渾名名人
ウィルはずっと村の入り口で二人の帰りを待っていた。やがて遠くに松明の灯りが見えるとあっという間に数頭の馬に跨った騎士達が駆け戻ってきた。その中にぐったりした様子でセオドアに抱かれている杏奈をに見つけて駆け寄るが、杏奈は騎士のマントに包まれたまま目を閉じてセオドアに体を預けている。
「アーニャ!大丈夫か、おい。」
大きな声で呼びかけると、杏奈は目を開き、ややぎこちなく微笑んで頷いた。
「大丈夫。」
安心させようと杏奈は咄嗟に笑顔を浮かべたが、左腕の痛みがひどく長く笑顔を保てなかった。駆け寄るウィルを蹴飛ばさないように馬を止めたセオドアは松明の灯りに照らされたウィルの顔をみて驚いた。長い時間を外で立ち尽くしていたウィルの顔色は白く、唇も紫めいた色になってしまっている。むしろ彼の方が具合が悪そうだ。同じことを思ったのだろう。ずっと彼と一緒に村の入り口に立っていた見張りの騎士がウィルに屋内に入るように促した。
「な、大丈夫だって言ったろ?さあ、お前もいい加減にして中に入れ。」
「アンナは?」
杏奈は大丈夫と言ったものの、見るからに顔色が悪い。ウィルが周りの騎士を見回すと、ミーナを抱えていた大柄な騎士が「すぐに医者に見せる。そこを通してくれ。」と脇に避けるように指示してきた。騎士達の面持ちは皆真剣そのものだ。ウィルは自分のために杏奈とミーナを乗せた馬が村の入り口で止まってしまっているのに気がついて、大人しく騎士の言葉に従い数歩下がって道を譲った。横を通り過ぎながら杏奈が「ウィル、ありがとう。」と声をかけた。顔には薄く微笑みが浮かんでいるが、眉が少し寄せられ、脂汗の浮いた様子はやはり無事には見えない。しかし、次に通って行ったミーナはしっかり騎士にしがみついており、怪我などは無さそうだ。ウィルはやはり杏奈が心配でついて行こうとしたが、杏奈を迎えに行っていた顔なじみの騎士にも家に戻っておくようにと強く指示されてしまった。
「家に子供たちを待たしているんだろう?アーニャには明日会いに行ってやれ。どうせ今日は、医者以外は何もできない。」
ウィルは納得いかなかったが、家に小さな子供たちだけを置いておくわけにはいかないのも確かだ。やむを得ず、しぶしぶ家に戻ることにした。何度も振り返りながら去っていく。その後ろ姿を見たセオドアが、村の入り口付近にいた同僚に声をかけてウィルのところに暖をとれるものを差し入れてやってほしいと頼むと、同僚は「任せておけ」と快く引き受けてくれた。
「ありがとう、ございます。」
それが聞こえた杏奈が小さい声でセオドアに礼を言う。セオドアは振り返ろうとした彼女の頭を軽く押して姿勢を元に戻させた。
「いいから、今はまず自分の心配をしろ。」
傷自体はそれほど深く無さそうだが、モンスターに負わされた傷は小さいものでも後を引く。とにかく早く医者に見せねばならない。セオドアは改めて拍車をかけると、早足で馬を進めて軍医の天幕を目指した。
杏奈は馬に乗せられたとき同様にセオドアに抱えられて馬から下り、そのまま横抱きにされて軍医の天幕へ連れて行かれた。
軍医はがっちりとした体格の男だった。蓄えた髭と頭髪には白髪が混じっている。セオドアは寝台に杏奈を下ろすと、軍医に事情を手短に説明して天幕を退出した。杏奈はセオドアが去ってしまうことに心細さを感じたが、声をかける力もなくただ目で見送った。
「お嬢さん、怖い思いをしたね。私は医者のディズレーリだ。君たちが出会ったモンスターのあの黒い剣には悪い毒がある。小さな擦り傷でも熱が続いたりして、とても危険だ。これはモンスターによる傷だね?」
問いかけられて杏奈はただ頷いた。無我夢中だったときは切りつけられても大して痛いとも思わなかった左の上腕が、今はひどく痛む。止血のためにときつく肩口を縛られているのでかなり感覚は麻痺してしまっているのだがそれでも鼓動に合わせてズクズクと痛んだ。
「では、消毒と手当を。痛むが我慢するんだよ。」
そういうと軍医は小刀を取り出してさっさと杏奈の服の袖を切り取ってしまった。袖を外す瞬間、思わず傷口を見てしまったことを激しく後悔して杏奈は顔を逸らした。控えていた女性の騎士が杏奈の横に回って来て頭と肩を抱きしめるようにしてくれる。安心させようとしてくれているのか、というぼんやりとした思考はすぐに間違いだと分かった。彼女は消毒と縫合の痛みに暴れないように患者を抑えつける係りだ。口元に当てられた布から何かの匂いがするので麻酔も使用しているのかもしれないが、それは気休め程度でしかない。杏奈は差し出された布をぐっと噛みしめて痛みに耐えた。今の方が切りつけられた時よりも遥かに辛い。
治療にどれほどの時間がかかったのか杏奈には分からない。汗だくになって寝台に横たえられたときにはすっかり疲れきっていた。
「幸い、傷自体は深くない。毒消しさえ上手くいけばすぐに良くなる。今はとにかく安静にしていなさい。」
軍医はそういうと、何事か女性騎士に指示していたが極度の緊張と治療の激痛から解放された杏奈はあっという間に意識を手放してしまった。
セオドアは軍医に目線だけで追い出された後、天幕の外で処置が終るのを待っていた。唸る声とくぐもった悲鳴のようなものがしばらく続いたが、やがて静かになった。じっと天幕に背を向けて燃える松明を見つめていると、天幕をくぐって軍医が出てきた。
「なんだ、まだいたのか。」
「彼女は?」
軍医の半分呆れたような呼びかけの語尾にかぶせるようにセオドアが聞き返した。
「傷はちょーっと長いが、幸いにも浅い。傷自体はどうってことない、若いしな。ただ、毒の回りが早いのが気になるな。今は疲れ切って寝入ってしまっているから、今日はこのまま、こっちで様子をみる。」
概ね予想と変わらない返事に安心と失望が同時に湧いた。
「ところでお前さん、あの子は村に残る子か知ってるか?」
「いや、明日の朝の出発に合わせて王都まで行く予定でした。」
セオドアの答えに、軍医は骨ばった顎に手をやった。
「ふむ。あの子、親御さんと一緒に行くのか?」
「いえ、親はおりません。」
「じゃあ、王都あたりで孤児院に入る予定だったのか。」
軍医の半ば納得したような独り言にセオドアが口を挟んだ。
「いや、王都で働き始める予定です。もう18歳ですので。」
「へえ、随分と童顔なんだな。」
軍医は杏奈の顔など見えもしないのに、確認するように天幕を一瞬振り返った。そして真顔で振り返って続ける。
「で、王都までか。私がずっと同行できるからまあ、好都合といえば好都合なんだが。若くて体力があるとはいえ長い移動は体に応えるからな。」
「しかし、村には医者が居ません。」
セオドアは軍医の質問に先回りして答えた。杏奈を傷が癒えるまで村に置いて行くという選択肢は無かった。
「そうか。」
軍医はもう一度顎を撫でた。
「まあ、幸い怪我人用の馬車にはまだ余裕がある。可哀相だが連れて行くしかあるまいな。」
「よろしくお願いします。」
セオドアが礼をとると軍医は少し面白そうに唇の端を上げた。
「一方ならぬ思い入れだな。珍しいじゃないか。クールでならす疾風のセオドアが。」
セオドアは一気に表情を崩して嫌そうに軍医を睨んだ。
「何度も言ってますが、誰も使っていない変な渾名を作るのは止めて下さい。」
「何を言うか。疾風のセオドアはなかなかの傑作だぞ。聞いたものは皆納得する。」
軍医の悪癖である渾名づけは今に始まったことではない。彼にかかれば師団長は「漆黒の貴公子アンドリュー」となり、アルフレドは「口ひげの悪ガキ」になる。
セオドアはこれ以上付き合っていても仕方がないので早々に諦めた。
「彼女の顔を見に行っても?」
「構わんよ、奥はお嬢さんの貸し切りだ。」
軍医は天幕の入り口を少し開いて大きく二つのスペースに区切られている天幕の奥を示した。手前の処置用の空間には軍医を補佐する女性騎士が残っていたが、杏奈は既におらず、手術後の患者を休ませるための寝台に移されたようだった。セオドアはそのまま寝台を取り囲む布をすり抜けて杏奈の枕元へ進んだ。苦しげな表情のまま目を閉じている姿は痛々しいが、呼吸は整っていることに少し安堵する。汗で首周りに張り付いた長い髪を払ってやる以外、セオドアにはできることもなかった。セオドアは、ただ静かにしばらく杏奈のことを見守っていた。
(やっと教会の外に出られたと思ったら、すぐこんな大怪我を。どうして、すぐ命の危機に陥るんだ。)