかって。」
夜道で小さく口に出して文句を言ってみたものの、途中で思い出して笑ってしまう。基本は真面目なのにあの呑気さはどこからやってくるのだろう。でも、ああいうぽっかりと緩んだようなところがなければ張りつめる彼女が心配で仕方がなくなるだろうから、あのくらいでいいのかもしれない。
(我ながら、甘いな。)
困っていれば助けてやりたい。そういう感情は彼女と話すようになった頃から変わらずにあった。それは騎士として当たり前の感情だ。そう思っていたのに、杏奈に対してだけは、泣いていれば抱きしめてやりたいし、笑っている時は一緒に傍に居たいと思う。ただ苦境から立ち上がるのを助けるだけでなく特別に甘やかしてしまいたい思い。彼女に向ける感情は騎士の務めの延長ではなく、一人の男として彼女を守りたいのだという少し我儘な色を帯びたものだと気がついた。いつの間に恋に育っていたのだろう。妹のように思っていたはずなのに。これからセオドアが彼女に差し出す手は、困っている民であれば誰にでも差し出される騎士の手と同じものかもしれないが、込められる思いはまるで違ってしまう。ただ平和な暮らしを守ってあげたいという志ではなく、もっと積極的に自分の手で慈しんで幸せでいさせてやりたいという欲望から差し出されるものだ。彼女がその手をとれば、引き寄せて抱きしめてしまおうとする手だ。
実際に思いあまって抱きしめてしまったセオドアは、着ぶくれてなお小さい杏奈の感触を思い出す。以前に抱き寄せた時より柔らかかったのは明らかにあの分厚いコートのせいだろう。そのコートを着せたであろうアデリーンや女中達の手で守られているかのようだった。意図した行動ではないだろうが万全の備えをとっていた女中達に脱帽である。親鳥が雛を守るがごとく杏奈を可愛がるヴァルター家の人々と、それと気づかずに庇護されている杏奈を想像してみたら、予想以上にしっくりきた。杏奈には学ばなければならないこともまだ多くあるし、思い出したという過去を消化する時間も必要だろう。そんな彼女を守ってくれる家族がいることはとりあえず喜ばしいことだ。セオドアにとっては今すぐに自分と彼女の関係を変えようとする必要はない。ただずっと傍にいて彼女の支えになりたいと思う。
とはいえ、父親にそっくりと言われたことが多少ひっかからないではない。杏奈の父親代わりはアルフレドに任せて、自分は父親ではないのだということは分かってもらいたいところだ。
心の中で落ち込んだり笑ったり、もの思いに沈んでいると一人の帰り道はあっという間に過ぎる。セオドアが帰宅するとチェットが飛んできた。
「おかえり。兄さん。」
「おう。夕飯は?」
「もうすぐできる。それよりアンナは?」
たっぷり時間をかけて往復してきた兄を弟は期待に満ちた目で見つめて返事を待った。
「アンナ?それは無事に送り届けたに決まっているだろう。何しに行ったと思っているんだ。」
「それは分かってるよ。そうじゃなくて帰り道に何の話したのかって聞いてるんだよ。」
チェットは「もう」と腰に手を当てて通り過ぎようとする兄を通せんぼする。
「それは秘密だ。」
杏奈の話してくれたことは、彼が誰かに吹聴していいようなものではない。口止めなどされていないがセオドアは誰にも話すつもりはなかった。チェットは兄の答えに益々目を輝かして「秘密って?」と食らいついてくる。
「そこで答えたら秘密にならないだろうが。」
セオドアは強引にチェットを振り切ると夕飯までに着替えるからと自室へ戻った。去っていく後ろ姿を見送ったチェットはにんまりと腕組みをする。
「これは、なんかあったかな?」
一歩前進。一歩前進。と呟きながらチェットは弾む足取りで夕食の仕上げのために台所へ戻って行った。