白い鳥
杏奈は、ぼんやりとしていた。だんだんと意識がはっきりとしてくるにつれて、これは夢だなと思う。目に映る限り薄灰色の何もない空間が続いている。自分が立っているのか浮かんでいるのかも良く分からない。腕の治療をしてもらった翌朝から出ていた熱による関節の痛みもなければ、そもそも左腕の痛みもない。知らぬ間にあの世に渡ってしまったのでないとすれば、これは完全に夢だ。
「変な夢。」
ぽつりと呟くと、声が震わせた空気が形をとるように杏奈の目の前に何かが現れた。白い丸い何か。思わず手を伸ばして指でつつこうとすると、丸い物は「やめろ」と言葉を発した。
「わ。喋った。」
杏奈が眼を瞬かせている間に、丸い物には口もないのに喋り続ける。
「まったく、お前は何をしているんだ。教会を出たと思ったら、あっという間に死にかけるなんて。お前は俺にどれだけ苦労させるつもりだ。そんなに恨んでるのか。まあ、そうだよな。それは恨まれても仕方ない。それは分かるが、だからって、こんなところで死にかけるなんて嫌がらせあるか?え?」
いきなりまくし立てられて杏奈はポカンと口をあける。
「え?」
「ああ、もういい。お前に言ったって無駄なんだ。俺だって分かってんだよ。分かってんだ、分かってんだけど。ああ、もうお前は自分の命をもっと大事にしてくれよ。俺の寿命が縮むよ。もう十万年分くらいはお前のせいで縮んでるよ。」
「あ、あの?」
白い物からは男とも女ともつかない不思議な声がどこからともなく発せられている。杏奈は茫然と立ち尽くしている間に、白い物はフルフルと震えながらしばらく何かの不満を発散していた。やがてフルフルが小さくなって白い物は少しの間、静かになった。
「やっと帰ってきたのに、こんなところで死んでくれるな。頼むから。」
静かにそう発して白い物は段々薄まっていく。その言葉が余りに切実で杏奈は苦しくなる。白い物の感情が伝染したようだ。咄嗟に胸を片手で押える。締めつけられるような切ない思いに本当に胸に痛みを感じていた。
「お前はお人好しが過ぎて、ぼんやりしてて、にぶちんで、大間抜けで、優しすぎる。お前はそれさえ知っていればいいんだ。いいか、お前は間抜けなんだから、人一倍気をつけろ。もう傷つくな。もう誰にも傷つけられるな。」
そう言いながら白い物はさらに薄まっていく。
「待って。お願い。」
杏奈は消えそうな白い物に右手を伸ばしたが、触れたと思った途端にかき消えてしまった。だが、その僅かな間に杏奈の頭の中に直接映像が浮かんだ。
水面に映る大きな白い鳥。後ろから少女が現れて、初めてその鳥が大人一人乗せられるほど大きいことが分かる。弾けるような笑顔で白い鳥に飛びついて来た金髪の少女の顔をみて、はっとする。それは杏奈自身だった。じゃれかかる少女を長い首を巡らして見やる白い鳥の青い瞳からは優しい思いが感じられ二人の気持ちが通じ合っているのだと察せられた。
杏奈は直感的にあの白い物は、この鳥だと理解した。おそらくはあの少女が自分なのだろう。大切に思いあっていた。それは瞬間的な映像の中からでも間違いようもなく感じられた。しかし、それと今のこの夢とはうまく頭の中で結び付けられない。さっぱりわけが分からないけれど、見た瞬間に、胸にひりつくような痛みを感じた。ただ悲しい。涙がこぼれて、また胸が苦しくなる。蹲って必死に胸を押さえていると、ふんわりと暖かい風が頬に触れた。
「本当に、お前は大間抜けだ。」
耳元で優しい声がする。暖かい風はしばし杏奈の周りに留まった。
「もう俺は守ってやれないんだから、しっかりするんだぞ。」
その声にはもう苛立ちも切なさもなく、ただ慈しみに満ちていて杏奈は心がふんわりと温まるのを感じた。白い鳥は自分が泣いたから慰めに戻って来てくれたのかもしれない。杏奈はなんとなくそんなことを思って、ゆっくりと立ち上がりながら中空に向けて「ありがとう」と小さく呟いた。今度は声は形を取らず、淡く期待した白い物は現れてはくれなかった。何もない灰色の空を見ながら杏奈は新たに胸に湧き上がる自分の知らない感情をもてあまして、やはり泣いた。
温かくて切なくて苦しくて、とても幸せだった。
きっと私は、あの白い鳥が大好きだった。きっと、ずっと会いたかったのだ。