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吉夢

 もの思いにとらわれている間に、杏奈はアルフレドとはぐれてしまった。はぐれたとはいえ、大して広い会場でもなく、杏奈にとっては住み慣れないなりに自宅でもあるので焦りはない。

 辺りを見回せば、それまで同様に人々が小さな輪になって歓談している。先ほどは旧交を温めているだけと思った輪も、先ほどの話を聞いた後に見れば今日もここにいるはずだったのに帰って来られなかった人達を忍び、悼む集いでもあるのだと思える。穏やかな笑顔の下の悲しみは心をこらさなければ気がつくことができないものだ。


「人に酔ったか?」

 声をかけてきたのは軍医だった。既に頬と鼻の頭が赤く染まっている彼は、人ではないものに酔っているようだ。

「いえ、大丈夫です。少しぼうっとしてしまって。」

「それを人に酔うって言うんだよ。それか、疲れたかな。」

 そう言って笑いながら軍医は杏奈を少し人の少ない窓辺に誘った。通りすがりにテーブルから冷たい飲み物をとって手渡してくれる。

「少し酸っぱいがすっきりするぞ。心配しなくても、酒は入っていない。」

 薄い緑色の飲み物は、何かの果実の汁を薄めたもののようで確かに一口目はツンと酸っぱいが清涼感があって美味しかった。一口して気にいったとお礼を言うと軍医は、それは良かったとまた笑う。いつも厳めしい顔つきで駆けまわっていた行軍中とは打って変わってとても陽気だ。

「その後、腕の方はどうだ。痛みはもうないか。」

 ドレスの袖で隠れているが、左腕の傷は十針以上縫った跡が残っている。杏奈は無意識に腕をさすりながら首を傾げた。

「もう、痛いことはないです。ただ、まだ少し力が入りづらいというか、感覚が鈍いような感じはあります。」

「物を持ったりするのに困るくらいか。」

「まだ怖くて重い物は持っていないので分からないですけど、普通に生活する分には困る程ではありません。」

 ふむ、と軍医は顎に手をやる。癖なのかそのまま人差し指で顎を撫でるので、折角整えた髭はもうだいぶあっちこっちを向いてしまっている。

「もう傷自体はついているとは思うが、まだ無理はしない方がいいな。かといって大事にし過ぎず、普通に使っていれば段々良くなるとは思うが。」

 そこまで言ってしばし考え込んだ後で、いいことを思いついた、と言うように顎に当てていた人差し指をピンと伸ばした。

「心配だから、たまに様子を見に来よう。しばらくは王都を出ることもないだろう。」

「そんな、申し訳ない。」

 恐縮する杏奈を、軍医は軽く首を振って制した。

「他にも怪我が治っていない奴らの家を回るついでだ。大した手間でもない。気にするな。」

 どうしても断った方がいいのか分からず、口ごもる杏奈を押し切る形で軍医は「よし、決まりだ。」と満足げに頷いた。

 それから改めて杏奈の見えない腕の傷の部分に目をやって「しかしなあ」と呟く。

「本当に、よく助かったよなあ。お嬢さんは運がいい。」

 杏奈が「本当にありがとうございました。」と言うと、軍医は「いやいや」と言って改めて当時の状況を説明し始めた。その話の中には自分がどれほど危ない状況だったのかということをウィルからしか聞いていなかった杏奈にとっては初めて聞くことがたくさんあった。


「まず、村から飛び出してすぐのところをアンドリューとセオドアが追いかけただろう?それから、私が村にいた。そしてずっと面倒をみられた。さらにあのミラードが向こうからあんな田舎まで出向いてきてた。それをさらにアルフレドが急がせて呼び寄せた。」

 その有難みを分かっていなさそうな杏奈に、軍医は一つ一つがほぼ奇跡なのだと説明する。アンドリューは言わずもがなの師団長であり、全軍の長であったのだからして子供の一人二人を追うような立場ではない。しかし、走力、剣技何をとっても超一流の彼より優れた者はなく、杏奈は最高の騎士に救出されたことになる。そのアンドリューが最速で駆けつけられたのは、その速度に遅れずについていけるセオドアを従えていたからであり、この二人が杏奈とミーナが駆けだした現場近くにい合わせたのは本当に、ただただ運が良かったとしか言いようがない。さらに、軍医があの村にいたのも偶々だ。数名の医師が軍に従っており、当日は周辺の複数の村に散っていた。もしかしたらウィル達の村には誰も医師がいなかった可能性もあるし、他の、軍医に言わせればひよっこの若者しかいなかった可能性もある。経験豊富で腕の確かな軍医にあったたのもまた無視できない幸運だ。そして、最大の幸運、あるいは僥倖だったのがミラードが近くにいたことだ。それも不眠不休で彼を急がせたセオドアの働きあって初めて、杏奈の治癒に間に合ううちに彼がやってくることができた

治癒ができる司祭は大きな町にしかいない、とは杏奈も聞いていたし、ミラードからもアンドリューに呼び寄せられていたのだということは一度聞いた。急いで連れてこられたようなことも言っていた。しかし、それが普通と比べてどれほど珍しいことだったのかまでは分かっていなかった。まして一刻を争うならばと身を削ってくれた騎士のことなど、ちっとも分かっていなかった。

「しかも、ミラード高司祭といえば知らぬ者のいない治癒の名手だ。国で五本の指に入るほどのな。あんな大物をよく呼び寄せたもんだよ。」

 杏奈はそうだったのか、と自分の幸運に驚きそしてこうした自分が知るべきで、知らないまま過ごしていることがどれほどあるのかと恐ろしいような気持ちになった。よく無事で、と多くの騎士が玄関口で涙ぐんだのも決して大げさなことではなかったのだのだ。

「ああ、それから。もちろんあのチビ共もだな。人の思いってのは馬鹿に出来ないもんだ。しっかりお嬢さんをこっち側に引きとめてくれただろう。」

 思い出したように軍医はそう言う。その言葉に杏奈は目が覚めた時の子供達の様子を思い出す。あの真摯な瞳には確かに力が籠っていたと思う。

「そういえば、あの子達。何か歌ってくれていたんですか。」

 目が覚めた後で、軍医に話を合わせるように「聞こえた」と言ってしまったが、杏奈には子供たちが寝込んでいる自分に歌を歌ってくれた記憶は無い。何の歌だったかくらいは聞いておきたかった。

「ああ、私は音楽なんて詳しくないから何の歌かは分からないけどな。初めて聞いたような歌だったし。」

「歌詞、少しでも覚えてらっしゃいませんか。」

「うーん、そうだなあ。ちょうどあの状況にぴったりの内容だったんだよなあ。なんて言ったか、あと一歩だから頑張れみたいな。」

 その一言で、杏奈には閃くものがあった。小さな声で口ずさんで軍医の方を問うようにみると、彼はしばらく聞いてから大きく頷いた。

「ああ、それだ。それそれ。」

 杏奈は歌の歌詞を思い返し、涙ぐんで慌てて目を閉じた。軍医の言う通り励まされていたのだろう。こみ上げる涙をやり過ごしてそっと目を開けると、軍医は素知らぬ顔をして新しい葡萄酒を傾けていた。

「夢を、見ていたんです。」

 杏奈がそう言うと、軍医はグラスに口をつけたまま視線を寄こして続きを促した。

「毒消しをしてもらって目が覚める前か、そのもっと前に。白い、たぶん鳥だと思うんですけど、白い何かが出てきて『もっと気をつけろ、大間抜け』って怒られたんです。とても心配してくれていて、私が傷ついていることに怒ってもいて。ああいう夢を見られたのは、皆のおかげだったのかもしれないですね。」

 薄れない夢の記憶をもう一度なぞりながら杏奈は微笑む。

「それは、吉夢だな。」

「吉夢、ですか?」

「白い生き物は神の使いとされている。そういうものが出てくる夢は吉夢と言うんだ。良いことが起きる予兆だと考えられている。迷信かと思っていたが、本当なのかもしれないな。なんといっても命を取り留めたんだからなあ。」

 軍医は嘆息し、残っていた酒を一気に煽った。

「あの口ひげの悪ガキが聖女なんていうのも、馬鹿にならんな。」

 最後の一言の意味が分からず、怪訝な顔をしている杏奈を見て軍医はお嬢さんはまだ知らなくてもいいようなことさ、愉快そうに笑った。


 そのまま杏奈の背を押して「さあ、そろそろ戻ろうか?若い奴らの視線が痛い。」と杏奈を促す。視線と言われて杏奈が会場を見回すと、次々と視線を逸らされたり笑いかけられたりした。軍医の言う通り、視線を集めていたようだ。

 彼らが人の輪に戻る様子なのを見て、二人の様子を窺っていた騎士達がさりげなく互いにけん制し合いながら、にこやかに、素早く、杏奈に歩み寄ってくる。杏奈は騎士達の顔をみて、先ほど聞きそびれた質問があったと軍医を振り仰いだ。

「あの、先生。」

「なんだ?」

「ミラードさんを急いで連れて来てくれた方というのは、どなただったんでしょうか?私、ミラードさんを急がせたのが私だけのためだったこと、よく分かっていなくてお礼もきちんと申し上げないままお別れしてしまいました。隊長さんにお願いしてせめてお礼のお手紙でもと思うんですけど。」

 杏奈の言葉に、軍医は「ちょっと待てよ。」といって首を巡らせた。その様子に、どうやら当の本人が今日来ているのかもしれないと思い当る。玄関口で挨拶した相手だったらどうしよう。そこでお礼を言わなかったのは、きっと失礼なことだっただろうと杏奈はどきどきしながら軍医の返事を待つ。

「お、いたいた。あれだよ。お嬢さんも知っているだろう?疾風のセオドア。あいつじゃなきゃ二日なんかじゃ帰って来られなかったさ。」

 思いがけない名前に杏奈は「え」と大きな声を上げて思わず立ち止った。あの後、いくらでも話す機会はあったのに、彼からはそんな話はちらりとも聞いていない。

「あいつ言ってなかったのか。奥ゆかしい奴だなあ。」

 軍医は呆れ半分、面白そうにそう言うと、今にもセオドアに向かって駆け出しそうな杏奈からグラスを取り上げてやった。

「あ、ありがとうございます。」

「良いってことよ。」

 さあ、言って来い、と軍医が笑うと杏奈はもう一度軍医に礼を述べてから半ば駆け足で会場の出入り口付近にいるセオドアの方へ向かっていった。

 その後ろ姿を見ながら軍医は忍び笑いを漏らす。


(私のところにお嬢さんを連れて来た時は子犬みたいにお嬢さんの傍を離れるのを嫌がってたくせに、自分も命の恩人だと本人には知らせないなんて。あいつは馬鹿か。)


 クスクスと上機嫌だった軍医は、やっと戻ってきた杏奈に声をかけようとして逃げられた若い騎士達に囲まれて慌てて笑いを引っ込めた。


「お前達、自分の甲斐性がないのを私のせいにするんじゃないよ。」


彼としては威厳を持って言い放ったつもりだったが、どこか得意げな表情が隠しきれていなかったのでかえって彼らの嫉妬を煽ることになった。

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