師団長
夕暮れが迫る頃に、第三師団の本隊が村に到着した。杏奈達はこれまで教会の守りについていた三十人程度の騎士達は見慣れていたが、本隊の規模はその比ではなく数百は下らないだろうと思われた。村人は知らないことだが、本隊からこの一帯の村に一斉に迎えを出しているので、実際に全員が揃えば二千人を超える部隊となる。
先頭にいた師団長のアンドリューはこの村一帯を預けていたアルフレドを見つけると、馬を下りて労いの言葉をかけた。
「アルフレド、長い間ご苦労でした。一人も犠牲を増やさなかったと聞いています。」
アルフレドは礼をとってから年若い上官に笑顔を向けた。アンドリュー・フォード第三師団長はアルフレドより幾分か若年ながら王からも、部下からも信頼の厚い優秀な指揮官だ。個人の剣技はもちろん、状況判断力、統率力にも優れている。更には艶やかな黒い髪に黒曜石のような瞳をした美丈夫でもある。家柄、実績、美貌いずれも申し分なく王都中の若い娘たちの憧れの的なのだが、30歳を迎えても結婚どころか浮いた噂もろくに聞かない。別に性格に目立った問題があると言う訳ではなく、専ら仕事一筋の男なのである。アルフレドにとっては可愛い後輩であり、頼りになる上司でもある。
「はい、我々にはアウライールの守りがありましたので。」
決して信心深いタイプではないアルフレドの言葉にアンドリューは不思議そうな顔をしただけだったが、背後にいた本隊の騎士達からざわめきが漏れた。この村に「アウライールの聖女」と呼ばれる少女がいるという噂は既に本隊まで届いていたらしい。
「なんと、アウライールの聖女の噂は真であったのか。我々にも紹介しれくれんか、アルフレド。」
他の騎士の期待を込めた眼差しと呼び掛けにアルフレドは、苦笑いして首を横に振った。
「申し訳ないが、実際にはまだ年若いただの娘です。何も方々に隠し立てするわけではないのですが、聖女というのも我々が勝手に言っていること。立派な騎士達が揃い踏みで会いに行けば怯えてしまうでしょうから、紹介はご容赦願えませんかな。」
その返事に落胆の声があがるが、アンドリューは気にせずにアルフレドを含む主だった部下を伴って出発の支度の指示に移った。明日の朝には近隣の村から引き上げる騎士達と合流して王都への移動が始まる。今晩中に隊を合流した部隊と合わせて編成し直し、必要な物資を振り分けなければならない。村の広場に仮に立てた天幕に入り、人数の確認や道程の検討を行う。大まかな計画は既に書簡で伝達済みなので、計画自体は微修正のみだが小隊の数が多い。それなりの量の仕事になった。
騎士達は淡々と作業を進める。後は書類の確認だけになったところで不意にアンドリューがアルフレドに声をかけた。
「アウライールの聖女というのは、何のことです?」
「おや、珍しい。噂話に興味が湧くなんて。」
アルフレドは書類からチラリと視線を上げて答えたが、アンドリューの視線は書類の数字を追っている。
「噂話ではなくて、貴方に興味が湧いたんですよ。神の加護など信じるタイプじゃないでしょう。その貴方がアウライールの守りとは。」
耳はしっかりアルフレドの方に向いているようだ。アルフレドは満足して視線を書類に戻す。
「ふふ。そうですか。まあ、仰る通りですけどね。一人、どこかから紛れこんできた少女がいましてね。記憶もないし、村に知り合いもいないと言う不思議な子なんですよ。まあ、彼女のおかげで避難生活が非常に過ごしやすく穏やかになった。それで我々は聖女と勝手に崇め奉ったわけです。別に特別な魔法を使われたわけではないのですけれどね。」
「では、何をしたと?」
「子供の世話をして、病人の世話をして、掃除をして、歌を歌って。そんなことですよ。」
「ほう。」
アンドリューは興味を引かれた様に、顔を上げた。
「それだけのことですか。」
「それだけのことですよ。でもね、それだけのことが人の気持ちを随分とやわらげるんですよ。避難所の敵は外敵と言うより、内側からの不満の爆発ですからね。皆が穏やかに暮らしてくれたらこんなに楽なのかと、目から鱗が落ちましたよ。」
「一理ありますね。」
アンドリューが重々しく頷くのをみて、アルフレドはにこりと笑顔を浮かべた。
「それに、何と言っても心根が優しい。優しすぎるくらいです。柄にもなく聖女と呼びたくもなります。」
アンドリューはアルフレドの真意を推し量るようにその目を見つめて、本気を感じると感嘆のため息をついた。
「私からしてみれば、貴方に聖女とまで呼ばれる女性が実在することが既に奇跡ですね。お会いしたいものだ。」
「なんだか含みがありますね、師団長?」
「そんなことありませんよ、貴方の人物批評が辛口だと言うことは誰も隠し立てしないことでしょう。」
アンドリューは書類を整えて、控えていた騎士に手渡すと含み笑いを浮かべて部下を振り返った。
「ふん、私は辛口な訳ではないですよ。正直なんです。」
アンドリューに少し遅れてアルフレドも書類を捌き終えると二人は天幕を出た。村の入り口からその外の草原に集合している騎士隊の編成の指示を出していく。
部隊の端に積み上げられた糧食に近づいて担当者と話をしていると石垣の向こう側、村の中から大きな声が聞こえてきた。
「待って、ダメよ!ミーナ!」
切羽詰まった声に思わずそちらに目をやると、少し奥の石垣から4、5歳の少女が飛び出してきた。そんなところには門はなかったはずだがどうやって飛び出してきたのだろうか。驚いている間に子供は脇目を振らず草原を走り去っていく。次に金髪の女性が石垣をよじ登って飛び降り、子供の後を追うのを見てアルフレドとアンドリューは一斉に走り出した。彼らが走っていく方には森があり、時刻は夕暮れだ。このまま森につっこまれて迷子にでもなられたら助けられないかもしれない。糧食担当に向かって後は書類を読んでやっておけと叫んで一度振り返ったアルフレドは、その向こうに見慣れた顔を発見して思わず名前を呼んだ。
「セオドア!来い!」
セオドアは上司の声を聞いて反射的に駆けだした。セオドアの騎士として優れているところの一つは馬の扱いが上手いこと、もう一つは足が速いことだ。両方合わせてとにかく移動が速いのでよく早馬担当に指名される。とにかくセオドアは草原の中をまっすぐに突っ切りアンドリューとアルフレドに追い付いた。
「相変わらず、速いな。」
ちらりと振り返ってアンドリューが声をかける。
「村から子供と女が一人飛び出した。」
そういう彼の視線の先にはセオドアにとっては非常に見覚えのある長い金髪が見えた。言われなくても子供を追って杏奈が走っていることは想像がつく。3人が追いつく前に金髪と白いスカートが翻り、草原の脇の茂みに消えて行った。
「すぐに連れ戻すぞ。セオドアはついてきてくれ。アルフレドは戻って知らせを頼む。」
「はっ。」
アンドリューは返事を聞くとすぐに、白いスカートが翻ったあたりの茂みに踏み込んだ。セオドアがすぐに後に続き、アルフレドは踵を返して騎士達の集まっている村へと走った。もうすぐ完全に日が落ちる。剣豪の誉れ高いアンドリューと逃げ足も速いセオドアならばたいした心配はいらない。しかし、子供たちを追って長く森の中を彷徨うようなことがあれば、二人であっても危険だと思えた。早く増援を出した方が良い。さらに師団長が突っ走ってしまったので、本来アンドリューがするはずだった今日の仕事の代行の連絡も必要だ。
茂みには人が一人通るのがやっとのような獣道が続いていた。足早に奥へと進んで行くと、途中の枝に白い布が引っかかってちぎれたものが目に入った。そう古いものではない。少なくとも先ほどの女性がこの道をいったのだと考えて間違いないようだとアンドリューは益々脚を早めた。段々と夕陽が届かなくなり、薄闇に包まれてもアンドリューはスピードを緩めずに林の中を駆けて行く。セオドアも無言で従った。いくら数が減っているとはいえ夜が来れば森の中にモンスターが出てくる可能性が高い。子供と、それを追っていった杏奈を早く連れ戻さなければ二人は二度と村へ戻れなくなるかもしれない。モンスターが本格的に動き出すまで残された時間は決して長くは無い。
二人の息が上がり始めたころに、子供の大きな悲鳴が聞こえた。そして悲鳴は数秒後にぷっつりと唐突に止まった。悲鳴が止まることの意味する中で、一番悪い意味がアンドリューとセオドアの頭をよぎったが、二人はとにかく声のした方へ無言のまま全速力で駆けだした。