お別れ前夜 その2
ミーナに杏奈を独占されてしまった他の子供達は、やきもきしながら二人の様子を窺っていた。皆、彼女に別れを言いたくて、お礼を言いたくて、将来の約束をしたくて、とにかく話しかけたくて仕方なかったのだ。しかし杏奈がミーナと語らっている間に明日も朝は早いから、とウィルに寝かしつけられてしまった。
「明日の朝も、昼間も話す時間はあるから、な。」
そういって子供たちを寝床に追いやりながらも、ミーナと杏奈の話しが終るのを一番心待ちにしていたのはウィルであった。彼こそ、彼女にどうしても今日のうちに話したいことがあるのだ。他の子供達の話は、誰が聞いていたって良いような話だが、ウィルの場合はそうはいかない。誰の邪魔も入らない環境で話すなら今晩しかない。
杏奈がミーナの傍をそっと離れて体を起こすと、ウィルが手招きしているのが見えた。今やだいぶ空いてきた天幕を出て、焚火のそばに寄って行く。夕食からだいぶ間も空いて焚火のまわりに残っている人影はまばらだった。ウィルは焚火の前に座りこむと、隣を軽く叩いて杏奈にも座るように促した。パチパチと薪の爆ぜる音を聞きながら、ウィルはこっそりと深呼吸をする。
(落ち着け、俺。)
思いを自覚して以来、どうやって思いを伝えるか散々考えた。杏奈が倒れていた間は、もう枕元で叫んでしまおうかと思ったこともあったが、今思うと早まらなくて良かったと思う。
「ウィル。」
「ん。」
心を落ち着ける努力がまだ実っていないウィルは、平静を装って返事をする。
「明日で一旦お別れだね。」
杏奈は揺れる炎を見ながら、のんびりした口調でそう呟いた。
「寂しいね。」
元気のない声に心落ち着くまでは杏奈の方を見ないようにしようとしていたウィルの決意は簡単に揺らいだ。言葉の意味をいいように解釈したくなる。思わず彼女の横顔を確認しようとして、視線を向けると杏奈は立てた膝に顎を乗せてウィルの方を向いていた。思いがけずばっちり目が合ってしまったウィルは一瞬言葉に詰まった。杏奈は止まってしまったウィルを見て少し首を傾げる。
「また会うだろ。」
ぶっきらぼうにウィルがそう言うと、杏奈はふわっと笑顔を浮かべた。その笑顔に励まされるように、ウィルは言葉を続けた。
「アンナ。別れる前に言っておきたいことがあるんだ。」
「何?」
改まったウィルの様子につられるように、杏奈は顎を膝から上げて少し姿勢を正した。
「この前、アンナのことを妹みたいって言ったやつ。取り消させて。」
杏奈は目を思いきり見開いてから、ゆっくりと数回瞬きした。少なくとも現在、天涯孤独の杏奈にとってウィルが妹だと言ってくれたことはとても嬉しいことだったのだ。それを取り消されてしまうような、何か彼を怒らせるようなことを自分はしたのだろうか。不安な思いを堪えて、彼の言葉の続きを待つ。
「アンナのことは確かに大事に思うけど、妹っていうのは間違いだった。そういうんじゃないんだ。モンスターのことがあって、分かったんだ。俺は、騎士みたいに剣をもって杏奈を守れなくて、医者や司祭みたいに怪我を治してもやれなくて、すごく悔しかった。だけど、考えてみたけど、俺、騎士にも医者にもやっぱりなれない。」
それは経済的な意味でも、家柄という意味でも、素質という意味でも、とにかくあらゆる面で障害が多すぎた。そうしたことを度外視してまで自分が騎士になって彼女を守ると言い出す程ウィルはもう子供ではない。
「それでも、アンナのことだけは誰かに任せておきたくない。それは、妹とか家族だからっていうことじゃなくて。俺がお前の一番でありたいってことで。」
そこまで一気に言って、ウィルは短く息をついた。それから改めて真正面から杏奈の視線を捉える。
「アンナが一番好きだってこと。」
杏奈を見つめる大地の色の瞳には見たことの無い熱が湛えられ、その真摯な思いは間違いようもなく杏奈に伝わった。ウィルはそのまま杏奈を見つめたが、杏奈は「え」と「あ」を小声で繰り返しているだけで明らかにまだ頭がついていっていない。杏奈のうろたえぶりをみて、緊張のあまり余裕をなくしていたウィルはかえって少しゆとりを取り戻した。段々頬が赤くなっていく彼女の前で手をひらひらとさせてみせる。
「アンナ?」
「う、うん。びっくりして。」
無理もないね、とウィルは笑う。彼自身、自覚したのはほんの数日前だ。
「急にごめん。でも、もう今日しかないと思ったからさ、どうしても言っておきたくて。」
ウィルはそういって視線を焚火の方へ逸らした。思いがけない告白に何と返せばいいのか思考が上滑りを続けている杏奈は、赤く染まったウィルの耳朶と首筋を見てますます鼓動が早まったのを感じた。自分もきっと同じくらい真っ赤になっているだろう。頼りになるけれど、ちょっと可愛いところもある少年。しっかりものの弟分。大事な家族。ウィルのことはずっとそう捉えていた杏奈にとって、彼の言葉は晴天の霹靂であった。
「騎士や医者にはなれなくても、働いて居場所作って、アンナに不安な思いさせないようになるから。俺を待ってて欲しいんだ。すぐに返事もらえなくてもいいから。」
ウィルは務めて軽い調子でそう言ったが、待っていてほしいと語りかけた瞳は真剣そのものだ。これではまるで一足飛びに求婚ではないか、と思いながら杏奈は一生懸命に言葉を探した。
「ウィル。」
しかし、名前を呼んだきり次の言葉が出て来ない。それはつまり、今すぐに彼の気持ちに応えることができないという気持ちの正直な現れだった。短くもない沈黙の間にウィルもそれを理解した。落胆は止めようがないが、予期していたことでもある。
「今すぐ決めなくていいから。でも待ってて。」
ウィルはもう一度そう繰り返した。王都にいけば、彼女の周りには自分よりずっと頼りになる、立派な男達がたくさん現れるだろう。アンドリューやミラードを見て頬を染めた様に、目を奪われるような男もいるかもしれない。けれど、自分が会いに行くまで誰のものにもならないで待っていてほしかった。
杏奈はしばらく考え込んでいたが、きちんと返事をしようと纏まらないなりに自分の思いを説明し始めた。
「私、恋とか、もっと未来のこととか分からない。自分で生きていけるようになるようにって、今はそれしか考えられなくて。でもね、ここでウィルを待つって言ってしまったら、私はその約束に甘えてしまうかもしれない。」
苦しい時、自分にはいつか迎えに来てくれる人がいると思ったら、それを口実にして努力を怠るかもしれない。結果、次に巡り合うときにも、また杏奈はウィルなしでは生きていけない頼りない存在のままになってしまうかもしれない。そういうのは嫌だった。
「だから、とても嬉しいけど、待っているって約束はできない。したら、いけないと思う。」
甘えたっていい、むしろ、甘えてほしい。本音を言えば、そう言いたい。だがウィルには杏奈のいうことの意味も分かる。これから自分も杏奈も一人で生きていく力をつけなければならないなのだ。
「もし、今すぐ返事をしてって言ったらなんて答える?」
杏奈は少しだけ逡巡したが、もう自分の答えは分かっていた。
「ウィルのことは好きだよ。とても大事。でも、それはウィルが言ってくれたような好きじゃないと思う。」
杏奈の言葉に、ウィルは「やっぱり、そっかあ。」と言って長く息を吐くと両膝の間に頭を垂れて、しばし項垂れた。
「ごめん。」
「謝るなよ。お前は何も悪くないんだから。」
ウィルは苦笑いを浮かべて顔を上げた。そう言われるだろうと思っていたが、実際口に出されるとやはり辛いものだ。軽く頭を振って髪を払うと、ウィルは苦笑いの残る表情で杏奈を見た。
「アンナの気持ちはわかったけど、でも俺は好きだから。アンナのこと、そんなにすぐ諦められない。」
往生際が悪いとは思うが、これはこれでウィルの正直な気持ちだ。
「約束はしなくていいよ。でも今日のこと覚えていて。俺きっと、会いに行くから。そのとき、もっといい返事してもらえるように頑張る。」
こうまで言われて、来るなと言えるだろうか。杏奈はこっくり頷いた。
「私も頑張る。」
ちょっと見当外れの杏奈の返事に、ウィルは笑って「おう」と答えた。お互いに、今は自分を成長させなければいけない時期だ。はやる気持ちはあるけれど、今焦っても杏奈を幸せにすることはできない。
「急に、ごめんな。明日は普通にしてるから。杏奈も普通にしてて。」
そう言ってウィルは「おやすみ」と天幕の方へ去っていく。杏奈はまだ心臓が落ち着かないのを必死に宥めながらその後ろ姿を見送った。
(言いたいこと、全部言ったよな。全部、言えたよな。)
ウィルは何度も何度も会話を反芻して、もっと良い返事を引き出せなかったかと考えるが、改善点が見つからない。つまり精いっぱいのところまでやれたということだろう。残念な気持ちはどうしても湧いてくるが、未来にもう一度チャンスをもらった。そのことが何とか彼を奮い立たせていた。
(これからウィルを家族みたいに思ったらいけないのかな。やっぱりそういうのって嫌なのかなあ。)
杏奈は杏奈で焚火に当たりながら、二人のやりとりを思い返し、自分の言葉に間違いはなかったかと考える。ウィルの気持ちは嬉しい。けれど、男として好きかと問われてしまうと、どうしても、それはそうではないと思うのだ。このまま彼との関係が上手くいかなくなったら嫌だと思う反面、彼が距離を置きたいと言えばそれは仕方ないだろうとも思う。明日はいつも通りと言ってくれたものの、本当に大丈夫だろうか。
((ね、眠れない。))
時間差で天幕に戻った二人がお互いに背を向けたまま眠れぬ夜を過ごしていたことには、幸い誰も気がつかなかった。