夏の一日
教会に村が丸ごと引っ越してきたのは、花のほころび始めた春のはじめの頃だった。花の季節がすっかり終わり教会を囲む山の緑が濃くなる頃になって、男達はようやく騎士と共に村に降りて瓦礫の片付けや、村への帰還の準備を始められるようになった。それでも、まだ村に帰っていいのは16歳以上の健康な男性だけ。日中、子供と女達だけになった教会は静かになったが、寂しさよりも村への帰還が近づいてきたという実感が勝り、穏やかな時間が訪れていた。
もちろん村に降りることが許されないアーニャと子供たちは相変わらず、多くの時間を中庭で過ごしていた。以前は頻繁に喧嘩や癇癪を起こしていた子供たちも環境になれ、さらには周りの大人たちの明るくなった気持ちが分かるのか、ここのところは特に機嫌が良かった。
ウィルとアーニャは子供たちを遊ばせながら、中庭の縁にある大きな木の下に座っていた。山の中腹にある教会は日差しが強くなっても暑過ぎるということはない。心地よい風が通る木陰で、このところアーニャはウィルに文字を教わっている。村に戻った男の一人が気を利かせて絵本を家から持ってきてくれたのだが、いざ読み聞かせようとして、アーニャが文字を読めないことが分かったのだ。絵本を前に途方にくれるアーニャに、ウィルが先生役を買って出て文字を教えることにした。そうして二人で勉強を始めると、セオドアが掃除の手伝いをしてくれて以来ウィルに付きまとっていた原因の分からない苛立ちは薄れ、ウィルにも明るさが戻ってきた。
「これは?」
ウィルが小さな紙片に書いた文字を示す。アーニャはその短い単語に見覚えがあると思い返す。
「お父さん。」
「よし。正解。じゃあ、これは?」
次の紙には少し長い文字が書いてある。
「おじいさん?」
「勘で答えただろ。不正解。食べる、だよ。」
「あー、そっか。」
元々は地面に文字を書いてやっていたのだが、様子を見た騎士の一人が紙とペンをこっそり差し入れてくれた。小さく切り分けて一つ一つに単語を書いたのはウィルだ。紙がいくらでもあれば書き取りの練習もしたいところだが、ここでは紙も貴重品だから、地面に書くか、あるいは見て覚えるしかない。
一通り答えていくが、まだアーニャの正答率は半分にも満たない。ウィルは根気強く付き合ってくれていた。
「ごめん。なかなか覚えられなくて。」
謝ると、ウィルは大げさにため息をついてみせた。
「本当にできの悪い。」
そう言ってから、にっこり笑う。
「でも、いい勉強だよ。俺にとっても。」
「勉強?」
ウィルは少し苦い表情で頷いた。
「こんなことにならなかったら、教師になろうと思ってたんだ。来春から学校へ行って物を教える勉強をしてさ。」
「まあ、こうなったら先のことは分からないけど」という寂しげな笑顔を浮かべるウィルに、アーニャは大きく頭を振った。
「諦めない方がいいよ。ウィル、絶対いい先生になれるもん。辛抱強いし、優しいし。それに説明も上手だよ。」
勢い込んで説得すると、すこし照れて、しかし今度は憂いのない笑顔で笑った。
「ありがとう。」
ウィルは照れ隠しか紙片をいつもより乱暴に混ぜて、また一から再開する。
「はい、じゃあもう一回。」
彼が小さな袋の中から紙片を取り出したときに強い風が吹き抜けた。白い紙が一ひら風に舞う。慌てて二人とも膝立ちになって手を伸ばし、ぎりぎりウィルの指が届いて飛んで行きそうになった紙を捕まえた。一方、勢い余ったアーニャはバランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。
「あいたー。」
「大丈夫か?」
ウィルが腕を引いて体を起こすのを手伝いながら声をかけると、アーニャは笑って頷いた。
「平気、平気。ああ、びっくりしたね。」
本当に怪我もない様子にウィルは安心し、最近はミーナとおそろいのお下げにしている金髪にひっかかった葉を払ってやる。片手に掴んだままの紙片の単語が目に入った。ウィルは大きな笑顔を浮かべて問いかけた。
「今飛びそうになった言葉は、なんだったか分かるか?」
そう言って慌てて掴んだので皺になってしまった紙を見せる。まだ、アーニャが覚えていない言葉だった。
「なあに?」
「いたずら。」
ウィルがそう言うと、二人は見つめあってすぐに吹きだしてしまった。
「まさにいたずらっ子だったよね。私、『いたずら』はもう忘れないわ。」
二人はしばらく声を上げて笑いあった。
日々が穏やかに優しく過ぎていく。緑の美しい特別な夏だった。