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夢の道標 その1

 その晩、杏奈はせっかくいただいたからとミラードがもってきた香水を数滴枕に染み込ませて寝ることにした。小瓶の蓋を開けるとほんのりと花の香りがする。

「あ!」

ゆっくりと傾けようとして手を滑らせた。ぽとぽとと思ったよりも多くの水滴が枕に沈んでいった。失敗したなと思うけれど、花の香りは優しく、むせ返るほどではない。慣れない夜会の疲れもあり、今から枕を替える気にはならなかった。そのまま布団に潜り込んで柔らかい花の香りに包まれるとあっという間に眠りに落ちた。



 そして、彼女は夢を見た。




 冬の川原で洗濯をしている小さな少女。やせっぽちで、粗末な服を着ている。彼女の脇に積み上げられたたくさんの洗い物。少女は冷たい水に手を真っ赤にしながら、鼻歌交じりに洗濯を続ける。

 何枚も、何枚も洗い物を続けていると、一瞬太陽の光が遮られ空から大きな白鳥が舞い降りた。

「鳥さん!こんにちは。」

 少女の脇に降りたった白鳥は少女と洗い物の山をじっと見て「またこんなに背負って来たのか。危ねえから止めろって言っただろう。」と少女を責める。

「あの崖から足でも滑らせてみろ。大怪我するぞ。」

 鳥は鳴き声しか発していないのに、言葉は少女にきちんと伝わる。少女は白鳥を見てただニコニコ微笑むばかりだ。

「かー、お前。全然分かってねえ顔してんな。馬鹿だな。」

 少女は白鳥に会えたことが嬉しくて、白鳥の言葉などろくすっぽ聞いていない。

 少女は村に帰っても友達など一人もいない。友達と遊ぶ暇が無いから、友達ができない。毎日、家で父と母の言いつけを守り朝早くから夜遅くまで家事に追われて疲れて眠る。洗濯の途中で偶然出会ったこの白鳥だけが、彼女の友達だ。絶対、人に教えてはいけないと言われたので、ここで白鳥とときどき話したり遊んだりしていることは秘密だ。少女が遊んでいることを知れば、父は怖い顔をして怒るだろう。母に食事をもらえないかもしれない。

 誰にも秘密だけれど、やせっぽちの少女が一番楽しみにしている白鳥とのわずかな時間。白鳥と出会って以来その時間だけが彼女を子供でいさせてくれる優しい時間だった。


「お前、もうすぐ誕生日だろ。花でも銜えて来てやろうか。」

 帰りが遅れたら父親に怒られる。少女は手を休めずに白鳥に答える。

「ありがとう。でも何か持って帰ったらお父さんに怒られるし、鳥さんのことも知られてしまうかもしれないからきっと駄目よ。」

 少女の父は怒りっぽい。少女が嬉しそうだったり楽しそうだったりすることが許せないらしいので贈り物など持って帰ったらきっと大変だ。白鳥は長い首を巡らせて、ちょうどいい贈り物を探したが少女の気を引きそうな良い物は見つからない。

「じゃあ、また会いに来てお話してくれる?」

 少女はそう言って微笑む。白鳥の浅葱色の目に映る緑から灰色へ変化する不思議な瞳の小さな少女。

 慎ましく、優しく、ろくに食べさせてもらえないおかげで、来年には成人する年齢だと言うのに子供のように小柄な少女。神の使いとして一定以上の人との接触を許されない白鳥が、禁を犯して付き合い続ける数少ない友人だ。神の使いの力に縋ろうともせず、彼のことを売って儲けたり有名になったりしようともしない。本当の意味での友人。彼女が何を言わなくても彼女が家でどう扱われているか、白鳥には分かってしまう。気性の荒い父に怯え、後妻としてやってきた母に冷たく扱われ、朝から晩まで働きづめだ。

 白鳥は巡らせていた首を自分の羽に突っ込んだ。

「じゃあ、これやるよ。何か聞かれたら拾ったって言えばいいだろ。」

 白鳥が差しだしたのは白い彼の羽。

 少女は大きな羽を受け取って、その白の美しさに見惚れた。彼女が見たことがあるどんな美しい物より綺麗な白い羽。

「綺麗。ありがとう、鳥さん。」

 少女は羽を洗濯物の中に大事にしまって家に持って帰った。水を吸った重たい洗濯物を背中に担いで山を降り、村へと帰る。家に帰って洗濯物を干す前に白い羽をそっと自分の寝台にしまった。それから毎日寝る前にはその羽を撫で、白鳥に会えない日も少女の不思議な友人のことを思って寝た。そうすると寂しさを忘れて眠ることができた。


 小さな村の、小さな家。その中に彼女が大事に隠した小さな秘密。

 本当に、ささやかな、ささやかな彼女の幸せだったのに、ある日それは家人の知るところとなってしまう。


「おい、お前。これは何だ。どこで見つけた。」

 大柄な父に見下ろされて、少女は恐怖に強張る体をなんとか支えて返事をする。

「拾った。」

「拾った?どこで?いつ?」

「も、森で。春に。」

 彼女が震えながら答えるのを聞いた父親は「なんで黙ってたんだよ。馬鹿野郎が。」と彼女の頭を乱暴に揺さぶった。大きな白い羽。神の御使いと言われる大白鳥のものに違いない。希少な大白鳥を捕えることができたら、大きなお金になるだろう。父親は少女の腕を乱暴に掴んで家を飛び出した。

「さあ、これを見つけたところへ連れていけ。」

 引きずられるように走りながら少女は一生懸命に考える。大切なお友達を絶対に父親に会わせてはならない。なんとか違う場所に連れて行って諦めてもらわなければ。

 いつもの山の入り口で適当に、この辺だったと茂みを指す。父親は茂みの中に飛び込んでガサガサと辺りを探し始める。少女がその様子を見ているのに気がつくと「何ぼさっとつっ立ってんだ。お前も探せ。羽だけだって金になるんだ。」と怒鳴った。少女は父に逆らえない。夕闇せまる森の中でひっかき傷をいっぱい作りながら見つかるはずのない羽を探した。その日は暗くなって諦めたが、それから少女の仕事に山の入り口の茂みを漁ることが加わった。鋭い葉でつく切り傷が無い日は、手を抜いたのかと怒られる。少女の手や足には傷が絶えなくなった。

 でも少女にとってそれよりずっと悲しかったことは白い羽をみつかったその日に取り上げられてしまったこと。父は自慢げにそれを村の者に見せびらかし、村の外れの小さな一家は途端に有名になった。

 羽を奪われてしまった後も、少女は変わらず川で洗濯をする。時折やってくる白鳥が彼女の傷が絶えないことを気にかけても彼女は何が起きているのかは教えなかった。せっかくもらった羽をとられてしまったことも、どうしても言いだせなかった。



 次の冬が過ぎて、少女は大人になる。

 ある日父親が言った。少女は嫁に行くのだと。嫁ぎ先を決めて来てやった、と自慢げに告げられたのは村長の家の息子だった。

「あの羽、お前が見つけたと教えてやったら二つ返事さ。幸運の女神がついているだろうって。」

 その日の父は終始上機嫌だった。

 村長の家は少女の家に比べればとても裕福だ。一日も早く娘を追いだしたい母親と一日も早く嫁を迎えたい村長の利害が一致し、彼女は結婚式より前に村長の家に移り住むことになった。大きな家に案内された少女が見たのは窓には格子がはまり、扉には鍵が付いている部屋だった。外から人を入れないためではなく、中の人を外に出さないように。

「結婚式の日まで、ここにおいで。お前は外に出るとすぐに転んだり怪我をして帰ってくると聞いたよ。傷だらけの嫁をもらったんじゃ良い笑いものだ。ちゃんと大人しくしているんだよ。」

 村長の息子は優しい口調で、しかし冷たい瞳で少女を部屋に閉じ込めた。

 少女は来る日も来る日も部屋の中でたった一人の友人を思った。急に自分が来なくなって、心配してやいないだろうか。村まで探しに飛んできてしまいやしないだろうか。そうしたら父が自慢の弓を持ちだして白鳥を射ようとするだろう。皆、あの手この手で彼を捕えようとするだろう。どうか、飛んできませんように。彼女は窓から空を見上げ祈り続けた。



 結婚式の日。痩せた体は相変わらずだが少女の傷は癒え、着飾った姿は村の誰もが驚くほど美しかった。彼女を送りだして以来一度も顔を出さなかった父親がしきたりだからと彼女を祭壇へと導く。その途中でやけに立派な服で正装している母と親戚たちを見て、少女は自分は売られたのだと理解した。

 回廊を抜け、祭壇で新郎と対面する。あの日、彼女を家に閉じ込めていった時と同じ冷たい瞳が彼女の姿をみて驚愕の色を浮かべるのを見た。それからいやらしい笑顔を浮かべるのも。

 司祭はつつがなく儀式を進め、二人に愛の誓いを立てさせる。

「誓います。」

 本当はちっとも愛してなどいないけれど。少女には選択肢はなかった。泣けば、また父が怒るだろう。彼女は涙をみせず顔をあげる。そして司祭の後ろの大きな窓を、更に大きな影が横切るのを見た。

「おい、なんだあれ」

「大白鳥じゃないのか!」

 参列していた者達も、それに気がついて騒然となる。少女は教会の外へと駆け出した。走りづらい靴を脱いで裸足で飛び出せば、空高く円を描いて回る白い鳥の姿。

「本当に、お前は幸運の女神がついているんだな。お前、あの鳥をもっと近くに呼べないのか。」

 追いかけてきた村長の息子が彼女の肩を強く掴んだ。少女ははっとして首を横に振る。ああ、早くもっと遠くへ逃げて。少女の願いが聞こえたかのように白鳥は飛び去った。

「森の方へ行ったぞ。羽くらい落ちてるかもしれないぞ。」

 村人は我先にと森へ駆けだす。少女も今しがた結婚の誓いを立てたはずの夫に腕をひかれて走った。裸足のまま村を抜けて森へ入る。もうこの森へ来てはいけないと白鳥に伝えなければ。少女は必死に走った。

 夜盗狩りでもするかのように村人は森をくまなく探しまわって行く。このままではいつか二人の秘密の場所が見つかってしまうかもしれない。陽が落ちて森の中が暗くなった頃、少女は夫の隙をついて駆け出した。早く、早く。もう来ては駄目だと伝えなければ。


 少女が逃げ出したことに気付いた村人が追ってくる。彼女は何度も転びそうになりながら林を走りぬけ、いつも洗濯をしていた川原の上の崖まで辿りついた。そしていつものように川原に佇んでいる白鳥を見つけた。

「逃げて!」

 少女は叫ぶ。

「もうここへ来ては駄目よ。逃げて。捕まえられてしまう。」

 彼女は急いで崖を降りようとして、そして足を滑らせた。



 少女を追ってきた村人達が見たものは真っ白い花嫁衣装を血で染めた少女と、その少女を愛おしげに羽で包み込む大白鳥の姿だった。

「いたぞ、白鳥だ。大白鳥だ。」

 その叫びに松明を持った村人が続々と集まってくる。

 白鳥は逃げなかった。

「馬鹿野郎。だから危ないっていったろ。急に姿を見せなくなって、様子を見にきたら。お前、俺を庇って命を賭けるなんて馬鹿なことしやがって。俺を何だと思ってんだ。」

 村人には鳥の鳴き声にしか聞こえない音に、少女が薄く微笑む。

「大事なお友達。」

「この馬鹿。神の使いだ。お前みたいなチビに守ってもらわなくたって人間なんかに捕まりゃしねえよ。なんでもっと早く俺を呼ばないんだ。こんなことになる前に。」

 白鳥の羽の中で少女の命が失われていく。


 白鳥は大きく鳴いた。ありったけの力を込めて。




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