しっかりします
家に向かって再び進みはじめた馬の背で杏奈はセオドアの胸に顔を埋めてじっとしていた。伝わってくる彼の鼓動は少し早いような気がするが、それより自分の心臓が過労でどうにかなってしまうのではないかという程早く打っている。
(キ、キスされるかと、思った。)
間近で見たセオドアの顔の、思い詰めたような、思いが溢れるような切ない表情に一瞬飲まれてしまった。思わず目を閉じてしまったがあれでは口づけを待つようではないか。その後の流れを考えると自分ばかり意識したようで恥ずかしくて頬が熱い。ああ、どうしてそんなことを思ってしまったのか。杏奈はあまりに居たたまれず、セオドアの腕の中で半ば頭を抱えるようにしてなるべく丸くなろうとする。彼にとって自分は恋愛対象ではないはずだ。もう散々抱き締められたりしている気がするが、そういう気配を感じたことは無い。あんな、色っぽい顔をされたことは、と脳内で彼の顔を思い返して慌てて打ち消す。もう家まで後少しなのに、きっと今首まで真っ赤だろう。あんな危険な表情を思い出したらいつまで経っても赤みが引かない。耳まで覆う帽子と、襟巻で首も全て隠れていることに感謝しつつ、早く心を静めなければと深呼吸を繰り返す。そうすると家中に漂っていたせいでセオドアにもうつってしまった焼き菓子の甘い香りがした。そのことが少しおかしくて、彼女の気持ちを静める役に立ってくれた。ちなみに悶絶している間ずっとセオドアの胸に頭をぶつけたまましがみついていたことに気がつかなかったことはもっと彼女の気持ちを静める役に立っていた。
「アンナ。」
まだ自分にひっついたまま無言を貫く杏奈にセオドアは声をかける。
「もう着いてしまうが、大丈夫か?」
杏奈はそっと顔を上げた。
「あの、私の顔、大丈夫でしょうか。」
赤くないか、という意味で聞いたのだが、その問いかけの意味が分からずセオドアは「は?」と問い返した。
「え、いや。赤くないかなって。」
「赤い?どうせこれだけ厚着して家に入ったらすぐ真っ赤になるぞ。何の心配だ。」
セオドアに言われて、杏奈はそうかと思い当る。厚着のせいにすればきっと大丈夫だ。ほっとして「大丈夫です」と返すと、セオドア思わず杏奈の額を指で弾いた。彼女が無言でしがみついている間中、ずっと彼女がどこかに消えてしまうことの心配ばかりしていたのに、この娘は自分の顔が赤いかどうかが一番の関心事なのか。
「お前なあ、もうちょっと他に心配なことがあってもいいんじゃないのか。」
思わずそう言うと、杏奈は「だって」と口ごもった。キスされるかと思ったら頭が一瞬で真っ白になってしまったのだ、とは言えない。なんとか真っ白になる前に考えていたことを思い出して言葉をつなぐ。
「次、どこかに飛ばされちゃうのは、私がしっかりしていればきっとないから。大丈夫です。」
セオドアは、その言葉に彼女が伏せているだけで「飛ばされる」原因を知っていることに確信を持った。そしてそれが必ず起こるものではないということに安堵する。
「じゃあ、しっかりしていろ。助けてやれることがあれば、何でも言え。」
「ありがとうございます。」
杏奈の中では困った時のセオドア頼みは、ほぼ習慣化されているので素直に礼を言った。
セオドアはヴァルター家の門の前で一度馬を降りて門を勝手に開くと杏奈を乗せたまま馬を引いて行く。その背中に杏奈は今夜別れる前にと、家人が出てくる前に急いで声をかけた。
「セオドアさん、話を聞いてくださってありがとうございました。」
セオドアは軽く振りかえった。
「いや、このくらいのことなら構わない。俺より司祭か学者に聞いた方が詳しい解説をしてもらえると思うけどな。」
杏奈は微笑んで、しかし首を横に振った。
「いえ。もういいんです。なんか、満足しちゃいました。」
「満足?」
「はい。」
たった一人、信じる、信じていいと言ってくれただけでとても気が楽になった。そういう人がすぐ近くに居てくれることの幸福も感じた。
「私、ここを離れたくないです。皆さんの傍にいたいです。だから、しっかり、します。」
しっかり、の意味するところは分からないがセオドアは先ほどの杏奈の様子に非常な不安を覚えつつ頷いた。とにかく彼女が離れたくないと思っていてくれることは良いことだ。自分のではなく皆の、というところが少し物足りないが杏奈らしい。思いを自覚した途端に物足りないなどと感じ始めるのだから、自分もたいがい現金なものだとセオドアは思う。
「ぜひ、そうしてくれ。お前が急に消えたらあちこち大変だ。」
セオドアの言葉に、杏奈の頭にすぐにアルフレドを筆頭としたヴァルター家の面々が浮かんだ。一日眠りこけていた日だって、大騒ぎでもうちょっとで医者を呼ぼうとしていたところだったと聞いている。
「あの、隊長さんには、このことをお話しておこうと思います。前世がどうというのは置いておいても、これまで知らなかったはずのことが随分分かるようになったので。」
居なくなった時に心配をかけないため、という後ろ向きな理由もあるが、それ以前にあの少女の生活を早回しのように夢で体験したおかげで、生活にまつわる多くのことが分かるようになった。それは彼女を社会に出すために勉強の機会をくれているアルフレドにはきちんと説明しておくべきだろう。それもセオドアがすんなり信じてくれたことで、やっと打ち明ける決心がついた。セオドアはアルフレドの反応を想像して苦笑いしながら賛成した。
「それがいいだろう。その話を聞いたらここの家の人間は更に過保護になるような気もするけどな。」
セオドアの言葉の最後のかぶせるように扉が開き執事とアデリーンが迎えに出てきた。
「おかえりなさい。随分暗くなったから心配したわ。寒かったでしょう。」
「テッド様、送っていただいてありがとうございます。しかし、できれば次回からはもう少し早く。」
セオドアは「な?」というように眉を上げて杏奈を振り返り、杏奈は笑って頷いた。そのまま手を伸ばして彼女を馬から下ろしてやる。すんなりとセオドアの腕におさまって着地し、見つめ合って笑いあう杏奈とセオドアの様子をみてアデリーンと執事はちらりと目を合わせた。
「テッド?折角来たのだからお茶でも飲んで行ったら?」
「そうですね、何なら夕食もいかがです?旦那様もすぐにお戻りになりますし。ゆっくりお話でも。」
何となく良くない気配を感じたセオドアは二人の誘いを素早く、かつ丁重に断ってヴァルター家を後にした。
彼を逃した二人は杏奈からそれとなく話を聞こうと思ったが、先に杏奈に御土産です、と籠いっぱいのクッキーを差し出されて、すっかりその気を削がれてしまった。