ヴァルター家
王都の門は大きく、馬車が四台は並んで通れると思われた。その広い門を忙しく人が行き交う。杏奈が「すごい人ですね。」と呟くと、セオドアは「今日は特別賑わっているな。」と返した。
国家的な人気を誇るアンドリュー師団長の数ヶ月ぶりの凱旋の日が近いという噂が立って以来、セオドアの言うとおり普段よりもかなり王都は混みあっていた。難民を一気に受けれるため忙しくなる門の業務を混乱させまいと、アンドリュー自身は一日遅らせて形式的な凱旋を行う予定なのだが、それを知らない者も多い。正門の脇に連なる食べ物屋には、次々と通りかかる騎士を見つめながら、熱くアンドリューの帰りを待っている若い女性の姿が目立った。
王都は三重の構造になっており、門をくぐって最初の層は比較的管理も緩やかな商業地域と一般の住民の居住区域だ。もっとも多くの市民がここに住む。二層目は国の重要な機能を担う役所や騎士団のための設備が並ぶ。ある程度大きな貴族の邸宅もこの層にある。最後の層は厳重に立ち入りを管理している王城と王族の居住区域である。アルフレドの家は一層目の奥の方、貴族の家の集まるところにある。街道から連なる大通りから離れて、城壁を見ながらぐるりと南側に回りこむように進むと、徐々に宿屋や商店が減り、住宅や緑地が増えてくる。
警備のために途中に幾つか置かれている騎士の駐在所の一つでアルフレドが待っていた。
「やあ、ご苦労。助かったよ、セオドア。アンナ、初めて見る王都はどうだい?」
「人がたくさんいて活気があって、楽しそうでした。」
「そうか、特にここのところは賑わっているらしいね。」そう言いながらアルフレドはひょいと腕を伸ばしてセオドアの馬の上から杏奈を下ろした。
「お前はどうする?」
アルフレドがセオドアに問いかけると、セオドアは「とりあえず家に戻ります。」と答えた。アルフレドはいくつかセオドアに連絡事項を伝えると、話を理解できてない杏奈に要約して彼女に必要なことだけを伝える。
「セオドアはこのまま彼の家に戻る。君は私と一緒に我が家へ帰ろう。私の家はここからすぐだからね、セオドアほど上手に乗せてやれなくても、君に怪我をさせる前に着くはずだよ。」
二人乗りに特別な技術がいるわけではないが、やはり乗り手の良し悪しはある。それは町の教会からの移動の道中に交代で数名の騎士に乗せてもらった杏奈にもなんとなく分かった。セオドアに乗せてもらうのが一番楽だ。アルフレドの馬には乗せてもらったことはないが、さすがに怪我をすることはないだろう。杏奈は、ここでセオドアとお別れになるらしいと分かって、彼の方に向き直った。命の恩人で、辛いときにいつも静かに傍にいてくれたセオドアには伝えておきたい感謝の思いがたくさんある。
「セオドアさん、ありがとうございました。」
深々と頭を下げる。杏奈が頭を上げるか上げないかのタイミングでセオドアは「ああ。長旅で疲れただろう。とりあえず、ゆっくり休ませてもらうといい。」というと「じゃあ。」と言って去りそうになった。
「あ、あの。」
慌ててこれまでの感謝を言い尽くしていない杏奈が呼び止めると、セオドアは「何か?」と言いたげな顔で振り返った。
「本当に長いこと、拾ってもらったところから、ありがとうございました。」
杏奈がそういうと、セオドアも杏奈の意図が分かったらしい。軽く手を上げて止めさせた。
「改まらなくても、またすぐ会うことになる。」
「え、そうなんですか?」
杏奈がセオドアとアルフレドの顔を交互に見ると、二人とも至極当然というように頷いた。
「こいつは、しょっちゅう家に来るんだよ。久しぶりに帰ってきて、また妻が会いたがるだろうから、近いうちに呼ぶことになるだろうね。」
アルフレドの言葉に心を込めてこれまでの感謝を述べようとしていた杏奈は拍子抜けした。もうしばらく会えないと思っていたのだ。
「だから、今日は感動の別れは無しで大丈夫だよ。」
アルフレドはバチンと片目をつぶると、「さあ、行こう。」と杏奈を促した。
アルフレドの家は、家というより屋敷と呼ぶのが相応しい立派な邸宅だった。
門から家の建物の間に大きな前庭があり、馬車でその庭を回りこめるように道も敷いてある。石造りの家は手入れが行き届いており、磨かれた床に初めて通された杏奈は自分の靴が床を汚すのではないかと歩くことも躊躇った。
「おーい。帰ったぞー。」
庭先で馬を馬丁に預けたアルフレドは扉を開くと、広い玄関から吹き抜けの階段に向かって大きな声をかけた。そのまま砂まみれのブーツをガシャガシャと鳴らしながら進んでいく。
「お帰りなさいませ。旦那様。はい、そこで止まってください。」
奥から出てきた壮年の男性が声をかけてアルフレドを立ち止まらせる。
「そのブーツで家の中を歩かれては絨毯が皆駄目になってしまいますと何度申し上げたら覚えてくださるんでしょうね。長いお勤めご苦労様でございました。ご無事のご帰還、何よりでございます。」
「お前、もの言う順番がおかしくはないか?」
「左様でございますか?」
男はそんなやり取りをしながらも、アルフレドを玄関にあった腰掛に座らせて二人がかりで金属のいかにも重たそうな脛当てを外し、分厚いブーツを脱がせていく。確かに乗馬用に拍車のついたブーツは床や絨毯を激しく傷めそうである。杏奈は玄関から一歩入ったところで立ち止まって自分も靴を脱いだ方がいいのだろうかと靴を見下ろした。皮製のやわらかいブーツは何かを傷めそうではないが、長い間履きっぱなしであり美しくもない。
「おかえりなさい、あなた。」
凛と通る声に杏奈が顔を上げると、階段から女性が降りてくるところだった。言葉からも、出で立ちからも間違いなくアルフレドの妻だろう。杏奈は緊張した面持ちで女性を見上げた。赤みがかった茶色の豊かな髪を結い上げ、すっきりとした品の良いドレスを纏っている。きりりとした美しい顔立ちは凛とした声のイメージそのままだ。
「ただいま、アディ。」
ようやくブーツを脱ぎ終わり、甲冑と剣はそのままなのに足元だけやたらと軽装になったアルフレドはその少し滑稽な格好のまま妻に歩み寄った。手袋も甲冑も砂埃を浴びたままだったが、二人は気にした様子もなく軽く抱きしめあい再会を喜び合う。
「アンナ、そんな隅っこにいないで。紹介するよ。私の妻のアデリーンだ。アディ、この子がアンナだよ。」
アルフレドに手招きされて、杏奈はおずおずと二人に歩み寄った。そんな彼女にアデリーンはにっこりと笑顔を浮かべる。
「はじめまして、アンナ。会えて嬉しいわ。」
「はじめまして。お世話になります。よろしくお願いします。」
緊張しながら挨拶を交わすと、アデリーンは嬉しそうにアンナの手をとった。
「そう固くならないで頂戴。これからここがあなたの家になるんですから。私のことを母だと思って、ね?」
杏奈の母というにはアデリーンは若々しすぎたが、優しい眼差しに偽りはないと感じられた。「ありがとうございます」といって目を伏せた杏奈は白く美しいアデリーンの手と、砂にまみれて汚れたままの自分の手をみて慌てて手を引いた。驚いたようなアデリーンに赤くなりながら弁解する。
「あの、ごめんなさい。私の手、汚いから汚れちゃうと思って。ああ、あと靴、私も脱いだ方がいいでしょうか?」
杏奈が両手を隠すように握りこみながらそう聞くと、アデリーンは「まあ」と一言いってからアルフレドと目を合わせた。
「アンナ、長い旅をしてきたんだから汚れていて当たり前だよ。見ての通り私も汚いさ。ははは。恥ずかしがるようなことじゃない。」
アルフレドはそう言って、杏奈の肩を叩く。
「そうよ、手なんて洗えばいいわ。それに私はもうこの人に触ってしまったのだから、どうせ洗うのだし気にすることなんかないわよ。」
自分の夫を示しながら、アデリーンはそう言って改めて杏奈の手をとった。今度は逃げられないようにとしっかりと握る。
「お嬢様の靴はそのままでよろしゅうございますよ。旦那様の靴と違って凶暴な鋲や拍車はついておりませんから。」
先ほどの男性がそう言って抱え上げたアルフレドのブーツの底を示した。尖った金属がたくさんついている。これさえなければ汚れの方はどうでも良いらしい。
「はい、あの、ありがとうございます。」
杏奈が男性に礼を言うと、彼は「ヴァルター家執事のキャヴェンディッシュと申します。」と笑顔で答えてくれた。
「キャ、キャヴェンディッシュさん。」
杏奈が間違えないように慎重に繰り返すと、彼は「ケイヴで良いですよ。皆、お前の名前は舌を噛みそうだと言うのです。」真顔で言い添えた。
「隊長さんのおうち、ヴァルターさんって言うんですね。」
初めて聞くアルフレドの名字を杏奈が復唱すると、アデリーンと執事はそろって呆れたようにアルフレドをみた。
「あなた、うちの子にするから連れ帰るといっておいて、家の名前も教えていなかったんですか。」
「いろいろと忙しくてついな。でも今分かるんで十分なことだろう?」
アルフレドは悪びれずにそう言ったが、アデリーンはこの様子では家のことなど、ほぼ何も教えていないに違いないと踏んだ。
「色々とお話すべきことがあるようですね。こんなところで立ち話も何ですからお二人とも中へ。湯浴みの支度もできておりますが、先にお茶でも飲まれますか?」
「先に湯を使わせてもらおうかな。口の中まで砂が入ったようだ。これではせっかく茶を入れてもらっても味わえない。アンナ、まずは我々は身奇麗にするとしようじゃないか。風呂に案内させるからゆっくり体を休めるといい。夕食のときに改めて家の皆に紹介しよう。アディ、彼女を頼むよ。」
そういうとアルフレドは執事を伴って去っていき、杏奈はアデリーンに託された。体よく諸々の説明を押し付けられた格好になったアデリーンは、表面上はアルフレドを軽く睨んだが、すぐに表情を和らげ「仕方ないわね」と、数ヶ月ぶりにあっても変わりのない夫の様子をむしろ喜んでいるようだった。