背負うべきもの
アンドリュー・フォード師団長は王都帰還後も多忙を極めていた。
彼の不在を預けていた副官は優秀で、決して仕事が溜まっていた訳ではない。彼を支えてくれる事務官達も彼に負担をかけないように、力を尽くしてくれている。彼らに対するアンドリューの信頼も厚い。
それでも、彼は忙しい。騎士団長や王への報告、重要案件の決裁など代理の効かない仕事がある。また、指揮官としては必須ではない日々の訓練も可能な限り参加している。加えて、遠征での犠牲者の弔い、遺族への手当、回復の難しい負傷者の配置換えといった遠征後特有の仕事が山積している。どれほど部下が増えても彼にとって自分の部下は大切な仲間である。全ての怪我人を見舞い、亡くなったものの家族の元を弔問に訪れたいと思っている。しかし、一軒一軒の家を回るには、彼の部下の数は多すぎる。特別に親しかった直属の部下、同期の仲間達を見舞うだけで手いっぱいだ。直接会うことができない分、彼は遺族を回る代わりに慰霊の儀式を行い、記念の碑文をしたため、家族の生活を保障するための手続きを行う。
彼がその命を預かって導き、そして連れて帰ることができなかった者達。今回の遠征での犠牲は決して少なく無かった。騎士は入団の時に、任務に命を懸けると誓いを立てる。家族ももちろんそれは承知しており、任務の途中で何があっても騎士団やその仲間を責めることは故人となった騎士の名誉を貶める行為だとされている。しかし、誰だって家族や大切な人に帰って来てほしいと願い、その願いが破れたことを知らされるのだ。恨みはなくても、悲しみは必ずそこにある。何十人もの部下を見送っても、彼はその一つ一つの悲しみ鈍感になれなかった。彼の部下は替えのきく駒ではなく、一人ひとり大切な誰かの息子や娘であり、夫や妻であり、父や兄であったりする命なのだ。だからこそ、残された幼い子供のこと、老いた親のこと、結婚を控えていた妹のこと、そうしたことを書類の上からも読みとり、アンドリューは何度でも心を痛める。
その日、彼は騎士団の執務室を出た後で一人の部下の元を訪ねていた。彼はモンスターに切りつけられて左腕を失った。彼はアンドリュー直属の部隊でも特に腕の立つ優秀な騎士だったが、片腕を失った傷を癒し、同じように立ち回れるようになるには長い時間と苦しい訓練が必要になると思われた。そこまでしても、前線には戻れない可能性は高い。騎士団には前線に出ない仕事もある。前線を退かないかと説得しにきたのだ。
騎士の家の戸を叩くと、ちょうどアンドリューと同じくらいの年の頃の妻が迎えてくれた。扉を開いた妻が、彼の姿を見上げて目に涙を浮かべ唇を噛みしめて頭を下げた時に、アンドリューはその騎士が家族に何が起きたのかを話しているのだと悟った。戦いの最中ではモンスターにつけられた傷をすぐに手当てすることはできない。命をつなぐためには腕を斬り落として毒の周りを防ぐしかなかった。請われて、迷わずにその騎士の腕を落としたのは他でもないアンドリューだ。
彼の妻は一言だってアンドリューを責めはしなかった。けれど、感謝の言葉もなかった。ただ黙ってその瞳にやりきれない無念を熾火のように燃やしていた。アンドリューもまた無礼を咎めもせず、かといって謝罪もしなかった。彼の判断は間違っていない。もし躊躇えば、騎士の命はなかっただろう。アンドリューは無言のまま妻の悲しみを受け止めた。
大きな傷を負い先に王都に帰還していた騎士と顔を合わすのは随分と久しぶりになる。食卓の椅子にかけている騎士は、アンドリューが来ると知っていたからだろう、制服を着て彼を待っていた。そしてアンドリューの姿を見るや厚みのない左袖をそのままに上官への礼をとった。
「久しいな。痩せたか。」
アンドリューが声をかけると、彼は礼を解いて自分の右手を眺めた。
「これでもだいぶ戻った方です。順調ですよ。このまま行けば来春には隊に戻れるかもしれません。」
彼の瞳に暗い陰りが無いことに安堵し、アンドリューは「それはすごいな。」と微笑んだ。改めて席に着いて、近況などを手短に報告しあう。
僅かな沈黙の後で騎士がじっとアンドリューの目を見つめて尋ねた。
「私は、もう戻れないのですか。」
騎士には彼の訪問の目的は最初から分かっている。まだ遠征から戻って間もないのだからただの見舞に部下の家を訪れられるほど師団長は暇ではないはずだ。
「そうと決まったわけではない。」
アンドリューの返答に騎士は一縷の希望をかけた。
「入団以来、十年以上騎士として生きてきました。腕の一本などモンスターにくれてやって悔いはありません。ですが、騎士であることを諦めたつもりはありません。私は騎士です。」
熱を孕んだ言葉で騎士はアンドリューに懇願した。
「師団長、私を騎士として生きさせて下さい。」
アンドリューは数秒黙って騎士の瞳を見返した。自暴自棄になっていないか。彼が怒りや絶望で騎士として大切なものを見失っていないか。騎士の処遇は、次の仕事での彼の生死を分けるものに成りうる。場合によっては彼が救うはずだった民の命にすら繋がる。見誤ってはいけない。
「お前は実直で有能な騎士だ。俺も失いたくはない。」
アンドリューはゆったりと語りかけながら言葉を選ぶ。
「だが、お前をもう一度命のやりとりが起きる場所へ連れていけば、少なくない可能性でお前は命を落とすだろう。俺はそれを受け入れられない。」
アンドリューは焦りを滲ませはじめた騎士の瞳から目を逸らさずに続けた。
「お前は死ぬな。」
「騎士として生きられないのなら、半分死んだも同じことです。死ぬなと言いながら、貴方は私を殺している。」
「最後まで聞け。血で血を洗う戦場だけが騎士の居場所ではない。それは第三師団に長いお前なら良く分かっているだろう。」
「書類仕事をしろと?」
騎士はひどく不服気に聞き返した。騎士団には馬の調教を受け持つものもいれば、書類仕事を中心にする者もいるし、チェットのように警邏を受け持つ者もいる。いずれも大切な仕事だがアンドリューに憧れ、彼と共に前線に立つことを誇りに思っていた騎士にとって、それらはいずれも不満なものだった。
「書類とは限らないが、当面は西方の町の立て直しに人手がかかる。お前にはそちらに力を注いでほしい。」
「町づくり、ですか。」
彼は悔しそうに呟いた。第三師団というのはそういう部隊だ。彼もそれは良く分かっている。剣をつるはしに持ち替えても彼らは騎士なのだ。
「俺達の仕事は民の幸福を守ることだ。形に拘るな。」
アンドリューは何度も右手を握っては開いてを繰り返す騎士をしばらく黙って見守った。
「お前は優れた騎士だ。俺にお前を失わせないでくれ。」
静かなアンドリューの言葉に、騎士は固く右手を握りこんだまま俯いた。それから大きくため息をついて拳を解くと髪を掻きあげた。改めてアンドリューを見つめる。
「分かりました。それでも、いつか私が右手一本で不足なく戦えると証明したら、また一緒に連れて行ってくれますか。」
「ああ。だが、決して無理はするなよ。」
アンドリューは力強く頷くと、それ以上長居はせずに家を辞去することにした。
去り際に見送りに出てきた妻の後ろから、小さな少年が顔を覗かせた。アンドリューが妻に挨拶をしている間、騎士の息子だろう少年はじっとアンドリューの下げた剣を見つめていた。しかし彼が少年に視線をやると、びくりと酷く怯えた表情を浮かべて母の後ろに隠れてしまう。
「申し訳ありません。父親のことがあって以来、剣が恐ろしいと言うのです。」
「いや、止むをえないだろう。」
「昔は父親の騎士の甲冑と剣が大好きで、憧れていましたのに。」
それは、口が滑ったのだろう。あるいは、愛する夫の腕を落とした剣を目の当たりにして我慢できず恨みごとの一つも言いたくなったのかもしれない。妻はじっとアンドリューの剣に視線を注いで目を伏せた。アンドリューもそれ以上は言わず、息災にと妻と子に声をかけてその家を後にした。
夜空に溶けるような黒い髪をなびかせてアンドリューはゆっくりと馬を歩かせていた。半月の淡い月灯りを受けて家々の白い外壁が滲むように光っている。立ち止ってしまうほど暗くは無いが、迷いなく駆けられるほど明るくもない。
今夜はアルフレドから誘いを受けていた。通常であれば、アンドリューがアルフレドの催す非公式な集いに招待されることはない。身分の高い者を、身分の低い者がくだけた席に招くのは非礼とされるからだ。しかし今回はアンドリューが救った娘の快気祝いでもあるので来てほしいと言われていた。都合がつけば寄らせてもらうと返事をしたものの、約束の刻限を過ぎているのが分かっても馬を急がせる気になれなかった。夕刻に立ち寄った騎士の家での出来事が心の底でわだかまり、明るい場に向かう足を遅れさせている。いっそ行かなければ良い。そうも思うのだが、その決断もつけられないまま段々と自宅とヴァルター家へ向かう別れ道へと近づいて行く。
(何を迷う?)
彼は自問する。脳裏をかすめるのは怯えた少年の顔、それから微笑んだ少女の顔だ。掛け値なしに嬉しそうに微笑んでいた杏奈の笑顔はアンドリューに騎士を志させ、続けさせる原動力になったものにとても良く似ている。ああいう笑顔を守りたくて、剣を握り、身を危険に晒すのだ。心からの笑顔は制服の胸を覆う程の金銀の飾りよりも、彼にとって価値のある勲章だ。
(会いたいのなら、会いに行けばよい。)
他人のことであったらなら、迷わずそう言っただろう。だが、彼は決めかねていた。
(俺は怖いのだな、あの娘が。)
思い当って自嘲する。彼女の笑顔が怖いのだ。その笑顔を向けられたら自分が救われてしまいそうで恐ろしい。負うべきものを忘れてしまいそうだ。どうしたものかと僅かの間、空を振り仰いでいると駆け寄ってくる騎馬があった。弱い月灯りの下でも明るく光る波打つ髪には見覚えがある。このようなところで会うのは珍しい彼の旧友だ。
「アンドリュー。君もアルフレド隊長のところに行くのかい?」
「お前も呼ばれているのか。」
そう一言返すと、ミラードは曖昧に微笑んだ。
「正式には招かれていないよ。でも、話を聞いてお邪魔してしまおうと思ったんだ。」
ミラードとアルフレドはそれ程親しい間柄ではないが、杏奈の快気祝いであればミラードにこそ声をかけるべきだろう。そこまで考えてアンドリューはアルフレドの意図をおぼろげに理解する。おそらくは仕事にのめり込んでいた自分を気遣ってアンドリューが顔を出しやすい口実を与えてくれたのだろう。アンドリューは目を伏せて小さく微笑んだ。階級は上司になっても、部下に気を遣わせて情けないものだ。それほど自分は追い込まれて見えただろうか。
「いつまでも俺の自己満足のために周りに心配をかけてはいけないな。」
一人ひとりの部下を心に映し過ぎるのは彼の悪い癖だ、そう言ったのは他でもない入団当時アンドリューの上官であったアルフレドだ。まだ頭が上がらないのかとアンドリューは苦笑いを浮かべながら馬首を返し、アルフレドの家の方へと体を向け直した。
自分の心さえしっかりしていればいい。無事に帰った者を祝い、再会を喜ぶことだって大切なことなのだ。無闇に不幸ぶってはいけない。彼には背負うべきものがあり、心に留めなければならない悲しみがいくつもあるが、それと同時に与えられた幸福があり、それを大切にすることが生かされている時間を大切にすることだということを彼はもう知っている。
「ああ、すっかり遅くなってしまったな。幼い娘が寝てしまう前に祝いに行かねばな。」
アンドリューはそう言って夜の町に軽やかに馬を走らせ始めた。