治療と治癒
小さな子供や老人を含む村人を連れての行軍はどうしても遅くなる。春の始めにモンスターの討伐に騎士達が駆け抜けた時の倍以上の時間をかけて王都への道を進んで行く。杏奈はその行程を大きな馬車の中で過ごしていた。慣れない揺れる馬車の中では深く眠ることもできず、熱が続き、体力は削られる一方になった。軍医は手当てを献身的に行ってくれたが、モンスターの毒に対する特効薬は発見されていない。患者の体力頼りにならざるを得ないのが現実だ。
杏奈には家族がいないので、仮の保護者としてアルフレドに杏奈の状況が伝えられていたが、出発から十日と少し経った頃に軍医が自らアルフレドの元に出向いてきた。百戦錬磨の軍医の厳しい表情にアルフレドはすぐに話の内容を予感した。
「あのお嬢さん、この速度では王都までもたないかもしれないぞ。」
軍医の診断は簡潔だった。アルフレドの傍には杏奈のいた教会で過ごしていた騎士達もいたが、そうした数名の騎士のすがるような視線にも軍医の診断は変わらない。
「急いで王都まで連れ帰れば、まだ手の打ちようもある。だが、この速度では先に体力が尽きてしまいかねん。」
アルフレドは口ひげを振わせて息をついた。「ふむ」と言ってから口ひげを一撫でする。
「どのくらい頑張ってくれそうですか。」
アルフレドが静かに軍医に聞き返すと、軍医は「それが分かれば苦労は無い。だが、十日はもたない。五日でも五分だ。」と渋い表情で返した。
「五日あれば十分。なんとか五日はもたせてください。」
自信ありげなアルフレドの言葉を軍医は訝った。
「ここから五日では王都まで着かんぞ。」
分かりきっている事実を確認すると、アルフレドは「知っていますよ。」と不服そうに言い返してきた。
「治療では治せなくても、治癒できれば良いでしょう?」
思いがけない言葉に軍医は瞠目する。
「それは、まあ、確かに。だが、こんなところに高位の司祭などいないだろう。」
話を飲みこめていない軍医を見て、アルフレドは「そうでもないのですよ。」と目を輝かせた。
「我々は良い上司に恵まれているということです。師団長が王都から司祭を呼んでいる。予定より少し早く司祭に来てもらいましょう。それまで、彼女を頼みますよ。」
「司祭をこんな田舎に?」
肩を叩かれた軍医は戸惑いの表情を浮かべたままだ。
傷を洗い、縫い合わせ、薬を調合する医師ができる手当を治療と呼ぶ。騎士団につき従うのはこの治療を行う軍医達だ。当然彼が行うのも治療の類である。しかし世界にはもう一つ傷や病気を治す術がある。神に祈り、その力を借りて高位の司祭たちが行う治癒だ。治療では何カ月もかかる骨継ぎも悪い病も高位の司祭が行う治癒であれば、半日ほどで回復するという。その秘術は厳しく管理されており、普段は恩恵に浴することは無いが、然るべき手続きを踏んで承認されれば、治癒を受けることができるのだ。ただし、高位の司祭は大きな都市でなければ見つからない。王都を目指しているとはいえ、まだ一行は王都から遠く離れた片田舎の街道上にいる。軍医は治癒など、ここでは手に入らない技術と諦めていた。
「そう、田舎までご足労願っているのですよ。冬の長い行軍で避難する民が体調を悪くするだろうからと、大司祭に掛け合って派遣してもらう算段を付けていたんだとか。それでももう数日はかかると聞いていますが、まあ運よく、こちらから国一番の早馬が立てられる。急いでもらうとしましょう。」
アルフレドはそういうと、素早くその場を立ち去った。やっと我に返った軍医はその背中に「急げるのなら三日以内で連れてこい!」と叫んだ。背を向けたまま片手を上げてアルフレドが去ると話を聞いていた周囲の騎士らが「アーニャをよろしくお願いします」「俺からもお願いします」「何でも手伝います」と次々に軍医に声をかけて彼を取り囲んだ。あの少女は、騎士達にとってとても大切な娘であるらしい。誰の命も等しく重んじるのは医師として当然の心得だが、強く無事を願う人を目の当たりにすれば意欲が上がるのは人情である。軍医は「できる手は尽くす」と約束して患者の元へ戻った。
アルフレドはすぐにアンドリューの元へ向かった。
「師団長。急ぎ、許可をいただきたい儀があります。」
「どうしました?」
「早馬を一頭出したいのです。セオドアを使わせていただきたい。」
セオドアは元々アルフレドの部下だ。現在の配置でもそうなっている。通常の行軍で必要なやり取りで出す早馬であれば、態々アンドリューに許可を取る必要はない。申し出てくるからには特別な用件があるということになる。
「理由は?」
アンドリューには今すぐに早馬を立てるような用件は無かった。報告を聞いている限り、どの部隊にもそのように差し迫った用件はないはずだ。
「先日、モンスターの剣で傷を負った少女に急ぎ高位の司祭による治癒が必要です。」
アルフレドの答えに、アンドリューは「治癒」と一言発して視線を王都の方角へ向けた。そしてすぐに視線をアルフレドの上に戻す。
「司祭を迎えに行きたいのですね。分かりました。許可します。彼はもう山裾を越えた頃だろうから、セオドアならうまくすれば三日以内に帰って来られるかもしれませんね。早く司祭がつく程皆助かるのだから、何も問題はありません。」
アルフレドは即断してくれた上司に礼を述べると、すぐに指示を伝えるべく立ち去った。
アルフレドの指示を受けて素早く支度を整えたセオドアは青毛の愛馬に跨り、軍医から二日で戻れと発破をかけられ、同僚から必死の眼差しで見送られて隊を後にした。