ヴァルター家の人々
「さあ、私達も行きましょうか。今日は客間を使ってね。こっちよ。」
杏奈はアデリーンに手を引かれたまま、風呂へと案内された。二階の客間という部屋にたどり着くまでに二人の女中とすれ違ったが、急に綺麗なところに案内されて圧倒されている杏奈は自分の身なりが恥ずかしくてずっと俯いていた。だから杏奈には気づけなかったが、どちらも杏奈が恐れたような目で彼女を見てはいなかった。アルフレドの屋敷の者にとって、遠征帰りの主人がどれほど汚れて帰ってくるかは既に学習済みのことであったし、今回、杏奈を連れ帰ることも前もって聞いていたので彼女がどんな様子で現れるかは既に予想済みだったのだ。
「はい、ここよ。お湯が足りなかったら、この紐を引くとこっちの甕にお湯が入るからそれを足して使ってね。こういう旅から戻った後はいきなり湯船に入ってしまわないで、こっちで汚れを先に落とすといいわね。この石鹸は体用、これが髪用よ。」
途中で女中にもすれ違ったので、こうしたこまごましたことは女中の誰かが説明してくれるのだろうと思っていたらアデリーンは風呂場まで着いてきて、事細かに風呂の使い方や置いてある道具の使い方を説明してくれた。アデリーンはアルフレドから手紙で杏奈には記憶がなく避難所以外での生活の仕方をまるで知らないことが伝えられていた。しかも、心はもう十分に大人なので何でも聞くのは恥ずかしいこともあるだろうから、なるべく先回りして教えてやって欲しいという伝言付きであった。杏奈にはそこまで分からなかったが、アデリーンの十二分な気遣いになんとなく記憶のことまで伝わっているのだろうと察した。お風呂という概念は杏奈にもあるが、細かなお湯の出し方や流し方、たくさん並んでいるブラシの使い分けなどは説明してもらわなければさっぱり分からなかったので、素直にアルフレドとアデリーンの心遣いに感謝する。
「こういうブラシってみんな似たようで困るわよね。私も他人の家にお呼ばれなんかすると毎回困るのよ。コツはねえ、毛の硬さと長さなのよ。体を洗う用はやわらかくて毛足は長め。毛が短くて小さいこれは爪を洗う用。これは浴槽を洗うためのブラシだから、今日は使わないでね。いつかお風呂の掃除をお願いすることがあったら、使うのよ。本当は掃除用は別のところに置いたらいいと思うんだけど、昔からこう決まっているのよねえ。」
改めて考えるとやっぱり不思議ね?とアデリーンは笑う。確かに言うとおりだと思って杏奈も真面目な顔で頷いた。教わらなければ掃除用のブラシで背中を流していたかもしれない。
「着替えは途中で誰かに持ってこさせるから、脱いだ服だけこの籠に入れておいて。隣の部屋に人を呼んでおくから困ったことがあったら声をかけなさい。もちろん、女の子に来てもらうから遠慮しないで何でも聞いていいのよ。」
去り際にそういうとアデリーンはパタンと扉を閉じた。広い浴室は急に静かになる。
避難所にはいわゆる風呂は無かった。掃除道具を取りに使われていない建物に入ったときに、これまた使われていない浴室を見かけたので世の中に風呂が存在することは分かっていたのだが、避難所では十分な設備も湯を沸かす労力も確保できないからか基本的に水に浸した布で体を拭い、髪も井戸の水でたまに流すくらいしかできなかった。秋に入ってからは湯を足してもらい、ぬるま湯を使うことができたが幼い子供優先に使っていくと、杏奈が使うころにはすっかり冷めていて井戸水よりはいくらかまし、程度のものでしかなかった。それでも、ほぼ毎日体を拭えた避難所は良い方で、移動が始まってからは顔を水で洗うのが精いっぱいだった。寝込んでいる間などはそれもできていない。ここに来る直前に宿屋に泊まり、体や髪をある程度清める機会があったのは実に幸運だった。そうでなければ、今日感じた恥ずかしさは何倍になっていたか分からない。
アデリーンに教わったとおり、湯をくみ上げて広い洗い場でまずは体を拭う。自分の体から流れ落ちていく湯があっという間に濁るのを見て、杏奈は悲しくなった。これまで傍にいた人は、誰もが杏奈と同じ境遇で、いうなれば皆薄汚れていたので気にしなかったが、自分はずっとこんなに汚かったのか。これで子供を抱きしめたり、セオドアに抱きしめられたりしていたのかと思うと、恥ずかしくもなる。
(異臭などしていなかっただろうか。)
今更ながら、自分の匂いなど嗅いでみるが砂の匂いがして気が滅入っただけだった。
もう過ぎてしまったことは仕方が無い。杏奈はせっせと体を洗った。アデリーンはこうなることを予想していたのだろう。「湯が足りなくなったら遠慮なく足して使うように」と念を押していた。その言葉に甘えて何度も桶にお湯を張り替えて布をゆすぎ、体を拭う。髪は更に大変だった。絡まってギシギシと音を立てる髪を湯に放ち、何度も何度も梳いていく。石鹸を使う意味がある、と思える程度まで全体の汚れを落とした時点で、既にぐったりするほど疲れていた。
石鹸は避難所にもあった。しかし、ぜいたく品であった。しかし、当然のことながらアルフレドの家の石鹸はそのぜいたく品よりも遥かに泡立ちもよく、香りも良い。柔らかな香りに包まれて浴槽に浸かりながら、杏奈は長いため息をついた。
(ああ、幸せすぎる。)
ぼんやりしながら、幸せを噛み締め、あの町の教会にも風呂があったな、などと思い返す。みんなも久しぶりのお風呂に入れているだろう。こんなにいい香りの石鹸があるかまでは分からないけれど。
(いつかこの石鹸をプレゼントしてあげたいな。いくらくらいするかな。どのくらい働いたら買ってあげられるかしら。)
石鹸を喜ぶ子供達の姿を想像していると、戸が軽く叩かれて目隠しの衝立の向こうから声がかけられた。
「着替え、こちらに置いておきますね。あと、のぼせないように気をつけてって奥様から伝言です。」
若い女の子の声だった。杏奈は弛緩しきっていた気持ちを慌てて引き締めて「はい、ありがとうございます。もうすぐ上がります。」と返事をした。すると衝立の向こう小さな笑い声がして「そんなに慌てなくて大丈夫ですよ。でも、眠ってしまって溺れないように。」と先ほどより少し砕けた調子で返事が返ってきた。もう一度、戸の閉まる音がして彼女が出て行ったのが分かる。慌てないで、と言われても初めてお世話になる家であまりのんびりお湯に浸かってもいられない。着替えがなかった、という言い訳もこれでなくなってしまったのだから、と杏奈はゆっくり十数えると風呂を上がった。
用意されていた簡素だが質の良さそうな水色のワンピースを着て浴室をでると、風呂に入る前は無人だった客間に二人の女中が控えていた。一人は恐らく先ほど着替えを持ってきてくれた若い女の子。もう一人は、その母親くらいの年齢の恰幅のよい女性だった。
二人は次にどこに行ったらいいか分からずに扉の前に立ち止まった杏奈をみて、顔を見合わせた。先ほど廊下ですれ違ったときは、砂色に見えた髪は鈍い金色の輝きを取り戻し、同じく黒ずんで見えた肌はすっかり白くなった。長めに風呂を使っていたせいで上気した頬は薔薇色でまるで別人のように美しい。
「まああ、綺麗になったねえ。」
年かさの女中はそういうと、満面の笑みで「あっはっは。驚いた。」と笑った。
「さあさ、そっちの椅子にかけて。お茶も飲まずにお湯を使ってのどが渇いたでしょう。まずはこれを飲んで。」
女中達は鏡の前の椅子に杏奈を座らせると、隣に冷たい水を用意してくれた。水には緑色の小さな葉が浮いており爽やかな香りがする。
「ありがとうございます。いただきます。」
確かにのどが渇いていた杏奈は、半分ほど一気に飲み干すと「おいしい」とふんわり笑顔を浮かべた。その笑顔を鏡越しにみていた女中達はもう一度目を見合わせた。年かさの女中が頷くと、若い方がぱっと部屋を飛び出していく。杏奈はわけも分からずその後姿を見送ったが、残った女中が「さあ、髪を乾かしてしまおうね。」と杏奈の髪を梳き始めたので、慌てて視線を鏡の中の女中に戻した。
「わたし、自分でできますから。」
そういうと、女中はにっこりわらって首を横に振った。
「今日一日は、お客さんのつもりでもてなすようにと旦那様から言い付かっているから、任せておきなさい。明日から、自分でできるように今日は見て勉強だ。ね?」
そう言われては反論できない。杏奈は「お願いします」と素直に従った。
女中は満足げに頷くと、再び髪を梳く。そこからは杏奈は本当に勉強の時間になった。何本も櫛を変えながら髪を梳き、良い香りのする油を染み込ませて艶を与え、布をふんだんに使って髪を乾かしていく。途中から若い女中が仲間を連れて帰ってきて、女中達が競うように杏奈の髪を整え、肌を整えていく。真剣に手を動かしながら、女中達は口も休まず動かす。
「なんだい、あんた。今日の午後はどっか行くとか言ってなかったかい?」
「だって出かけようと思ったら、とーっても綺麗なお嬢さんが来たってこの子が飛び込んできたから。私だけ出遅れたくないじゃない。」
「結い方はどうするの?飾りは?」
「今日はあとはお夕食だけだろう?飾りはいいよ。髪を編んで飾りの代わりにしよう。」
「そんなに高く結い上げたんじゃ、舞踏会でも行くみたいじゃない。もっと下に下ろした方がいいわよ。」
「でも低すぎたら、若さが生きないわ。」
「ねえ、紅はどうしよう?」
「元のままで綺麗な唇よ。蜂蜜でも塗って艶だけ出せば十分よ。」
「このワンピース、大きさ合ってないんじゃない?」
「しょうがないだろう、他にちょうどいいのが無かったんだから。」
「旦那様ももうちょっと詳しく最初から教えてくださっていれば、用意したのに。」
「そうよねえ、マリよりも少し小柄なんて言うから子供がくるのかと思って小さいのばっかり見繕ったのに。」
「男の人はそういうところが、駄目ねえ。」
「ほんとよねえ。」
喧しい女中達のやり取りに杏奈は目が回りそうになりながら、おとなしくいじられるままになっていた。どうも女中達が自分を飾り立てることを楽しんでくれているようだということは伝わってくる。口も手も休まず動かして、女中達が満足げに「できた」と言ったとき、杏奈は鏡の中の自分をみて驚いた。ウィルに13歳か14歳と言われた幼い外見が嘘のように、大人びて見える。ミーナとおそろいにしていたお下げをやめて前髪を横に流し、長い髪を編みながらゆるく結い上げたそれだけでも印象がまるで違う。さらにうっすらと化粧がほどこされ、これなら年相応に見えるだろう。
「すごい、別人みたい。」
杏奈がぽつりと呟いて尊敬の眼差しで鏡越しに女中達の顔を見ると、皆一様に一仕事終えた満足感を漂わせている。薄汚れた子供にしか見えなかった杏奈を初々しい社交界の花のごとく輝かせたのだから、自然と誇らしげな表情にもなろう。
「元が良かったから、あんまり自慢にならないけど。」
そう言いながらも、まんざらでもなさそうだ。
「ありがとうございます。私、杏奈といいます。これからお世話になります。」
鏡を背にして立ち上がりアンナが頭を下げると、女中達は「はい、お世話になります。」と陽気に笑った。4人も居並ぶ女中達は年かさの者から、モイラ、メグ、ミランダ、マリと名乗った。最初に部屋にいたのはモイラとマリだったことになる。彼女達の仲の良さそうで気さくな雰囲気にアンナはこの人たちの仲間になるのなら、やっていけそうな気がすると、少し緊張を解いたのだった。
「少し早いけど、下へ降りましょう。さっきマリが大騒ぎしていったから、きっと皆あなたが降りてくるのを待っているわよ。」
女中達に促されて居間へ戻ると、既にくつろいでいたアルフレドとアデリーンが揃って立ち上がった。
「まああ、アンナ。見違えたわ。綺麗よ。惜しむらくは服のサイズがあっていないことね。明日買いに行きましょう。靴はどう?少し大きかったかしらね。」
騎士達の中にいれば口数の多い方になるアルフレドも家に帰れば、妻や女中の前に沈黙する機会が多くなる。完全に妻に先を越されて、ただ笑顔でアンナに頷いて見せた。
「ケイヴ、お茶をもう一人分いただけるかしら?」
女主人に声をかけられ、居間に姿を現した執事もアンナの姿に目を止めてしばし立ち止まった。
「ほら、見惚れてないで。」
執事はモイラに背中をはたかれて我に返ると、彼はアンナに不躾な視線だったと詫びてから「先ほどのお下げもかわいらしかったですが、その髪型もお似合いですね。朝日を浴びる麦畑のような輝きを、ちょうど麦穂編みにしていらっしゃるのがお嬢様の清純な印象に良く合います。」と微笑んだ。
気障な台詞を嫌味なく織り込んで、杏奈を褒めつつもさりげなく女中達の仕事も褒めた如才ない執事に「これが大人の色気なのね」と杏奈は一人で誤った感銘を受けていた。