お料理教室
その冬、初めて雪が降った翌日にチェットがやってきた。彼の家で料理を教えてくれるという約束を果たしにきたのだ。
杏奈を馬に乗せていってあげると笑うチェットの言葉を聞いた女中たちは、それぞれに自分の部屋に駆け戻り杏奈のためにコートと襟巻、手袋に帽子を持ってきた。今やすっかり冬も本番だ。馬に乗るにはたっぶり厚着をしなければならない。
あっという間に女中たちにぐるぐる巻きにされた杏奈をみて、くすくすと笑いながらチェットは扉を開いた。
「さあ、行こう。じゃあ、叔母さん夜には送ってくるから。」
見送りに出てきたアデリーンに挨拶をしてチェットは杏奈を連れ出した。
部屋の中では暑い程の厚着だったが、一歩外に出ると冷たい風が毛糸の隙間に残っていた暖かい空気を瞬く間に運び出して行く。チェットは慣れた道をゆっくりと進んだ。
「あの、チェットさん。今日はおうちにはどなたがいらっしゃいますか?」
「ええとね、父さんはいる。兄さんは夕方には帰ると思うよ。」
思うよ、などと言いつつもチェットは兄の予定を把握した上で、今日という日を選んでいた。兄と杏奈をアルフレドの目の届かないところで会わせてやるためだ。
(叔父さんがいる限り、この二人に進展は望めなさそうだもんね。ただでさえ時間かかりそうな組み合わせなのに。)
チェットにとって諸先輩からの注意やお願いなど兄の幸せに比べたら塵のようなものである。久々に女性に好意らしきものを見せている兄の背中を押さない理由がない。そうしたわけで、杏奈が言っていた好きな男性像についても「兄さんみたいな人がいいらしいよ。」と思い切り意訳して伝えてある。それを聞いたセオドアの反応は「そうか」という実に盛り上がらないものであったが、そんなことでめげていては彼の兄にまっとうな恋人を作ることなどできない。
ヴァルター家の貴族のお屋敷然とした大きさと比べると、ローズ家は一般の家に限りなく近い。現在の当主であるチェットとセオドアの父親は男爵として貴族の末席に名を連ねているが、代々一介の騎士として職を全うしていく家柄であり財を成すこととは縁がない。家の建物自体は古くて大きくも無いが、庭も家も良く手入れが行き届いている。使用人はほとんどいないと聞いているが、家族が、あるいはその少ない使用人が心をこめて手入れをしているのだろう。
「ただいまー。」
玄関扉を開いて大きな声で声をかけても誰も出て来ない。しかし、これがいつものことなのでチェットは気にすることもなく進んで行く。
「ちょっとここで待っててね。料理を始める前に、まずは父さんに声をかけてくるから。」
厳重にまかれた襟巻を外すのに手こずっている杏奈を居間に残してチェットは出ていく。どうやら彼らの父は在宅中らしい。初めての人にご挨拶するまでに身支度を整えないとと杏奈は急いで襟巻を外し、コートと帽子も外してソファーの隅に積み上げた。
「お待たせ―。」
チェットが戻ってくると、彼の後ろからもう一人壮年の男性が現れた。もう白い物が混じっているが薄い茶色の髪は兄弟と同じだ。切れ長の瞳に甘さの少ない顔立ちも子供たちによく似ている。間違いなく彼らの父親だろう。
「アンナ、僕らの父さんだよ。君の叔父さんになるね。父さん、フレッド叔父さんのところの新しい家族だよ。」
「はじめまして。アンナです。お世話になります。」
杏奈が緊張しつつぺこりと頭を下げて、頭を上げると男爵は優しい眼差しで見ていてくれた。
「はじめまして。よろしくアンナ。チェスターはやかましいだろうが、ゆっくりしていきなさい。」
大きな笑顔はないが、その表情は柔らかくて穏やかだ。杏奈はセオドアは父親似なのだなと納得した。
じゃあ、今日はこっちに、と彼が次に案内してくれたのは台所だった。
「わ。」
一歩入った瞬間に何か閃くものがあった。直感的に懐かしく感じたのは、あの夢の中の少女が毎日使っていた台所に似ているからだろう。杏奈は笑顔を浮かべてぐるりと台所を見渡した。3人ほどが一斉に料理できる広さは家庭の台所というには少し広すぎるかもしれないが、どこも良く使いこまれ、清潔で、それでいて適度に乱雑だ。居心地のいい場所だと感じた。
「気に入っていただけたかな。」
チェットに声をかけられて杏奈は勢い込んで「はい」と彼を振り返った。
「懐かしい感じがします。」
嬉しそうなその言葉を意外に感じてチェットは目を瞬かせた。記憶が無くても懐かしいという感情は湧くものなのだろうか。もし、そうだとしたらそれは何だか良いことのような気がするとチェットは思う。彼はその点には触れず「それは良かった。我が家と思って好きに使ってね。でも我が家と思って大事に使ってね。」と言いながらエプロンを差し出した。彼は台所の雰囲気にぴったりの年季の入った白いエプロンをつけている。杏奈に差し出されたものは誰か女性のものらしく、きちんと洗われているが新品ではない。なんだかそういう家庭の雰囲気を感じさせる一つ一つが無性に嬉しくて杏奈はにこにことエプロンをつけて、チェットの指示を待った。
「今日はお菓子を作ろうと思うんだ。もうすぐ星祭りがあるからプレゼント用にね。」
「星祭り、ですか?」
「うん、知らない?」
チェットが説明してくれたところによると、古くから国中で祝われているお祭りなのだという。神が宿ると言われる星を最も長く見られる冬の夜に神の恵みへの感謝の気持ちを示すべく、御馳走を捧げ、そしてそのまま一晩中飲み明かすらしい。「その日のごちそうは星の形に作るんだ。自分が作った星型の食べ物を大事な人に渡して、食べてもらえば自分の分の幸福を相手に分けてあげられると言われていて、小さな星型のお菓子なんかを贈りあうんだよ。」そういってチェットが戸棚から取り出してかざして見せたのは星型の抜き型だった。
「亡くなった母が毎年大量に作ってくれたんだ。あんなに幸福をばら撒いたから早く亡くなったんじゃないかって思ったこともあったんだけど、自分が作るようになったら、やっぱり山ほど作っちゃうんだよね。」
チェットは説明しながら、次々と台の上に材料を並べていく。どうやらクッキーを焼くようだ。
「人に幸福を願うのをさ、ケチケチしてたら結局自分も幸せになれない気がしない?」
にこりと問いかけられて、杏奈はそのおおらかな考え方がとても素敵だと思った。杏奈が大きく頷いて同意すると、チェットは我が意を得たりと胸を張り「ようし、じゃあ遠慮なくたくさん作っちゃおうか。」と腰に手を当てて仁王立ちになった。
台所に収まっているにはチェットは少し大柄すぎるが、作業台の低さも通路の狭さも慣れたもののようで、材料と分量を説明しながらてきぱきと調理を進めていく。材料を計って、混ぜて生地を寝かせる。生地を冷たい石張りの台の上にまとめると、一旦お休みになる。
「じゃあ、手を洗って一服しよう。お茶を入れるよ。」
バターと卵でべたつく手を洗いあげると、チェットはまた別の戸棚に並んでいる大量の缶の中から一つ選びだした。そのまま台所で飲んでしまうつもりらしく大きなコップにたっぷりお茶を用意する。彼がお湯を沸かしたりお茶の準備をしている脇で杏奈は使い終わった道具を洗って片付けていく。次は生地を伸ばしていよいよ星型の型抜きをするのだ。作業場を広く取っておかなければたくさんの星を並べきれないだろう。
「ありがとう、お茶が入ったからきりのいいところで終りにして飲もう。」
チェットは台所の片隅から小さな丸椅子を二つ引きずってくると身を縮ませるようにして一つに腰かけた。
既にオーブンの加熱を始めているおかげで台所は暖かく、クッションの無い椅子に腰かけても寒さは辛くない。
「ありがとうございます。いただきます。」
片手では支えきれないくらい大きなコップを受け取って、両手で抱えて一口すると濃厚な花の香りの立ち上る紅茶だった。味は渋すぎず、ほんのり苦みがあって飲みやすい。
「美味しいです。」
杏奈が顔を上げると、少し心配そうに見守っていたチェットは安心したようで「口にあって良かった」と微笑んだ。しばらく二人は無言でお茶を吹いて冷ましては飲む動作を繰り返していたが、途中でチェットが「ねえ」と声をかけた。
「はい。」
「叔父さんのところでお菓子を作ったことはある?」
「いえ、無いです。」
杏奈が手伝わせてもらっているのは昼食の準備や、片付けなのでお菓子を作る機会は無い。その答えを聞いて、チェットは「そうか」と少し考えるように黙り込んだ。杏奈は彼が、これからの作業をどう教えようか考えているのだと思い大人しくしていた。しかし、チェットが考えていたのは、ここまでの作業ぶりや何も言わなくても次の作業を見越したように手際よく道具を片付けたり、並べ替えたりする杏奈のことだった。料理は得意じゃないようなことを言っていたが、一つ一つの手つきは十分手慣れて見える。覚えていないだけで、以前は自分で台所に立って料理する機会があったのではないだろうか。細かいことは思い出せなくても、体が覚えていることは自然とできるのだろう。記憶喪失というものについて詳しくないし、杏奈自身についてもまだ知り合ったばかりであまり突っ込んだことを言って彼女を混乱させるのも怖い。とりあえずは兄か、あるいはアルフレドに相談するのがいいだろうかと思いを巡らせていた。