縋る瞳
アーニャの決断は、ウィルとアルフレドを立会人としてオルソンに伝えられた。オルソンが村の男達にその話をしたのは、彼が話を聞いた翌日の日中の村での帰還準備作業の合間だった。
夕方になって、村から帰ってきた男達はいつものように中庭の脇を通って礼拝堂に戻ろうとした。そのうちの一人が急に中庭に向かって駆けだして行く。背中の曲がった痩せ形の男。キージだ。中庭には、やはり、いつものようにアーニャとウィル、そして子供たちがいた。
転んだ子供の手を払ってやっていたアーニャは後ろから思い切り腕を引っ張られて、引きずられるように立ち上がった。
「おい、お前!」
痩せ男は目を大きく見開いて、怒りに震えていた。
急に大きな声で怒鳴られたアーニャは驚いて、ただ男を見つめ返すばかりだ。
「引き取ってやるって言っているのに、何で来ないんだ。何が不満なんだ。うちは殆ど壊れてない。ヤクだってまだ3頭生きてる。春になれば畑だってまた始められる。種も少し見つかったんだ。」
男は一方的に喚き立てる。ウィルが飛んできてアーニャを掴んでいる腕を払った。
「キージ!」
厳しく怒鳴りつけるが、男は止まらない。礼拝堂の傍にいた村の人々も何事かと集まってきた。
「うるせえ!ウィル坊、お前が余計なこと言ったんだろう、え?言っただろうが、大事な女手なんだ。来てもらわなきゃ、困るんだよ。」
唾を飛ばしながらキージはウィルに迫る。ウィルはアーニャを背中に庇って立ちふさがった。
「やめろ、キージ。やめてくれ。」
体格だけみればウィルの方が大きい。キージを見下ろして落ち着かせようと肩に手をかけると、乱暴に振り払われた。男はウィルの脇から首を伸ばして、なんとかアーニャを視界に収める。怯えた彼女の様子に、今度は猫なで声になる。
「なあ、頼む。村の将来がかかってんだよ。お前なら、助けになるんだ。飯もいっぱい食わせてやるから。」
またアーニャに腕を伸ばすキージをウィルがなんとか止めていると、人垣を掻きわけてオルソンがやってきた。
「おい、何やってやがんだ!キージ、やめねえか。みっともねえ!」
最後に教会へ引き上げてから、騎士達と打ち合わせをしていたオルソンは騒ぎに気づくのが遅れた。村の若い連中が呼びにきて慌てて来てみれば、キージが尋常ではない様子でアーニャに迫っていたのだ。オルソンの声にも振り返らない様子に舌打ちをすると強引に羽交い締めにしてキージを釣り上げた。
「いてえな!離せよ、オルソン!」
「キージ、止めろ。その話はもう終わりだ。」
「なんだよ、綺麗事いいやがって。うちの村にはこの娘が必要だろう?なあ、あんた、頼むよ。」
オルソンに釣上げられ、両足が浮いてしまったまま、キージは必死にアーニャに呼びかける。
「あんたが、必要なんだよ。助けてくれよう。」
アーニャは、ただ茫然とキージを目で追っていた。ウィルと心配して飛び出してきた数人の村の女たちが彼女をキージから遠ざけようとするが、アーニャは人形のようにぎこちなかった。
(あの目、知ってる。)
アーニャの頭のどこかに、あの縋るような瞳の記憶がある。いつか、見たことがある。お前だけだ。皆のためだ。助けてくれ。そう言われた記憶がある。アーニャは声にならない呟きをもらした。ほんの僅かに口元が動いただけの、その呟きを聞き取ったものは誰もいなかった。
「おとうさん。」