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思い出のクッキー

 お茶の支度ができたのでセオドアと杏奈は居間へ移動した。二人で並んでソファに腰掛ける。

「セオドアさんとチェットさんは仲がいいですね。なんだか家族って感じがしていいですね。」

 セオドアはじっと杏奈を見下ろした。アルフレドの家は子供はいないが、使用人を含めて家族らしく纏まっていると思う。自分達と何か違うところがあるだろうかと考えながら黙っていると杏奈から意外な言葉が転がり出た。

「私には兄弟がいなかったから、羨ましいです。」

「兄弟?記憶が戻ったのか?」

 そう問い返されて、杏奈ははっとした。まだ誰にも白い光に教わった話はしていない。まだ杏奈自身が半信半疑な部分があって、人に話してどう思われるか心配だったのだ。杏奈はどう答えたものかといくつか答えを考えてみたが、結局嘘をつくことも上手に誤魔化すことも自分にはできそうにないと諦めた。ここは正直に説明するしかないだろう。セオドアなら、端から馬鹿にしたりはされないという安心感もある。

「戻ったというか、そうでもないかもしれないというか。自分でもまだ良く分からなくて。」

「分からない?」

「はい。」

 杏奈は、難しい顔をしてどう説明しようか迷った。

「ちゃんと話すと長くなってしまいそうなんですけど。でも、まだあまりたくさんの人に言いたくないというか。」

 杏奈の歯切れの悪い様子に、セオドアは話し途中でチェットや父がやって来てしまうのを気にしているのだろうと察した。

「何かひっかかることがあるのなら無理に話さなくてもいいんだぞ。」

 そう言われて、反射的に杏奈は首を横に振った。これまで散々世話になっておいて記憶が戻ったことを、それが間違いかもしれないにせよ、彼に伝えないのはあまりに誠意が無い。

「いえ、もしよければ聞いていただきたいです。自分でも混乱していて。うまく話せないかもしれないですけど。」

「それは構わないが。じゃあ、帰りは俺が送るからその時に聞こう。」

「ありがとうございます。」

「いや、礼を言うのは早いだろう。聞いてなんの役に立てるかも分からないぞ。」

 杏奈は小さく笑った。

「聞いてもらえるだけで、たぶん、違うと思うんです。」

「そんなものか。」

 セオドアは話の具体的な内容の想像もつかないままに杏奈を不思議な気持ちで眺めた。



 そのまましばらくお互い言葉もなく暖炉で薪の爆ぜる音を聞いていた。

「これ以上待つと茶が冷めるな。」

 セオドアは呟く。弟は父に声をかけておくと言ったが、本当に呼んだのだろうかと訝った。その気になれば大声を出せば家中に届く程度の広さだ。これほど時間がかかるとは考えられない。

「ちょっと待ってろ。」

 そう言ってセオドアは居間を出ると、そこから十歩程度で辿りつく父の書斎の戸を叩いた。果たしてセオドアの予想通りチェットは父に声もかけずどこかに行ってしまっているらしいことが確認できた。きっと幼馴染の機嫌をとりに行っているのだろう。事情を手短に説明しながら父を居間に招くと、父は静かに微笑んで「相変わらず、あの子は馬鹿だね。」と一言だけ発した。


 二人は杏奈の待つ居間に戻りチェットを待たずにお茶を始めることにした。

「いいんですか?」

「そのうち帰ってくる。」

 杏奈にもなんとなくチェットは幼馴染の元に行っているのだろうと予想がついたので、それ以上は言わずに三人は言葉少なにクッキーを齧り始めた。

「美味しい。良くできているね。」

 男爵から褒め言葉を貰って、杏奈は「ありがとうございます。半分以上はチェットさんのですけど。」と少し照れくさそうにお礼を述べた。

「チェスターのは飽きるほど食べているから、どれが君が作ったのかくらいは分かるよ。」

 男爵がそういって一つ摘まんで見せたのは確かに杏奈が作ったものだった。彼女は感心して男爵をみつめた。その驚いたような視線に応えるように男爵は付け加えた。

「あの子には、一時これだけで満腹になる程食べさせられたからね。」

 男爵は小さく笑って愛おしそうに星型の小さなクッキーを見つめた。


 彼の妻が亡くなってしまったとき、子供たちも悲しんだが、一番長いことその喪失感から立ち直れなかったのは夫である男爵だった。ひと月、ふた月と時が流れれば子供達は段々と立ち直っていくというのに、男爵は毎朝家中を歩き回り、家のどこにも愛する妻の気配のないことに打ちひしがれていた。そんなとき、星祭りのためにと幼かったチェットが女中の手を借りて作ってくれたものがこれだった。妻が毎年、バスケットから溢れだす程焼いて、食べろ食べろと彼や子供たちに胸やけするまで食べさせたクッキーだ。仕事から帰って、匂いを嗅いだ時に妻が台所にいるのではないかとあるはずもないことを思って、台所に駆けこんだ。当然、そこにいたのは、彼が毎日会いたいと願ってやまない妻ではなかった。そこにいたのは服も、髪も頬も、手も真っ白い粉だらけにした彼の息子だった。

「お父さん、これ食べて。」

 小さな手で差し出してくれたバスケットにはいびつな星型のクッキーがたっぷり詰められていた。

「全部食べて。あのね、これを食べたらもうお父さんが悲しくならないよ。僕の幸せいっぱい入れたからね。」

 必死な表情の息子をみて、男爵はバスケットごと子供を抱きしめて妻の死以来初めて声を上げて泣いた。それからもちろん、その焼け過ぎだったり、逆に生焼けだったりするクッキーを全部食べた。おかげで翌日一日寝込んだが、確かにチェットのクッキーは良く効いて、男爵はゆっくりとだが妻を失った悲しみから前に進むことができるようになった。


 セオドアも父が何を思い起こしているか分かっていた。泣きながら騎士の制服が白く汚れるのも構わず弟を抱きしめていた父の後ろ姿を覚えている。その後、途中ちょっと顔色を悪くしながらも弟の焼いたクッキーを食べていた姿も。セオドアも感慨深く手の中のクッキーを見つめる。チェットが差しだしたクッキーはセオドアも手伝って二人で作ったのだが、兄が手洗いに外している間に父が帰宅してしまい、彼が台所に戻った時には父子の感動の構図が完成していたので、「僕も一緒に作ったんだよ」とは言い出せなかった。昔からこの兄弟はそういうところがあって、兄は間が悪く損をしがちで、弟はちゃっかりと棚から牡丹餅を持っていくことが多い。父と弟の心温まる思い出も、セオドアにとっては美味しいところを弟に持って行かれた数ある歴史の一つとして記憶に留められている。念のために言えば、気を利かせた使用人が後で男爵に兄弟の合作であったことを知らせてくれたため、今では父もことの真相を知っている。


「あっれー、もう食べちゃってるの。ずるいなあ。」

 出ていった時と特に変わらない様子のチェットは大幅に遅れてきたことなど無かったかのように空いていたソファに腰かけた。

「お前が遅いんだ。茶は冷めたぞ。」

 セオドアが冷たくそういうと、本当に冷めてしまったお茶をすすって「ほんとだ、冷めてる」とチェットはくすくす笑った。その様子には杏奈だけでなくセオドアと男爵も怪訝な表情になった。

「気持ちの悪い奴だな。」

「うん、別に?」

 セオドアは弟が何も言いたくないらしいと察してそれ以上は聞かなかった。もう20歳を超えて兄が口を出す筋合いでもないだろう。それ以上、チェットの不審な挙動については触れず、四人で最近の杏奈の生活やチェットとセオドアの子供の頃の話などで穏やかな時間を過ごした。



 窓から入る陽の光がすっかり弱くなった頃に楽しいお茶の時間は終りになった。

「そろそろ送って行かなきゃね。あんまり遅くなったらフレッド叔父さんに絞め上げられそうだ。」

 チェットが素早くテーブルの上の茶器を片付けはじめるとセオドアがすっと立ち上がって声をかけた。

「帰りは俺が送ろう。お前は放り出して行ったオーブンでも片付けておけよ。」

 帰宅後、着替えをしていなかったおかげでセオドアの外出の支度はマントを羽織ってブーツを替えるだけで済む。チェットは思ったよりも積極的な様子の兄に満足し「はーい」と満面の笑みで答えてから杏奈を連れて台所に向かった。


 杏奈とチェットがお土産を籠に詰め終って居間に戻ると、まだ男爵は暖炉の傍で残りのクッキーを齧っており、チェットに「夕飯が食べられなくなるよ。」と皿を取り上げられた。その様子を杏奈に見られたことに気がついて彼は気まずそうに目を逸らしたが、その視線の先に杏奈のコートをみつけると立ち上がって彼女に着せかけてくれた。

「ありがとうございます。」

 恐縮しきりの杏奈にコートを着せ、マフラーをぐるぐる巻きにした男爵は満足げに頷いて「寒いから風邪をひかないように」と声をかけた。

「アデリーンとアルフレドにも彼らの娘ができたことを祝福すると伝えておくれ。」

 そう言って男爵は暖かい部屋で厚着をしたせいか、温かい言葉に感激したせいか頬を染める杏奈の背を押して帰りを促した。

ローズ家の過去を少しだけ。愛のある家庭です。

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