初めての宿屋
ウィル達と別れてから、街道へ戻る道すがらついでのように任されていた任務が思ったよりも時間をとり、アルフレドらの一行が本隊に追いつく前に日暮れになってしまった。野営するつもりがなかったので備えがない一行は宿屋で一晩を明かすことにした。本来は本隊が護衛している一般の村人が野営しているというのに、自分達だけ宿屋に泊まるということはよろしくないのだが、こういう場合は已む無しというアルフレドの判断である。
街道沿いの比較的大きな店にまとまって泊まれることを確認し、それぞれに厩に馬を預けに行く。杏奈は店の前で下ろされ、先に店に入っていろと言われたが、送ってくれた騎士達がまだ寒い外にいるというのに自分だけ中には入れない。扉の脇に立って彼らが戻ってくるのを待った。
戻ってきた騎士達は寒い中両手をすり合わせながら彼らを待っている健気な様子にいたく心打たれ、目を潤ませながら彼女の背を押して「待たなくてもいいから、寒いだろう。」と店の中へと押し込んだ。暖かい店の中は食堂になっていた。これは一般的な宿屋の構造で、一階は広い食堂や酒場を兼ねており、二階に客室があるのだ。騎士達は宿の交渉を済ますと、まずは夕食を摂ることにした。食堂には程よく客が入っていて、十人以上が一斉に囲めるような大きな席はなかったので、宿屋の主人に適当に分けて席に案内される。二人がけの席にセオドアと杏奈が落ち着いたのは、彼らが並んで立っていたからという単純な理由なのだが、杏奈と食事をする機会を狙っていた他の席の騎士達は興味津々に、あるいは不満げに二人の席を意識しながらの食事となった。
「何か食べたいものはあるか?」
「お店でご飯を食べるのは初めてで、何があるのか分からないです。」
杏奈がきょろきょろと周りの客を見回すのを見て、セオドアは納得する。避難所で目が覚めてからしか記憶がないということは、それ以外の場所を何も知らないということだ。少し考えれば思い当たることだが、目の前にいる相手が普段は全く普通なだけに、つい気を利かせることを忘れてしまう。
「そう言えば、そうだったな。じゃあ、」
メニューを見せて選ばせようかと考えて、今度は口にする前に気がついた。文字が読めないのだからメニューをみても意味がない。
「適当に頼むから試しに食べてみるといい。」
そう言って店員を呼びとめて注文する。程なく分厚い肉のソテーと大盛りのサラダが出てきた。もう後は休むだけとはいえ任務中であるので酒は頼まない。適当に肉を切り分けて杏奈にとってやると、残りを自分の皿へ移して小さく刻む。一口して悪くないと杏奈の様子をみやると、まだ肉を切るのに苦戦しており一切れも口に入っていないようだった。それほど固い肉とも思わなかったが、ナイフの使い方が下手なのかもしれない。しばらく杏奈の手元を眺めながら食事を進めたが、一向に食事を始められそうにないのをみて、とうとう声をかけた。
「ちょっと貸してみろ。」
皿ごと杏奈の肉を引き寄せると自分が食べる時よりも、さらに小さく切り分けた。
「このくらいの大きさなら食べられるか?」
フォークの先に肉を刺して示すと、杏奈は返事をするより前にぱっと口を開いて、そのまま肉を食べてしまった。避難所で子供たちに食事をさせていると、たまに自分もやりたいと小さい子が杏奈の目の前にスプーンを差し出すことがあった。杏奈にしてみれば、射程圏内に食べ物が差しだされたので、つい条件反射で食べてしまったに過ぎない。彼女は自分がしたことでセオドアのみならず、周りで食事をしていた騎士全員が硬直したことに気がつかないまま、一生懸命に料理を味わっている。セオドアは数秒フォークを差し出した状態のままで固まっていたが、彼女が口いっぱいに肉を頬張っているのをみて止まっていた思考が再開され、どうやらもう一回り小さい方が良さそうだ、と再び肉を切り分け始めた。その動作に周りの騎士達もざわめきながら再び食事にとりかかる。しかし、視線がセオドアと杏奈のテーブルから離れないので、ぽろぽろと食べこぼす大の大人が続出した。
やはり、切ってやった肉は大きすぎたらしく、杏奈が最初の一口を飲みこむのとセオドアが残りの肉を切り分け終るのがほぼ同時だった。
「ほら、これなら食べられるだろう。」
そう言って皿を返してやると、杏奈は「ありがとうございます。」と嬉しそうに次の一口に取り掛かった。どうやら味は問題なかったらしい。
「あらあら、甲斐甲斐しい。良いわねえ、優しい彼氏で。」
先ほど注文を取りに来た中年の女が、通りすがりに声をかけてきた。どうやら食事を切り分けたり取り分けたりしているのを見ていたらしい。違いますとわざわざ訂正しなくとも、おそらくこの先そうそう会うこともない相手だ。相手にしても連れ立ってきた騎士の一人だけが恋人を連れていると本気で思っているわけでもあるまい。セオドアも杏奈も曖昧に笑顔を浮かべてやり過ごした。
二人にとってはそれだけの他愛ないやりとりだったのだが、「優しい彼氏」の一言が効いたらしく女がいなくなると騎士達は次々とテーブルや椅子を二人の席の傍に運んできて強引に食事の輪を広げた。驚く杏奈の皿には小さく切り分けられた様々な料理が乗せられ、騎士達が食材や料理の名前を熱心に説明してくれる。なるべく覚えようと杏奈は真剣に聞き入ったが、聞いている間は食事の手が止まってしまうことに気が付いた一人がそれを指摘してからは説明は控えられ、杏奈もじっくり食事を楽しむことができた。
明朝早くに出発して本隊を追いかけることになる。一行は久しぶりにきちんと料理されたものを囲んだ楽しい食事を済ますと、早々に二階の客室へ引き上げることにした。
「私の部屋が隣だから、何かあったら呼ぶんだよ。壁を叩いても聞こえるから、それでもいい。」
アルフレドは一番奥の部屋を杏奈にあてがい、自分の部屋をその手前においた。今日、共に来ているのはアルフレドの部下の中でも特に素行に信頼のおける者ばかりだが、用心に越したことはない。
「はい。ありがとうございます。おやすみなさい。」
アルフレドの気遣いの真意が分かっているのか、いないのか、杏奈は素直に返事をして戸を閉めると、初めてみる宿屋の部屋というものを探検し始めた。彼女は軍医の下で治療を受けているとき以外は寝台に寝たことがない。その寝台にしても従軍用の簡易のものだ。もっとも一般的な家具である寝台ですらそんな調子なので、部屋に備え付けの小さな手洗い場や文机など、普通は何の面白みもない安宿の設えも杏奈にとっては全てが新鮮なものだ。
「お布団がふかふかしてる。カバーが花柄だし。かわいいなあ。」
備え付けてあった布を使って、できる範囲で体を拭って簡単に寝支度を整えると、早速布団にもぐりこむ。
「あったかい。やわらかーい。」
やわらかくて暖かい布団に横たわるというのは基本が硬い床での雑魚寝であった杏奈にしてみれば画期的な出来事である。子供達にも体験させてやりたかったな、と思ってから、いやいやと思い直す。彼らも今晩からは新しい教会で、きちんと一人一つある布団に入って生活するのだ。今頃、自分と同じように「あったかい、やわらかい」と喜んでいるだろう。そう思うと何だかおかしい。杏奈は小さくふふふと笑いをこぼした。あったかいね、と喜ぶ顔が見たいという思いもあるが、それ以上にやわらかい布団の喜びが大きく、杏奈はふわふわと嬉しい気持ちのまま、しばらく暖かい布団に眠れる喜びを味わっていた。
安普請の宿では隣の部屋の物音は筒抜けだ。アルフレドの部屋には、一度杏奈が少し大きな声で言った「うわあ、お布団だ」という言葉が漏れ聞こえていた。そのあまりに嬉しそうな声のトーンと、喜んでいる内容の落差にアルフレドは思わず口元を覆う。
(くっ。こんな萎れたような布団であんなに喜んで。アンナ、家に帰ったら、もっとちゃんとした布団で寝かせてやるからな。花の香りの袋も枕に忍ばせてやろうな。)
その晩、アルフレドは眠りに落ちるまでずっと、家に帰った後に杏奈の部屋をどう飾り立てて喜ばせてやろうかという想像を膨らませていた。