いい夢を見る薬
「しょうがないですね、あの人達は。」
ミラードはあきれ顔で、アルフレドがアンドリューに説教を続ける脇で杏奈が展開についていけずに立ち尽くしている様子を見やった。
(まあ、しばらくそのまま続けてもらおうかな。こっちの話が終ったら助けに行きますよ。)
ちょうどよくアルフレドの囮になってくれている友人に心の中で感謝しつつもミラードは彼に背中を向けた。そして杏奈に向き直ると「久しぶりですね」と声をかけた。杏奈はミラードの方に視線を向けて返事をしようとして、目があった瞬間にもう一度静止した。
(師団長さんのキラキラ光線が平気になったと思って油断したわ。ミラードさんも眩しすぎる。)
杏奈は慎重に少しだけ目を逸らしてから首を縦に振る。
「お久しぶりです。」
ミラードは一歩下がって杏奈の全身を視界に入れると目を細めた。
「本当に、とても綺麗ですね。」
ミラードがそういうと、杏奈は口を小さく何度か開け閉めした。ミラードがその様子を可愛らしいな、と思って見守っていると何度目かにようやく彼女の言葉は声になった。
「ミラードさんの方が、ずっと綺麗です。というか、私なんて全然。足元にも。」
意外な返事にミラードは目を二回瞬かせた後で目尻に皺を寄せて笑った。
「ふふ。お褒めの言葉、どうもありがとう。」
その笑顔は少年のようで、杏奈はようやくほっとする。
「ミラードさんも、お仕事だったんですか?」
「ええ、もう少し早くにと思ったのですが、思ったより長くかかってしまいました。」
ミラードの仕事の内容など杏奈には想像もつかなかったが、仕事と言えば大変なもの、という理解がなされている杏奈はきっと疲れているに違いないと考えた。
「お疲れでしょう。お食事は?召し上がられます?」
先ほどチェットに勧めてもらった食事はみな美味しかった。まだ十分残っているし、と軽い気持ちで問いかけた杏奈は、微妙な表情になっているミラードを不思議そうに見上げた。
「ミラードさん?」
「ああ、失礼しました。少しいただこうかな。」
にっこりと頷かれた杏奈は、はりきって先ほどチェットに教わったばかりの説明をしながら料理を勧め始めた。
(こんな可愛い子が毎日こうやって家で迎えてくれたら、疲れも吹っ飛ぶだろうなあ。)
外見にそぐわぬ俗な感想を抱かれているとは知らないまま、杏奈はお皿にいくつかの料理を盛ってミラードと二人で空いているテーブルに落ち着いた。美しいナイフとフォーク捌きで上品に食事を進めつつ、ミラードは杏奈に問いかける。
「王都の生活も少しは慣れましたか?」
「はい。皆さん、本当によくしてくださって。まだできないことばかりですけど、段々慣れてきていると思います。」
「そう、それは良かった。怪我の方は?」
杏奈は軍医にしたのと同じように腕の具合を説明した。軍医が様子を見に来てくれると言っていたことまで言い添えるとミラードは、ではそちらは彼に任せておけば心配ないでしょうと怪我の話題は切り上げた。
「最近は怖い夢はみないですか?」
「あの日の、森のことはまだ思い出します。でも怖いという気持ちはもうだいぶ良くなりました。」
杏奈はまだ暗い森で一人走っている夢や剣を振りおろされるのを震えながら見上げることしかできない夢を見ることがあった。寝ている最中、それはただの恐怖でしかないのだが、目が覚めた後はその恐怖は長続きしなかった。良い香りのする暖かい部屋で自分はもう安全な場所にいるのだと思うと震えることもないし、夜明けが近ければ空をみているだけで気持ちは落ち着く。そう説明すると、ミラードは「そうですか」と微笑んで頷いた。
「気持ちの切り替えができるのはいいことです。良い香りというのも良いのですよ。心を落ち着かせてくれますから。」
そう言って彼は上着の内側から小瓶を取り出した。
「もしまだ辛いようならと思って持ってきたのですが。もう必要ないかもしれませんね。それでも念のため渡しておきます。」
薄青の小瓶は花の浮き彫りがされていて、見た目にも可愛らしい。
「これは?」
「夜光草の花から作る香水です。心を和らげて、悪夢を退けてくれます。枕に垂らして使ってもいいですし、寝る前に身につけても効果があります。日中使っても問題はありませんが、退屈な日は昼寝したくなってしまうかもしれません。」
「いただいていいんですか?」
ミラードは「もちろんですよ」と頷いた。
「貴方のために持ってきたんですから。命の危険を味わうと言うのは普通のことではありません。軽く考えないで、じっくりと時間をかけて心の傷も癒して行かないといけませんよ。すぐに元気にならなくてもいいんだ、というくらいの気持ちで。」
杏奈は神妙にミラードの話を聞いた。こうして語りかける時の彼からは、杏奈を緊張させるキラキラしたものは出ていなくて、安心していられる。おそらくこれが、彼の司祭としての顔なのだろう。
「また、話を聞きに来てもいいでしょうか。」
ミラードがそう問いかけた時も、杏奈のことを案じている司祭の顔のままだったので杏奈には断る理由がなかった。
「さあて、そろそろ我が親友殿を救出してあげないといけないですね。」
ミラードはそう言ってアルフレドに小突かれているアンドリューに目を向けた。杏奈も同じように振り返り二人の様子を目に入れる。
「師団長さんとはお友達なんですね。」
「はい、子供の頃からの友人です。」
そういってアンドリューをみて笑うミラードの笑顔は優しく、杏奈は古くからの友人というのはいいなあと羨ましく思った。今、自分の傍に居てくれる人に不満があるわけではないが、記憶が無いせいか子供のころからお互いを知っているという関係がとても貴重に思えたのだ。
「いいですね。」
杏奈がぽつりと呟くと、ミラードは「無理ばかりする友人を持つと苦労も多いですよ。」と微笑んだ。
「アンドリューはとにかく無理ばかりするから。今は随分良くなりましたけど、それにしたって心配する方の身にもなってほしいものですね。」
それからミラードは杏奈を見て「貴方もね。」と言い添えた。
「私、ですか?」
「そう。今回はたまたま助かったけれど、いつもそうとは限りませんよ。自分を大切にして。貴方を案じてくれる人がいるのだから、そういう人達を悲しませないようにするのも大事なことですよ。」
ミラードの言葉は身にしみた。今日再会を喜んでくれた人達も、目を覚ました時に自分を待っていてくれた子供たちも、彼女が死線を彷徨う間みな案じてくれていたことだろう。杏奈は素直に「はい」と答えた。
「いい返事ですね。」
ミラードはそう言うと「さあ、本当にいってあげないと。師団長の威厳が台無しだ。」と杏奈を促してアンドリューの救出へ向かった。
二人が声をかけると、アルフレドとアンドリューは先ほどまで小突いたり小突かれたりしていたことが嘘のように明るい笑顔で二人を迎えてくれた。
「ミラード司祭から、お薬を頂きました。」
杏奈がそう報告すると、アルフレドは目を光らせた。
「それはそれは。ご丁寧にありがとうございます。」
「そう警戒しなくても、よい眠りに導いてくれる香水ですよ。夜光草の花の香りは夢の道しるべになってくれますから。」
ミラードがそういうと、アルフレドは「夜光草、それは貴重なものを」と改めて、今度はもっと心をこめて礼を述べた。夜光草の花の香水はその効能と同時に数の少なさでも有名だ。一晩にほんの少ししか集められない貴重な花の汁を使うのだ。アルフレドはさりげなく杏奈とミラードを引き離して少し声を落とし、それ程に杏奈の心の傷が深いのかとミラードに尋ねた。ミラードとアルフレドが小声でやりとりする横でアンドリューは杏奈に向き直り彼女の手に握られている小瓶に目をやった。アンドリューも、夜光草の名前は知っていたがそれを杏奈が必要としているということは今初めて知った。
「まだ夢を見るのか。」
何の夢かは聞かなくても分かる。杏奈はアンドリューの問いに躊躇いがちに頷いた。「でも、毎日じゃないし目を覚ましてしまえば平気なんです。」そうつけ足したがアンドリューは痛ましそうに眉を寄せて彼女を見下ろした。今は明るい笑顔を浮かべる彼女も夜になればまだあの恐ろしかった暗い森の夢を見るのかと思うとやりきれない。何もかもを救えると信じるほど自分を過信してはいないが、手の届くところにいる人を救うことを諦めている訳ではない。彼女のために贈れるようなものは何もなかったが、少しでも力になってやりたいと思う。
「アンナ、せめて今日は恐ろしい夢をみることがないように。」
アンドリューはそう言うと、そっと杏奈の頬に手を添えて彼女の額に自分の額を重ねた。幼い子供によく親がやってやるおまじないだ。成すがままに立ち尽くしていた杏奈はアンドリューの離れた自分の額を片手で覆い、憂いを浮かべた黒い瞳を見つめ返した。
「夢の中でも呼べば助けに行く。何度でも。だから安心して眠りなさい。」
アンドリューの言葉に杏奈はもう一方の手を胸にあてて、ゆっくりと額に当てていた手も胸の前に下ろした。
「ありがとうございます。」
そう言って杏奈はそっと目を伏せる。おまじないのことを知らない杏奈は急に顔を近づけられて驚いたが、邪な気持ちからではないと感じた。自分を案じてくれる気持ちが純粋に嬉しい。誰もが優しく、自分を思ってくれている。それを知っているだけできっと自分は大丈夫だ。杏奈はアンドリューを見上げて小さく微笑んだ。
「夜中まで私を助けにきたら、師団長さんがお休みする暇が無くなってしまいます。私は大丈夫です。でも、もしミーナが、あの子が呼んだら助けにいってあげて下さいますか?」
杏奈がそういうと、アンドリューは目を細めて頷いた。
「約束しよう。」
その言葉に杏奈は改めて礼を言い、二人は小さく微笑み交わした。
「君は勇敢だね。」
アンドリューがそう杏奈に声をかけるのを聞いた周囲の客達は二人の背後で、止めに入りたがるアルフレドとそれを食い止めるミラードの攻防を視界に収めながら「師団長!勇者は貴方です!」と心の中で叫んでいた。