怖かった
杏奈は気を失った後、そのまま眠りに落ち、そして、夜半には夢を見ていた。夢だと分かっているのに起きられない。曖昧に意識がたゆたう中で、黄色い光がモンスターの目から失われていった瞬間、自分の手で生き物の命を奪ったその感触や噴きあげた体液の臭いが何度も蘇ってきた。もう目を覚ましたいと何度も願い、ようやく本当に目を覚ますことができたときには恐怖で体が強張り、すっかり息も上がっていた。暗闇の中で両目を見開く。気持ちの悪い汗が額を滑り落ちていくのを拭うこともできずに、じっと横たわって呼吸が落ち着くのを待った。ようやく体が動かせるようになり、ゆっくりと上半身を起こそうとするが、左腕の鈍痛は続いていて使えない。頼りの右手も震えてなかなか力が入らず、体を起こすだけで随分苦労した。片手で自分の肩を掻き抱き必死に収めようとするのだが、どうしようもない。目を強く瞑って膝を引き寄せた。
怖かった。暗い森も、不気味な生き物も、自分に向けて振り上げられる剣も。そして目の前で失われていく命も。
先手を取らなければ、自分やミーナが傷つけられていたのだと頭では理解できても、心は全くついて行かない。恐怖が大きな氷の塊になって胸の真ん中に埋まっているように重く、辛い。寝台の上でうずくまり、じっと耐える。朝が来て太陽の光が差してきたら、怖くなくなるような気がして、早く時が経つことだけを願う。
どれくらい時間が経ったのだろうか、静まり返っていた天幕の外を通る人の足音がして聞きなれた声がかけられた。
「起きてるか?」
杏奈ははっと顔を上げた。喉がひどく乾いて声が出ない。慌てて立ちあがって寝台を囲むように引かれていた布を開くと思った通りセオドアが立っていた。急いで駆け寄ったせいで片足に毛布が絡まったままのアンナを見て、少し眉を下げる。
「入ってもいいか?」
杏奈は返事の代わりに震える手を伸ばしてセオドアのマントを掴んだ。セオドアは杏奈の肩を抱いてするりと入り込むと、そのまま杏奈を元の寝台に座らせて肩から毛布をかけ直す。向かいあうように床に膝をついて、杏奈の目を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
セオドアは聞きながら、答えをもう知っていた。泣きだしそうな表情、汗で額や首筋に張り付いた髪、彼のマントを握ったまま離さない震える手。
「大丈夫なはずないよな。」
答えを期待せずにそう言って、マントを握っている手をゆっくりと開かせる。やっと解けた細い指はマントを離すとそのまま今度はセオドアの手を握りしめた。言葉が出ない杏奈の様子にセオドアはそれ以上語らず、手を握り返す。しばらくそうしていると、杏奈の心に凝り固まっていた恐怖の塊が少し小さくなった。
「怖かった。」
やっとの思いで杏奈は呟いた。一度口を開くと、今度は止まらなくなって「怖かった、怖かった。」と繰り返す。二人の間の僅かな隙間にぽたぽたと涙が零れ落ちた。段々と涙声になっていく彼女の呟きを聞きながら、セオドアは握りあっていない方の手を小さな顎にかけてアンナの顔を上げさせると、涙をぬぐってやる。目の前の辛そうな表情のセオドアを目にして、杏奈は反射的に何とか泣きやもうとして泣き笑いを浮かべた。すると、今度はセオドアが泣きそうな表情になった。
「無理に笑うな、馬鹿。泣きたいなら泣け。」
セオドアはアンナの後頭部を掴んで彼女の額を自分の胸に引き寄せた。
「泣いていい。泣いていいから。もう、存分に泣け。」
そういって抱きしめられて、アンナはぼろぼろ泣いた。大きなセオドアの胸はアンナをすっぽりと包みこんでくれる。
「良く頑張ったな。ウィルやあのチビの前では怯えた顔も見せなかったな。」
頭の上から低い声が降ってくる。
「よくやった。偉かった。」
そう言って背中を軽く叩かれるとまた涙がぽとりとこぼれた。
「迎えが間に合わなくて、すまなかった。」
杏奈はセオドアの言葉に額をセオドアの胸につけたまま首を横に振った。
「ちが、ちがう。」
謝ってほしくなどない。勝手に駆けだしたのはこちらで、しかも助けは間にあったのだ。
「怖い思いをさせて、すまなかったな。」
セオドアはそういって何度も杏奈の髪をすくように頭を撫でた。
「セオドアさんの、せいじゃない。」
杏奈が必死に言ったのをセオドアは聞きとれたのか、聞きとれなかったのか、ただ黙って杏奈の頭のてっぺんを見下ろしていた。
そのまま夜明けまでセオドアは杏奈に胸を貸していてくれた。二人とも一睡もしないまま天幕の隙間から薄く朝日が差し込んできて夜が明けてきたことを知る。セオドアは泣きやんだ後もぼんやりと視線を彷徨わせたままだった杏奈を促して天幕の外に出た。
キンと冷えた朝の空気の中で、空が濃紺から紫、白んだ赤、橙へと変化していくのを二人で眺める。
「綺麗。」
杏奈の口から、ようやく言葉が零れ落ちた。夜明けの空は澄んでいて、本当にただただ美しかった。
「そうだな。」
セオドアはそう言いながら、杏奈を持ってきた毛布にくるんで両肩に手を置いた。
「明けない夜は無い。また夜が来たって怖いことは無いんだぞ。」
セオドアが自信をもって語りかける言葉はいつも不思議と杏奈の心にすとんと落ちてくる。杏奈は「明けない夜は無い」と小さく呟いた後は言葉もなく太陽が昇るのを見ていた。日の光を感じてじんわりと頬が温もってくる。杏奈は同時に心の中の恐怖がまた少し溶けて薄らいだ気がした。もちろん、まだ恐ろしいという気持ちはある。けれどセオドアが一晩中温めてくれた。今、朝日も温もりを貸してくれた。そうやって少しずつ恐怖の塊は溶けて小さくなって、だから、昨日よりは少し怖くなくなったような気がする。明日、朝が来ればもっと怖くなくなるだろう。そう思えると心が少し軽くなり、やっと頭もきちんと回るようになってきた。
「そろそろ戻ろう。体を冷やすと良くない。」
日が昇りきる頃に声をかけられて、杏奈は素直にセオドアの言葉に従った。
彼女を寝台に戻すとセオドアはもう出発の支度のために持ち場に戻らなければならないと言う。その言葉に今日から忙しい日々が始まるだろう彼の貴重な睡眠を奪ってしまったのだと思い当った。
「ごめんなさい。」
そう言って杏奈が頭を下げると、セオドアはわざとらしく眉を寄せて腕を組んだ。
「こっちが勝手に押しかけただけだ。お前はちょっと目を離すと泣いていたり、夜の森に駆けこんだり。初めて見たときだって夜中に崖の下に倒れていたし、とても目が離せないからな。」
「ごめんなさい。」
ため息交じりの言葉に、杏奈はもう一度謝った。さらに小さな声で「ありがとうございました。でも、とても、心強かったです。」と付け加えるとセオドアはすぐに腕を解いて顰め面を緩めた。
「それは光栄だ。まあ、お前のせいばかりではないだろうが、本当に無理はしてくれるなよ。」
苦笑い気味の表情で、しかし視線はとても優しくて、杏奈は少し恥ずかしくなる。ここのところ、この人の前では泣いてばかりだ。どうして、自分はこの人にばかり甘えてしまうのだろう。
「さあ、少しでも寝ておけ。」
セオドアは横になった杏奈を満足げにみると、踵を返して出て行ってしまった。相変わらず天幕の中は薄暗いが、一人になっても昨夜ほど恐ろしくは無かった。