金縛り
アンドリューとミラードがアルフレドの家に辿りついたのは会が始まってからだいぶ経ってからだったが、幸いなことにまだ会は続いているようだった。執事の案内に従って広間の扉をくぐると、それまで話し声と笑い声に満ちていた広間はふっと静まった。騎士達にとっては激務に追われているはずの師団長の登場は思いがけない事態であったし、彼らと共に来ていた妻や娘たちにとってミラードとアンドリューが並び立つ光景はしばらく友人達に自慢して回れるほどの眼福であった。
「遅かったですね、師団長。ミラード司祭殿もようこそ。」
アルフレドがそう声をかけると、広間にはまたざわめきが戻ってきた。
「こんなに早く我が家に司祭殿をお招きできる日が来るとは。光栄ですな。」
アルフレドは笑顔で勝手にやってきたミラードに軽く嫌味を言う。無論、アルフレドはミラードが嫌いだから呼ばなかったのではない。そんなに彼の心は狭くない。高司祭という立場は一般に騎士隊長と比べるとかなり高位である。騎士としての師弟関係があるアンドリューのような例外的な関係もないので私的な会には呼べなかったというのが実際のところだ。ただし、ミラードはどうも杏奈を気にいっているきらいがあるので声をかけられない理由があるのは好都合だとアルフレドが思ったのも事実ではある。
「勝手に押しかけて申し訳ありません。ですが、アンナのお披露目と聞いてどうしてもお祝いを申し上げたくなって来てしまいました。すぐにお暇しますよ。」
ミラードがそう微笑む背後で、女中たちが一斉に「旦那様、引きとめて。」というサインをアルフレドに送ってきた。女中達に後で文句を言われるのもたまらないが、何よりこの状況で「じゃあ、帰れ。」というのは余りに大人気ない。
「いやいや、折角来ていただいたのだから、ゆっくりしていってください。これも何かの縁でしょう。いや、誰かの、かな。」
暗に「勝手にミラードを呼んだのは誰だ。」と含ませたアルフレドは他の客に一周鋭い視線をやった。心当たりのある者はそっと目を逸らしたが、アルフレドの目はごまかせない。心の中にしっかり犯人の名前を刻みつつ、彼は二人を広間の中心付近へ案内して酒を勧めた。
アンドリューとミラードがやってきたとき、杏奈はまだチェットと話していたが、彼が「挨拶に行った方がいいよ」とアデリーンのところまで連れていってくれた。チェットからアデリーンに引き渡された杏奈はアデリーンに伴われてでアルフレドに酒を振舞われているアンドリューとミラードの元へ歩み寄った。
「ご紹介しましょう。妻のアデリーンです。こちらも紹介差し上げた方がよろしいですかな?」
アルフレドは杏奈を示して二人に尋ねる。ミラードとアンドリューはアデリーンににこやかに挨拶をしてから杏奈に目を向けて数秒彼女を見つめた。
「アンナ?」
ミラードに確認されて杏奈はこっくりと頷いた。それを見てミラードはため息をついた。
「急に大人びて驚きました。どんな魔法をかけられたんです?」
ミラードはそうアデリーンに問いかけて、二人がそのまま会話を始めてしまったので、自然と杏奈はアンドリューと向かいあう形になる。こういう状況でなんと言葉をかけるのが正しいのか分からない杏奈は自分の思いつく中でもっとも相応しそうな言葉を選んだ。
「お仕事、お疲れ様でした。」
騎士の制服に帯剣の姿はアルフレドが日々出かけていく格好と同じだ。つまり仕事帰りということだというのは推測がつく。
杏奈の目が、自分の腰あたりの剣に向けられたのに気がついてアンドリューは初めて自分が剣を下げたままだったことに気が付いた。夜会に礼装用ではない剣を下げてくるのはマナー違反だ。アルフレドに心配されるわけだ。普段ならばこんな失敗はしない。アンドリューは自分を情けなく思いながら杏奈に謝罪した。
「美しい御令嬢を前に、こんな無粋な格好で、更には遅参して申し訳ない。」
杏奈は驚いたように首を横に振った。
「急いで来て下さったのでしょう?お疲れでしょうにありがとうございます。」
杏奈に温かい笑顔を向けられて、アンドリューは実感する。この笑顔を見たかったのだ。思わずじっと見つめてしまうと杏奈の頬が見る間に薔薇色に染まって視線が頼りなく彼の顔の周辺を彷徨った。終いには杏奈はしおしおと俯いてしまった。アンドリューは彼女の顔が見えなくなってしまったことが残念で、思わず顔を上げてほしいと声をかけた。
まだ赤みの引かない頬のまま、おずおずと顔をあげてそっと上目づかいに見上げてくる。笑顔はなりを潜め、怯えたような、様子を窺うようなその様子にアンドリューは尋ねた。
「俺が怖いか?」
「いいえ。ただ、なんていうか、緊張してしまって。ごめんなさい。」
いいえ、と言いながらも小さくなる杏奈にアンドリューは今日会った少年の姿を重ね合わせた。せめて腰の大きな剣の柄に手をかけて杏奈から見える部分が減るようにと少し体の後ろ側に押しやった。
「謝ることはない。こんな武骨なものを下げていては恐ろしくても仕方がないな。」
「いえ、怖いなんてことは本当にないんです。その剣も。」
そう言って杏奈は本当に恐れていないのだと証明するように、彼に近づいてそっと剣の鞘に手を添えた。
「私と、私の大事な友人の命を守ってくれたものです。怖くはありません。」
決して大きな声ではなかったが決然としたその言葉は、アンドリューの胸の深いところにふわりと落ちた。無言のまま目を伏せて、少しだけ口角を上げる。この剣で彼がどれほどの者を斬ったか彼女は知らない。それでも彼女の目の前でいくつも命を奪った剣である。少しも怖くないということはないだろう。それでも怖くないと言ってくれる彼女の優しさと勇気が嬉しかった。
「ありがとう。」
アンドリューが心からの感謝をこめて至近距離で目を合わせて微笑むと、杏奈は小さなうめき声を上げてからただ頷いた。杏奈がぎこちなく剣から手を引こうとすると、ほんの少しだけアンドリューの小指に杏奈の手が触れた。触れた手の冷たさにアンドリューは驚いて思わず手を取る。自分の手が熱いのか、彼女の手が冷え過ぎているのか、まるで水仕事でもしていたように冷え切った手をしている。彼は殆ど無意識に杏奈の手を温めようと自分の手で包み込んだ。数秒そのままにして、小さな手が温もってきたとほっとして顔を上げると真っ赤な顔をし硬直してしまってしまっている杏奈が目に入った。
「これは失礼。あまりに冷たい手だと思って、つい。」
そっと手を離すと、杏奈は握られていた左手を胸の前に引き寄せてもう片方の手で包み込んだ。そのままぎゅっと握りこむと確かに左手はとても温かい。温めてもらったお礼を言うべきかと杏奈が顔を上げた瞬間に、二人の視線があった。自分を見つめる彼女を見つめ返して、アンドリュー今日初めて杏奈ときちんと目があったことに気が付いた。明るい室内で見ると緑色から灰色に向かって変化する不思議な色の瞳だ。春の支度をする芽吹く直前の木の芽の色だと思った。彼女の初々しい印象に相応しい。凍えた冬の季節にあって、清々しく暖かい。思わず魅入られアンドリューはしばし動きを止めた。
一方で杏奈も漆黒の瞳に視線を捕らわれてしまっていた。見ている間に段々と深みを増して感じられる黒い瞳からは感情が読みとれないがじっと自分を見つめているその視線の力に呼吸することすら辛くなる。
本当に息をつめてしまった杏奈を見て、アンドリューは彼女の頬に指を伸ばしてそっと触れた。
「息を吐いてご覧?」
そう促すと、アンナは呪縛が解けた様に大きく息を吸って、そしてむせた。
「大丈夫か?こういう場合は先に吐かないと。それにしても息も止まる程、俺は恐ろしい顔をしていたかな。」
彼女の背に手を添えながらアンドリューが声をかけると、激しく咳き込んだせいで涙目になった杏奈はきれぎれに「いえ。むしろ、この世のものとは、思えないくらい、素敵です。」と答えた。
「息をするのも忘れるほど?それは言い過ぎだろう。」
顔の良し悪しについては散々褒められているアンドリューとしても、杏奈の表現は大袈裟すぎると真面目に反論した。
「俺は普通の人間だよ。」
彼がそう言って苦笑すると、杏奈は左手を改めて握り直して小さく頷いた。
「そう、ですよね。ごめんなさい。」
ここで王都で良く出会う令嬢方ならば絶対に「そうですよね」とは返って来ない。計算のない彼女の受け答えをアンドリューは好ましく思った。
「謝ることはないが、そう構えないでもらえないだろうか。」
「が、頑張ります。」
杏奈はもう見ている方が可哀相になるくらい必死にぎゅっと目を閉じて頷いた。アンドリューは自分が彼女を苛めているような気分になって、天井を仰いだ。どうしてこうも委縮させてしまっているのだろう。
「いや、無理はしなくていいから。」
そう言い添えると、杏奈は少し表情を和らげて小さく微笑んだ。
「慣れたら、きっと大丈夫だと思います。」
まるで猛獣か何かのような扱いが新鮮で、アンドリューは少しいたずら心が湧いた。
「では、慣れてもらわないといけないわけだな。」
そう言って彼はもう一度ゆっくりと杏奈と目を合わせた。その視線は先ほどの真剣な眼差しよりずっと優しくて、どこかいたずらっぽく、それはそれでとても魅力的な表情だったのだが、杏奈は頑張ると言った手前、なんとか自分も微笑んで見つめ返した。段々無理が響いてきて、彼女の口の端がひくつくのを見るとアンドリューはぷっとふきだして低く笑いだした。
「無理はしなくていいと言うのに。もしかして、負けず嫌いか。」
そう問われて、杏奈は笑顔をひっこめて自分のことを振り返る。良く分からないな、と困ったようにアンドリューを見上げた。
「勝負を誰かとした覚えが無くて。良く分かりません。」
そう答えると、アンドリューは笑うのを止めて彼女を見つめた。誰とも競い合ったり戦ったりしないというのは彼にとっては遠い世界の出来事のように聞こえる。あまりに現実味が湧かずに刹那の間呆然とするが、彼女には記憶が無いと聞いたことを思い出した。幼い頃の喧嘩の記憶もきっとないのだろう。
「そうか。だが、そのうち分かるだろう。いずれにしても気が強いことは悪いことではないさ。」
そう言いながら杏奈を見下ろす大柄な師団長はとても優しくてちっとも怖くなどなかった。やはりこの調子で慣れればいちいち固まったり呼吸を止めたりしなくても大丈夫そうだと杏奈は自信を深めた。一人満足げに頷いて「私、やっぱり慣れたら大丈夫そうです。」と胸を張る。
アンドリューは器用に片方だけ眉を上げて見せた。
「もしかして、俺は猛獣扱いされているのだろうか。」
そう問いかけると、杏奈は「猛獣?」と予想外の言葉を聞いたというように聞き返した。
(確かに、猛獣には恐ろしい上に美しい獣もいるわよね。)
杏奈は脳裏に黒くてしなやかな豹を連想してアンドリューの雰囲気に似ているかもしれないと考えたが、先ほどの優しい顔からは獰猛な獣の気配は感じられなかった。
「師団長さんは危なくはないですよね?」
考え込んだ末の杏奈の言葉に、アンドリューはため息をついて「もちろんだ。」と返した。ここで「いいえ、危ないです。」と答える人間はいないだろうと思いながら。
そこはかとなく脱力感を漂わせるアンドリューを杏奈が不思議に思っていると、他の客から解放されたアルフレドが割って入ってきた。
「いやいや、アンドリューは少しくらい危ないと思っておいた方がいいな、アンナ。それから、アンドリュー。お前は、もう少し自覚を持って行動した方がいいな?まず、婦女子の顔に触れない。それから手を不用意に握らない。」
アルフレドは、職場では上司であってもどうしても後輩という印象がぬけないアンドリューに昔通りの口調で説教を始めた。彼は杏奈そっちのけで説教を続け、アンドリューは素直に謝罪すべきは謝罪した。誰も上下関係がおかしくなっていることについて横から口を挟んで注意する気にはならなかった。