君の真実
帰路もまた馬の進む速度はゆっくりだった。もう薄闇がおり始めた道に小さなランタンが並んでいる。セオドアによると星祭りのために飾りつけられたランタンで普段よりだいぶ明るいのだという。石畳に残る雪が橙色に染まる夜道はなかなかに幻想的だ。
セオドアの前に横向きに乗せてもらった杏奈は、手綱を握る彼を見上げて話しかけた。
「男爵様とセオドアさんはとても似ているんですね。」
「そうか?」
彼を父に似ていると言う人はたくさんいるが、言われる度にそんなに似ているだろうかと不思議に思う。
「似てますよ。見た目もそうなんですけど。穏やかな雰囲気が。ほら、優しい感じとか。ほっとする感じとか。」
笑顔を浮かべて嬉しそうな杏奈の言葉を聞いて、セオドアは毛糸の帽子に包まれた彼女の頭を見下ろした。弟曰く、彼女は自分のような男が好みだと言っていたらしい。それを聞いた時には「嫌われてはいない」程度に八割引きで聞いておいたのだが、この発言はどう返していいものか。安心感がある穏やかな、で想像されるのは父親像ではないだろうか。自分も父と同様に杏奈から見れば「お父さん」みたいなものなのか。あるいは、彼女は父親のような男性が好きなのか。そんなことを考えながら、もう一つ思いあたったことを口にしてみる。
「親父がそんなに気にいったか。まあ、あの人も長く一人身だし年の差が気にならないのなら別に悪くは無いが。」
セオドアの言葉に杏奈は馬の背でぴくりと震えた。
(え?今の男爵様大好きみたいに聞こえた?いやいや、違う。違います。そういう意味じゃなかったです。)
杏奈は男爵に失礼にならない否定の表現を探すのに手間取って、もの言いたげな表情のまましばし静止した。それを見ながらセオドアは、さすがに父親狙いではなかったかと小さく笑って眉を下げた。
「いや、冗談だ。すまん。」
彼が助け船を出すと、彼女はがくっと首を俯けた。
「・・セオドアさん。冗談は冗談らしく言ってください。」
杏奈が小さい声でそう文句を言うと、セオドアは「すまん」ともう一度謝った。
「で、お前の話というのは親父のことではないんだろう?」
そう促されて、杏奈は本題に気持ちを切り替える。
「あの、吉夢ってご存知ですか?」
「ああ。白馬とか白熊とか白鳥とかが出てくる夢だろう。いいことがある予兆だと言い習わしがあるな。」
「はい、それです。私、それを見たんです。」
「それは良いことじゃないのか?」
セオドアは深刻そうに吉夢を見たという杏奈に問いかける。縁起の良い夢だ。それを見ただけなら「良かったね」でおしまいになるような話だ。きっと師団長のおまじないが効いたのだろう。
(ああいう子供騙しが実際に効いてしまうところが、やはり師団長は普通じゃない。)
あの日のアンドリューの武勇伝は噂に疎いセオドアでさえ耳にしたことがある。ヴァルター家で行われたパーティーの翌日には第三師団の半分程度が既に知っており、三日後にはほぼ全員の耳に入っていたことだろう。今では、その後日談としてアンドリューの副官が、妙齢の女性に無闇に顔を寄せるなど言語道断だとアンドリューに説教をして、アンドリューに杏奈への思いは本気かどうか詰め寄ったという噂まで流れており、その場での彼の回答がどうだったかが賭けの対象になっている有様だ。ここで、実際に杏奈が吉夢をみた、などという情報を投下したらアンドリューの神格化がますます進んでしまうことだろう。もちろん言うつもりはないが、と思いつつもセオドアはアンドリューがますます人間離れした存在に思えてきて仕方がない。
そうしてセオドアが黙っていると、杏奈は複雑そうに続けた。
「いいのか、悪いのか分からないんですけど。ただの夢じゃないみたいなんです。すごくはっきりしていて、今でもよく覚えています。その中で、私の前世というものを見たんです。」
それから杏奈は夢で見た少女のこと、それから白い鳥から聞いた話をセオドアに説明した。少女が不幸な死を迎え、そこに神の使いが居合わせたことで彼女の魂を留め置けなくなり、一度は遠く遠くへと送られこと。そして、その先で再び問題が生じて彼女はこちらの世界へ引き戻されたこと。愛してもいない男と結婚しようとして神の怒りにふれたという話しだけは何となくできなかったが、大白鳥だったものと話をしたのは2回目だったことはきちんと話した。話がときどき前後したが、セオドアは黙って話を聞いていてくれた。
「こういう話しって他にもあるんでしょうか。それとも、やっぱり実は夢で私の妄想なんでしょうか?あんまりはっきりと覚えているからどうしても夢という気がしないんです。でも、こんなことを他の人に話したら頭がおかしくなったと思われるんじゃないかって心配な気もしてしまって。」
最後に杏奈に問いかけられて、セオドアは天を仰いで白い息を吐いた。誰かから噂話として聞いたら荒唐無稽な話しだと思うだろう。相手次第では酒を飲みすぎたか、頭でも打ったかと言ったかもしれない。しかし、相手は杏奈で彼の知る限り、誇大な妄想に振り回されるような女性ではないし、酒も飲んではいないだろう。しばらく考えてからセオドアは答えた。
「俺には真偽はわからない。他では聞いたことは無いが、俺の知っていることが世界の全てではないし、何にでも初めてということはあるもんだしな。」
セオドアは正直に答えた。杏奈が嘘をついているとは思わない。だからこの話しも嘘だとは思わない。けれどそれが真実だと言えるほどセオドアは神の使いについて精通してはいなかったし、そうした魔法や神力の世界とも縁が無かった。
ただ、セオドアが知っているのは目の前にいる杏奈だ。
「だがお前が信じるなら、それがお前の真実だろう。俺はそれを信じよう。」
セオドアならばと一縷の望みをかけていたものの、本当にあっさりと信じてもらえるとは思っていなかった杏奈はかえって慌ててしまう。
「でも何も証拠もないし、馬鹿みたいなことかもしれませんよ。ただの夢かも。」
やや早口で言い募る杏奈を遮ってセオドアはゆっくり言い聞かせるように続けた。
「それでも、お前は信じたいんだろう?」
ここまでの話しぶりでそのくらいは分かる。何度も自分の話を否定しながら、信じてほしい、信じたいという気持ちが滲んでいた。図星を指された杏奈はぐっと言葉に詰まる。彼女にはあの夢はただの夢ではないという根拠のない確信があった。あの白い光は彼の言葉通り特別なもので、特別な力のあるものなのだと。でも、どこにも証拠はなく、彼女にはそれを筋道を立てて説明することもできなかった。夢から覚めて以来、白い光のことを信じたがる自分の気持ちと、そんな自分は頭がおかしくなってしまったのではないかという不安がないまぜになっていた。しかも、あれは夢だと自分の気持ちを押し殺そうとすれば、白い光を裏切っているように感じて気がとがめたのだ。
「だったら信じればいいだろう。誰に迷惑をかける話じゃない。」
セオドアの答えは杏奈の期待していたようなものではなかった。けれど彼の答えは杏奈のぐるぐるとした物思いをまるごと包み込んでくれた。彼の言葉に杏奈はいつの間にか緊張していた体の力が抜けるのを感じた。本当に力が抜けてしまった杏奈は馬の背が揺れるままぐらりと揺れてそのままドンとセオドアの胸に倒れ込んだ。「おっと」と片手で受け止められて慌てて身を起そうとしたが揺れる馬の背で一度バランスを崩すとなかなか元に戻せない。あわあわともがく様子を見下ろしてセオドアは声をかける。
「暴れるな、ステラが驚く。」
愛馬の脚を止めるとセオドアは杏奈が姿勢を正すのを助ける代わりに、彼女を両手でぎゅっと抱きしめた。その腕は強過ぎず、でも明確な意思を持って彼女を捕まえている。片頬をセオドアの制服の胸に押し付けられたまま杏奈は驚いて彼の胸を軽く叩いた。
「それで?」
セオドアの問いかけの意味が分からずに杏奈はただ彼の胸を叩く手を止めた。
「またどこか遠くへ行ってしまう日が来るのか?」
セオドアは杏奈の話を聞きながら、彼女が「遠くへ飛ばされてしまう」理由を曖昧にしていることに気がついていた。言いたくないのなら言わなくても良い。ただ、それがもう起らないのか、また起きうるのか、それだけは聞いておきたい。見つけた時の状況のせいか彼女が不意に現れた、という印象が強い彼にとって、杏奈が急に消えてしまう可能性は妙に真に迫って感じられた。自分の両腕では彼女を人知を越えた力から守れるとは思えないが、それでも思わず抱きしめてしまうのは、失いたくないという気持ちがあるからだ。セオドアは自分の腕の中で大人しくしている杏奈を意識して、この娘が急にいなくなったら、とぞっとする思いを味わった。
目が離せない。放っておけない。心配だ。ずっとそう思っていた。杏奈が半ばセオドアを父親のように見ているように、自分も彼女を妹や娘のように庇護すべきものだと感じているのだと思っていた。けれど、彼女がふといなくなるかもしれないと思い至った時の焦燥はそうした性質のものではなかった。言うなれば独占欲。どうしても奪われたくないものを為す術もなく失ってしまうことへの恐怖や怒りのようなもの。彼女を抱きしめてから、セオドアは自分の気持ちに気がついた。
(これは、つまり愛しているということだろうか。)
その気づきは驚きもなく嵌るべきところに欠けていたものが嵌るように彼の中に収まった。しかし、この場で自分の気持ちについて思いを馳せるよりも、彼にはもっと気がかりなことがあった。
「もし、俺の意思そのものが神の使いとやらに操られていたというのでないなら。お前は「こちら」に戻って来たとき、とても危険なところに倒れていた。恩を売るつもりはないが、あのまま、あの場所で永遠に目を覚まさなかったかもしれない。もう一度、どこかに行ってしまうことがあるのなら、お前はまた同じような目に合うかもしれない。また、記憶を失って、一からやり直しかもしれない。」
どこかへ行ってしまうということは、彼らが彼女を失うことであると同時に、杏奈が目を覚ましてから手に入れてきた全てを失うことでもある。そのことの方がよほど大変な事態だろう。
杏奈はセオドアの言わんとすることを理解して彼の胸に添えたままだった手に力を込めて、彼の服を握りしめた。本当に彼女の話を信じて、彼女を案じてくれる。そうだ、この優しい人に最初に見つけ出してもらったのは本当に幸運で、その後も出会いに恵まれてこうして家があり、友人や家族と思える人がいることも、次も起きるとは限らない奇跡だ。そう思ったら、杏奈は急に白い光の言う「また飛ばされる」という事態がとても恐ろしいことに思えてきた。ここを離れたくない。まるでセオドアにしがみついていたら、どこにも行かないで済むような気がして彼に身を寄せた。
自分の服を掴んで体を預けてくる杏奈の様子を見て、セオドアは自分の問いかけの答えはおそらく「はい」なのだろうと想像する。
「お前の人生は、よくよく苛酷だな。」
彼女の語った前世を信じるなら、何も悪いことなどしていないのにどうしてこれほど辛い運命が続くのだろう。怒りも理不尽さも感じるが、もし「それ」が避けられないことなら、せめて今、自分達の傍に居られる間だけでも幸せに過ごしてほしいと強く思う。
セオドアは軽く手を添えて杏奈の顔を上げさせると彼女の帽子越しに額をぶつけた。春を待つ木の芽のような不思議な色の瞳がじっと自分を見上げて、そのまま目を伏せられるのにつられて、思わず口づけてしまいそうになる。セオドアは自分も目を閉じてその衝動をやり過ごした。今は全幅の信頼を寄せてもらっていると感じる。急に態度を変えて杏奈にとって気兼ねなく頼れる存在でなくなってしまったら、誰が彼女の相談にのってやれるだろう。少なくとも今は彼女に求められるような自分のままで、優しい騎士のままで。セオドアは自分に言い聞かせた。
「せめて今度こそ、いい夢をみるように。」
額を合わせていた時間は長くは無かったが、セオドアはそう言うと手を緩めて再び馬を歩ませ始めた。