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愛していると言えば、嘘になる  作者: 青砥緑
試されるとき
152/160

ゆっくりと

 男が跪いて女性の手に口づける。それはセオドアの言った通り、相手に生涯を捧げるという意味がある。一般的に求婚と同じ意味があり、口づけを黙って受けた時点で女性は求婚を受けたとみなされる。つまり、二人は慣習上は立派な婚約者になったわけである。だからと言って何かを変えなければならないということはない。もともと親戚同士という扱いだったこともあって互いの家を訪れるのも珍しいことではなかったし、互いの家族ももう知っている。


(とはいえ、これで挨拶に行かなければ生涯なんと罵られるか。)


 翌朝、杏奈を迎えに行ったところで、尋ねてもいないのに執事にアルフレドの在宅する日時を教えられたセオドアはヴァルター家の面々が期待に胸を膨らませて自分が正式に婚約の報告に行くのを待っているのをひしひしと感じた。そうなると、自分の親を放っておくわけにもいかない。アデリーンが知っている以上、遠くない未来に父や弟の耳にも入る話であることだし、いずれの父親にも話は通しておかねばなるまい。


(でも何よりもその前に。)


 どう考えてもまずは杏奈と話をすべきだ。生涯を捧げようという意思に変わりはないが、彼女に言葉に出して何も説明していない。昨夜はその後二人で落ち着いて話せる雰囲気ではなくなってしまったのだ。良く眠れなかったのか、少し腫れぼったいような目をして馬に揺られていた杏奈を思い返すと、彼女が自分の行動をどう理解したのか不安でもある。こういうことは間を開けると、余計な雑音が入って面倒なことになる。早く手を打っておくに越したことはないと、その日のうちに杏奈と話しをすることにした。



 夕方、セオドアが馬を連れて待っていると杏奈が小走りにやってきた。走らないで良いと何度言っても走って来てしまうのは直らない。そのまま彼女を連れて、予告通りヴァルター家ではなく王都の中にある小さな庭園に向かった。夏の長い日を楽しむように親子連れや恋人達が思い思いに芝に腰を下ろしたり、噴水の水しぶきを眺めたりしている。二人も露店で飲み物を買いこんで噴水の縁に腰を下ろした。


 ほんのわずかの間、どちらから話し出すか二人は様子を窺うように口を噤んでいた。先に我慢できなくなったのは杏奈の方だった。昨日から頭がおかしくなりそうなくらいずっと考えていることが、自然と口から滑りです。

「セオドアさん。あの、昨日のあれは?」

 セオドアはその問いを予想していたのだろう「早速きたか」と笑った。

「言葉通りだ。」

「言葉通り?」

「生涯、俺はお前のものだということだ。アンナが愛想を尽かさなければの話だが。」

 杏奈は心臓が爆発するかと思った。


(どうしてそういうことを、真顔でさらっと言ってしまうんですか。セオドアさん。)


 杏奈が震える声で「本気ですか?」と問い返すとセオドアは笑って頷いた。

「急すぎませんか。」

「急?」

 セオドアは不思議そうに問い返す。彼にとって想いを自覚してから半年。彼女と知り合ってから一年以上。そういう意味ではちっとも急だとは思っていない。

「だって、つ、付き合うみたいになってからまだ一カ月も経ってないじゃないですか。」

「ああ、そこから数えるとそうなるな。なるほど。急だ。」

 おっとりと頷くセオドアに杏奈は、この人は全然分かってないようだと危機感を募らせた。彼は自分のことを大事にしてくれているし、優しい。それが分かっていてもなお急すぎる関係の変化に心がついていけない。もっとゆっくり二人の時間を重ねたいというのは許されない甘えなのだろうか。常に危険と隣り合わせの騎士と付き合う心構えが足りていないのだろうか。

「不安?」

 図星だったようで、杏奈は押し黙ったまま視線を逸らせた。

「話してくれ。何が心配なのか。」

 セオドアが促すと彼女は迷ったようにしばらく視線を彷徨わせてから、彼を見上げた。

「セオドアさん。危ない目にあったから、色んな事を急いだりしてませんか。急ぎ過ぎているように思えて。私、頭がついていかなくて。」

 セオドアに問いかけながら杏奈は自分が辛そうに顔をしかめる。大丈夫だと言ってほしいだけの我儘かもしれないと分かっているのに杏奈は不安を吐きだすことを止められなかった。黙って話しを聞いたセオドアは表情を変えずに指を三本立てて見せた。

「三つ間違えているな。」

「三つ?」

「話してないから、仕方ないんだが。」

 そう前置きして、セオドアは続けた。

「まず、危ない目に会ったから生き急いでいるということはない。危険な仕事なのは十年も前から分かっている。今さら人生観が変わる程のことはない。それから、急だと言うのも知り合ってから数えたら一年だ。王都にきてから半年。それほど急なつもりはないぞ。」

 そこでセオドアは一度言葉を切った。杏奈は知り合ってから一年という言葉に村の教会での日々を思い出した。当時の関係性は違ったが、それでセオドアや杏奈の人となりが変わってしまう訳ではない。


(そうか。一年経っているんだ。)


 杏奈はすとんと、急じゃないと言ったセオドアの言葉が腑に落ちた。恋人かどうか、二人の関係に拘って大事なことを見失っていたと気がついた。恋人になったからと言ってこれまでの一年がなくなるわけではない。その間に積み重ねたセオドアへの信頼も、二人の間にゆっくりと育った想いも。

「それからもう一つ。確かに生涯をかける覚悟はあるが、結婚は急がないで良いと思っている。お互いに納得のいくときにすればいい。」

 続けられたセオドアの言葉は意外で、杏奈は目を瞬かせた。

「本当はこれを誤解していそうだと思ったから、今日話したかったんだ。」

 杏奈の反応が予想通りだったことに苦笑しながらセオドアは続ける。

「気持ちは変わらないから名前は恋人でも婚約者でも何でも構わない。昨日のあれは、ただ俺もアンナと同じくらい真剣にお前を想っていると言いたくてしたことだから。」

 杏奈はセオドアの言葉に拍子抜けしてしまった。


(結婚はまだしない?)


 そして昨夜からずっと心を占めていた「結婚するなんてどうしよう」という焦りが姿を消すと一気にやり場のない苛立ちが湧きあがってきた。その正体も掴めないまま杏奈は低い声でセオドアの名前を呼んだ。

「セオドアさん。」

 そしてじっとりとセオドアを見上げて言う。

「紛らわしいです。」

 赤い顔をして睨まれても怖くはないが、拗ねたような可愛い口ぶりでなんだかひどいことを言われた気がする。セオドアは聞き返した。

「紛らわしい?」

「紛らわしいです。そんなの絶対すぐ結婚しようって意味だと思いますよ。私、昨日眠れないくらい悩んだんですよ。私どこに住むんだろうとか。仕事はどうしたらいいんだろうとか。結婚までにやらなきゃいけないことは何があるんだろうとか。もしセオドアさんが男爵様になったら私なんて孤児なのにそれでもいいのかとか。おうちのことをおかあさんみたいに何もかも取り仕切ってしっかりやれるかとか。」

 言いながら涙を浮かべ始めた杏奈にセオドアは慌てた。けれど、同時に途切れ途切れに彼女が話してくれる言葉に嬉しくなってしまう気持ちが止められずに口元がどうしても笑顔の形になってしまう。


(真剣に考えてくれたんだな。答えようとして。)


 杏奈の言葉には結婚しない選択肢は一つもなかった。最初から結婚する前提で一生懸命考えてくれたのだ。振りまわしておいて申し訳ないとは思うが、これが嬉しくない男がいるだろうか。ほっとして八つ当たりしてくることさえ、やっと我儘を言ってくれるようになったかと愛おしい。

「うん。俺が悪かった。急がないから。アンナが安心して嫁いで来られるようになったら結婚しよう。な。」

 宥めるように言い聞かせると、アンナはぽろぽろと涙をこぼして頷いた。


「八つ当たりしてごめんなさい。」

 落ち着いてきてから杏奈は恥ずかしそうに謝った。すっかり温くなってしまったお茶のコップを所在なさそうにいじりまわしている。

「いや、あれは確かに俺が言葉足らずだった。」

「すごく嬉しかったんです。でも不安になっちゃって。だから、もう少しだけ時間をください。」

 もちろんセオドアに求婚されたのだと思ったとき、不安より何より最初に嬉しかったのだ。時間が経って色々なことを考え始めたら不安になってしまっただけで、断るなんてこと思いつきもしなかった。先ほどの八つ当たりは、実は自分が先走っていたのだと分かった恥ずかしさからの無意識の照れ隠しでもあった。

「俺の残りの人生はお前のものだからな。好きなだけ使うと良い。」

 ゆっくりと頷きながらセオドアが目を和ませてそう言うと、杏奈は座ったまま思わず後ずさりして抗議した。

「ちょっと、もう。そういうことさらっと言わないでください。」

 いつか言ってやろうと思っていたのだ。セオドアは何気なく危険な発言が多過ぎる。いちいち胸が痛くなるほどときめかされる方の身にもなってほしい。

「そういうこと?」

 無自覚な男は首をかしげている。杏奈は対策を考えなければいけない、と思いながらも変なところが素直だなとおかしくなってしまった。そうして杏奈がくすくす笑っていると、安心したのかセオドアもつられて微笑んだ。そろそろ帰ろうと先に立ちあがったセオドアは杏奈に手を差し出しながら言う。

「今みたいに、不安なことはなんでも話してくれ。傍にいられるときくらいはお前にいらない我慢をさせたくない。」

「はい。」

 差し出された手を見て杏奈の不安はずっと軽くなった。


(二人の速度でやっていけば、いいんだよね。)


 杏奈はセオドアの手をとってにっこりと頷いた。




「家のことや仕事のことは、これから二人で考えたらいい。家族だって手を貸してくれるだろう。」

 帰りの馬上でセオドアはそういいながら、今朝の執事の様子を思い出して続けた。

「ただ、周りは相当期待しているみたいだから、煽られるだろうけどな。」

 周囲の盛り上がりについては杏奈は昨夜すでに経験済みなので黙って頷く。

「これで婚約の挨拶にいかないと何をされるかわからないし、とにかく挨拶はしよう。その方がアンナの心の準備のためにもいいだろう。」

「セオドアさんの心の準備はいいんですか?」

 冗談半分に杏奈が聞き返すと、セオドアは珍しくニヤリと片頬を釣り上げて笑った。そうすると普段隠れている大きな犬歯が強調されて急に穏やかな印象がかき消される。

「聞かない方がいいと思うぞ。」

「それってどういう意味ですか。」

 杏奈が聞き返すと、セオドアはいつもの笑顔に戻って「ふふふ」と笑うだけだった。

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