涙のあと
その晩の夜明け前にアルフレドはそっと礼拝堂を覗きこんだ。寄り添うように眠っている少年と少女の姿を見ると、またそっとその場を去る。
いつぞや、甥に少女を王都へ連れて行ってはどうかと勧めたときは可愛い甥をからかうのが主な目的だったが、彼女の為になるだろうと思ったのもまた真実だ。鄙には稀な美少女である。守るものもないまま、しばらくは困窮するであろうこの地域に置いていけば心ない者達によって身売りにでも出されかねない。
しかし、あの様子をみると少年から引き離すことは二人にとって良くないのではないかという思いも沸いてくる。子供達と、そしてあの少年にとって彼女の存在は大きいだろう。これから新しい環境で踏ん張っていかなければならない子供たちから、少女を引き離していいものか。
「ふむ。悩ましいことだ。」
もっしりと豊かな口ひげを振るわせてアルフレドはひとり呟く。しかし、彼にも良く分かっている。助言や手助けはできても最終的に決めるのは彼ら自身だ。少なくとも今夜アルフレドにできることは、納得のいく結論にたどり着いてくれることを願うことくらいだった。
アーニャは周りがざわめき始める気配で、いつものように目を覚ました。ここのところ朝晩冷え込んできていたのだが、今日は随分暖かい。そう思ってゆっくり目を開けると、目の前に男性の喉があった。身じろぐと体に巻きついている腕を感じる。彼女はそれでやっと自分の置かれている状況を理解した。
緩やかに抱きこまれている。
首を上げて、顔を覗きこむと予想通り彼女を抱き寄せているのはウィルだった。眉を軽く寄せたまま、まだ眠りから覚めていないようだ。アーニャは眠りから覚めきらない頭で、ぼんやりと彼の顔を眺めた。長い黒いまつげが影を落とす目元が赤くほんのり腫れている。
泣いたのだろうか、一人で。
昨夜、彼が深く何か考え込んでいるのは分かっていたのだが、自分から口を開くまで待とうと思っている間に寝てしまったのだ。一人で泣かせてしまったことに、後悔が押し寄せた。
そっと手を伸ばして頬にふれるとウィルが唸った。その声にはっとして手を引く。この状態でウィルが目を覚ますのは、何か色々問題があるような気がする。そもそも、なんでこんな体勢なのかという疑問がようやく湧いてきた。急に心臓を打つ早さが早くなる。
(な、な、な、なんで!いや、でも、たしか隣で座ったまま寝ちゃったし、そのまま寝転がっただけだよね?ウィルはきっと近くにいた人を湯たんぽ代わりにしただけ。うん、何にもないはず。)
アーニャは必死に、しかしこっそりと彼の腕から抜けだした。熱い頬を持てあましながら、まだ寝ているウィルを睨みつける。
(寒いならもっと小さい子を抱き締めればいいじゃない!)
手の中の温もりがなくなったせいか、より眉間の皺を深めているウィルの寝顔を見ていると、やはり視線はうっすらと腫れたまぶたに引き寄せられる。すぐに怒りも動揺も静まっていった。
将来が不安で泣いたのか、子供扱いが歯がゆかったのか。
彼に相談してもらえなかったことは寂しいけれど、自分では頼りないだろうとも思う。何せ、教会の外のことは何も分からないのだから。教会でできた初めての友人であり、一番近くにいてくれる人なのに力になれない。不甲斐ない、記憶が戻れば少しは役に立てるかもしれないのに。これまで急ぐ必要はないと、真剣に自分の記憶に向きあって来なかったことを初めて反省した。
「ごめんね、ウィル。一人で悩ませて。」
そう口に出すと、彼の寄せたままの眉を戻すように手を伸ばす。
そっと触れると、今度はウィルが目を覚ました。ぼうっとした瞳で彼女の方を見上げていたが、段々と意識がはっきりしてきたのか、徐々に表情が険しくなって体を起こした。
「どうした。泣きそうな顔して。」
寝起きのかすれ声でそう聞かれて、アーニャは首を横に振った。「泣いたのはそっちのほうでしょう」と心の中だけで言い返す。彼はきっとそれを指摘されたくないだろう。
「何でもないよ。おはよう。」
半分泣き笑いのような顔でそれだけ返すと、ウィルは非常に不満そうな顔になったが、笑顔のままのアーニャに根負けして目を逸らすと「おはよ」と返事をした。
「さあ、顔を洗いに行きましょう!冷たい水で洗ったらしゃっきりするわ。」
アーニャはそう宣言すると、ウィルの手を引いて立ち上がらせた。更に寝ている子供たちも次々に叩き起こして、いつものように賑やかに顔を洗い、歯を磨かせる。
アーニャもウィルも昨夜のことには触れなかったが、目が合えばお互いに昨日までとは違う思いがあるのを感じていた。