不安な旅の始まり
朝、村を去る準備で慌ただしい人々の合間を縫って、ウィルと子供達は我先にと杏奈の留められている軍医の天幕に駆け付けた。すでに騎士から傷は浅く、しばらくは軍医の下で様子を見ることになると伝えられていたがモンスターの傷が命に関わることは子供たちも知っている。いくら案ずるなと言われても気が気ではない。
「アーニャ!」
天幕に飛び込むと撤収準備をしていた軍医が驚いて子供たちを振り返った。
「なんだい、坊主たち。もうこの天幕は畳むから危ないぞ。」
「あの、アーニャは?昨日怪我をして運び込まれた女の子がいたでしょう?」
ウィルの説明に軍医は「ああ」と言ってから口元に指を一本立てて静かに、というポーズをとった。
「奥で寝ているよ。出発の直前まで寝かしておいてやりたいから静かにできる子だけ、見舞ってやってもいいぞ。」
子供たちは皆真剣な顔で頷いた。
「よし、じゃあ、くれぐれも静かにな。声が聞こえたら、すぐ追い出すからな。」
そういって寝台の回りの布を少し開いてやった。子供たちは代わる代わる杏奈の顔を覗きこんだ。杏奈は赤い頬をして苦しげな呼吸を繰り返している。顔を見るのが一回りすると子供たちは簡素な寝台の脇に並んで跪き、小さな手を寝台の端にかけながら心配そうに彼女を見つめた。なかなか出て来ない子供たちにしびれを切らした軍医が襟首を掴んで放り出すまで、みな杏奈の傍に張り付いていた。軍医はそのまま天幕の外に子供たちを追いだして、しっしっと追いやるように手を振った。
「さ、本当に天幕を畳むからな。離れていろよ。」
「先生、アーニャは苦しそうだったよ?アーニャ大丈夫なの?」
子供たちはいかつい軍医を取り囲んで、それまで黙っていた分の疑問をぶつけた。
「熱があるんだよ。毒が抜けるまでは続くが、抜ければ下がる。今は寝かしておくしかないからな、ゆっくり休ませてやれよ。」
軍医は子供たちの頭を次々とぐりぐりと撫でながら一人ずつ背中を押して更に遠くへ追い出して行く。最後にウィルの背中を押すと「さ、散った散った。」とパンパンと手を叩いた。子供たちはそんな扱いがもちろん不満で文句を言おうとしたのだが、その機会は後ろから飛んできた声に遮られてしまった。
「ディズレーリ先生!もう畳んでいいですか?」
撤収の手伝いにきた騎士から声がかけられ、軍医は慌てて天幕へ駆け戻って行った。
「待て待て、馬鹿者。先に患者だ。」
それからは、軍医の言葉通り天幕の撤収が始まりウィル達は軍医に話しかけることもできなかった。途中騎士が一人、杏奈を抱きかかえてどこかへ連れて行ったが、どこも出発の準備で慌ただしく人が動き回っており、追いかけることさえできなかった。
しばらく立ち尽くしていた子供たちだが、騎士に急かされ仕方なしに移動の隊列に加わった。浮かぬ顔の子供たちを見兼ねて顔見知りの騎士の一人が病人は特別に馬車で移動するのだと教えてくれる。自分の足で歩けるくらいまで回復すれば帰ってくるから、それまでは待っているしかないのだと言う。病人用の馬車は長い隊列の中でウィル達とは随分と離れた位置になる。子供たちは見舞に行くことも禁じられてしまった。もちろんウィル達は不満だったが、そんなことで千人規模の凱旋の計画は変わるはずもなく、アンドリュー・フォード師団長から出発の大号令がかけられた。
そうして移動が始まると、子供たちにも騎士の言葉の意味も分かってきた。近隣の村から集まってくる騎士と故郷を後にする人々で隊列は膨れ上がり、夕刻に街道についたときには騎士は二千、村々から集まった民は数百に達したのだ。街道に延々と続く人の波に子供達は圧倒される。これほどの大人数の集団を見たことが無い。この中で迷子を出したら、見つけ出すのは容易ではない。
部隊が大きくなるにつれて、騎士達の編成も変えられていく。アルフレドは元々五百人単位の部隊を指揮する騎士隊長であり、近隣の村に散っていた部下たちを統率しなければならない。親しくなった村人の傍にばかりも居られず、出発当日の昼あたりからはすっかりその姿を見かけなくなった。セオドアも本来の役割に戻り、部隊間の伝令に飛び回っている。各地からの合流を遅延なく行うためには先触れを出し的確に合流地点を指示することは重要な任務だ。とはいえ、ウィル達の傍にはいつでも顔見知りの騎士が一人は必ずいてくれた。これは、村人達が騎士に声をかけやすいようにと同じ避難所にいた騎士を数名は村人の近くに配置するように指示がなされていたためだ。彼らが休憩時間を使って杏奈の元を訪れ、ウィル達にも杏奈の様子を知らせてくれたが、その報告は芳しいものではなかった。
心配な気持ちを抱えたまま、毎日ただ歩き続ける。大きな街道に出てからは景色があまり変わらなくなった。背の高い草の茂る草原が続き、遠くに時折林が見える。街道から脇道を辿って行くとそれぞれに小さな集落や村があるらしく、視界がいい場合は小さな家が並ぶ様子を遠目にみることもできた。穏やかな景色だが、ところどころモンスターの襲撃の爪後が残っており、それは人々の疲れた心を更に沈ませた。幼い子供たちもの口数はめっきり減り、ただ黙々と前を見て歩くことで精いっぱいになってしまった。ウィルも小さい子供を背負ってやったり話しかけてやったりして気を散らしながら、なんとか一日の移動を終えることで手いっぱいで杏奈の見舞に人混みを分けて走っていく余力はなかった。
ただ、眠りに就く前に杏奈に教わった歌を皆で歌うことだけは止めずに続けていた。