癒しの奇跡
夜明けに東の空が白む頃、蹄の音が聞こえてきた。
ウィルは寝てしまったミーナを片手で抱きかかえたまま、杏奈の枕元に座り杏奈の手を握っていた。蹄の音が思ったよりも近くまでやってきたので外の様子に耳を澄ますと、すぐに慌ただしい足音がして軍医がやってきた。軍医はウィルを押しのけて杏奈を抱きあげる。驚いてウィルが声を上げると「すぐに治癒をする。待ってろ。」とだけ言い残して自分の天幕へ去って行ってしまった。先ほどの蹄の音はセオドアが王都から向かってきていた司祭と無事に合流し連れて戻った音だったのだが、ウィルはそのようなことは知る由もない。寝ぼけ眼のミーナを抱いて馬車を下りると、大きな栗毛の馬の脇に見慣れた騎士、セオドアが倒れこんでおり、他の騎士に頭の上から気つけの水をかけられていた。彼の連れ帰った司祭はすでに軍医の天幕へ向かっていて姿は見えない。ウィルは慌ただしい状況の変化について行けず、天幕の前で呆然と立ち尽くした。
軍医は杏奈を寝台に移すと、司祭による治癒の用意を始めた。あらかじめ事情を聞いていた司祭も挨拶さえ省いて支度を整える。アーニャの顔色は熟れすぎた果実のように赤くなり、体も全体に腫れていたが、とにかくまだ息があり、全身で毒と戦っている状態だった。司祭の目が少しだけ柔らかくなる。必死の面持ちで見守っている軍医に頷いた。これならばきっと上手くいく。
治癒が始まれば軍医にも出番はない。天幕の中で見守るだけだ。
司祭の確信は正しく、2時間を越える治癒の祈りが終わった後には苦しそうだった息は落ち着き顔の赤みも少し走った後程度まで引いていた。そして腫れあがっていた腕や足もすっきりと元通りになっている。
「もう大丈夫です。解毒されました。しばらく安静にして普通の風邪と同様に大事にしていれば、元気になりますよ。」
軍医は深く頭を下げて司祭を見送った。
外で待っていた騎士達も同じ説明を受けて、やはり深々と頭を下げて礼をとった。その中には本部で出発に向けた指揮をとっていなければならないはずの師団長のアンドリューも、アンドリューの不在を補佐しなければならないはずのアルフレドも、頭から水をかけられてびしょ濡れのままのセオドアもいた。さらにその後ろには幼い子供たちが並び、騎士達を真似るように頭を深く下げている。長い祈りの間に子供たちにも事情は説明されている。子供たちにとっても司祭は大事な恩人だ。司祭はその様子に「皆さんの大事なお嬢さんなのですね。その思いがきっと神にも通じたのでしょう。」と微笑んだ。
騎士達が頭を上げると、司祭はすっとセオドアに歩み寄ってそっと彼の額に手をかざした。慌ててセオドアが避けようとしたが、司祭は目だけでそれを制した。口の中で小さく祈りの言葉を呟いて簡単な治癒を施す。
「丸二日も不眠不休など無茶もいいところですよ。少しは言うことを聞いていただかないと。」
司祭は手を下ろすと微笑んだ。司祭にやんわりと諌められてセオドアは改めて礼をとる。彼が今かけてくれた回復の祈りのおかげで出発以来、満足に飲まず食わず休まず眠らずで立っているだけでも限界に近かった体力がだいぶ持ち直した。埃と泥で汚れたままの後頭部をみて司祭は「頭を上げてください。」と困ったように眉を下げた。
「お礼を申し上げたいのはこちらの方ですから。貴方のおかげで一人の少女を救う役に立つことができました。今回ばかりは無理をしてくれてありがとう。」
金髪に蜜の色の瞳をした司祭は優しく微笑む。もう少し遅れていれば、もっと状況は難しくなっていたはずだ。間にあったのは司祭の静止も聞かず、司祭を自分に縄で縛りつけてまで寝ずに馬を駆ってくれたセオドアのおかげだ。
「私からも礼を言わせてくれ。二人に、改めて。」
アンドリューが歩み寄って来て、司祭とセオドアの肩に手を置いた。
「君達のおかげで我々は勇敢な少女の命を留めることができた。感謝している。よくやってくれた。さあ、セオドアは着替えて来い。出発まで間が無いぞ。皆も、あとはディズレーリ先生に任せて持ち場に戻れ。この連隊は出発を遅らせるが他は予定通りに出発するぞ。」
アンドリューが騎士達を見回すと彼らは弾かれた様に持ち場へと駆け戻って行く。
「ミラード、よく来てくれた。さあ、君はこちらへ。ディズレーリ先生、急ぎの患者は他にはいませんでしたね?」
アンドリューが司祭を導きながら天幕の中へ声をかけると、軍医から「今日はゆっくり休んでもらってくれ。」と返事があった。それを聞いてアンドリューは司祭をそのまま自身の隊の方へ連れて行った。
軍医は首だけを天幕から突き出すと、残されていた子供たちに向かって「おら、チビ達こっち来い」と呼びかけた。子供達は一斉に駆け出して杏奈の枕元まで行く。そして歓声をあげた。杏奈の顔色はすっかり元にもどり、呼吸も落ち着いている。まるで、ただ寝ているだけのようだ。そして寝顔のままうっすらと笑顔を浮かべている。
「アーニャ、笑ってるよ。」
子供達はお互いをつつき合い、泣き笑いで杏奈の顔を見つめた。