心ここにあらず
ヴァルター家の面々は、セオドアからの求婚に湧いて夕食前後もその話題で持ちきりであった。
「思ったより早かったわね。」
「いいえ、遅いくらいよ。」
「それにしても、家の前で求婚って。もうちょっと場づくりから気を利かせれば良かったのに。一生に一度のことなんだから。」
「そんな小器用なこと、あの子にできるわけないわ。」
女中達と一緒になってアデリーンまでが嬉しそうに、話しこんでいる。アルフレドは「きちんと挨拶に来るまでは、私から言うことはない」と早々に立ち去ってしまったが、杏奈は自分のことを話されているので席を外すこともできず、酔っぱらったようぼうっとした頭のままで何となく話を聞いていた。やがてずっと無言でぼんやりしている杏奈に気がついた女中たちに部屋に追い返されてようやく一人になることができた。
(胸のどきどきがちっとも治まらない。眠れるかしら。)
セオドアが手の甲に口づけて、その意味を教えてくれてから杏奈の頭の中ははずっとふわふわしている。セオドアの気持ちが嬉しくて。結婚という言葉はあまりに唐突に思えて驚くけれど、それすら何だか嬉しくて。結婚式の様子や、一緒の家に暮らす自分達を想像して幸福な気持ちになっては、想像が先走り過ぎていると自分を戒める。それでも考えることと言えば、やはりあの口づけの意味しかない。夕食後に女中達が囃したてたような新婚生活のことなどに思考は巻き戻ってしまう。
何度もそんなことを繰り返すうちに想像は微に入り、細に入り細かくなっていき、夜更けすぎに杏奈は不安になってきた。自分の生活能力で家の女主人が務まるのか。もしもセオドアが男爵にでも任ぜられたら男爵夫人になる。一通りの礼儀もなんとか覚えたところなのに貴族の仲間入りなど一体何をどうすればいいのか。だいたい今任せてもらっている仕事は続けることができるのか。
一つ不安になると、それはあちこちに飛び火する。幸せな気持ちで布団にもぐりこんだはずの杏奈は、最初に思い描いていたものとは全く違う理由で寝付けなくなってしまった。
翌朝、セオドアはいつものように迎えに来てくれた。杏奈は寝不足の目をこすりながら笑顔で挨拶し、彼の馬に引きあげてもらう。セオドアは特に変わった様子もない。昨日のことをもう少し話したい気がするが、なんと切り出せばいいやら分からない。杏奈が考え込んでいる間に、訓練所のすぐ近くまでやってきていた。周りに見知った顔が増えてくる。皆、もうセオドアが杏奈を連れてくることには慣れているものの、追い越しざまに口笛を吹かれたり、笑いかけられたりするのは変わらない。こうなってしまっては、もう二人で込み入った話しをするのは無理だ。
(帰りまでに、何て言うか考えておこう。)
杏奈は朝のうちに話すことを諦めた。厩舎の傍までやってきてからセオドアが小さく声をかけてきた。
「今日はいつも通りに終りそうか?」
「はい。」
そこまでは、何ということもないいつものやりとり。
「じゃあ、今日は帰りに少し寄り道しよう。フレッド叔父さんには言っておくから。」
杏奈はぱっとセオドアを見上げた。これまでに仕事の行き帰りに寄り道したことはない。問うように目を合わせると、セオドアは「少し話したいことがある。」と小さく頷いた。
(寄り道って、やっぱり昨日の話よね。ちょっと展開が早すぎる気がしませんか、セオドアさん。心の準備がついていかないっていうか、頭の準備がついていかないっていうか。)
杏奈はぐるぐると考えながら黙って頷いた。杏奈は馬を下ろしてもらった後もどこか覚束ない足取りでザカリーの部屋へ向かった。
杏奈の頭の中は昨日の衝撃的な事件からまったく立ち直らないままだが、時間は過ぎる。なんとか仕事に集中するものの、一つ終って次の書類に手を伸ばす前に一々そんなことを考えては赤くなったり青くなったり忙しい。
「ザカリーさん、今日はアンナ早く帰してやった方がいいんじゃないですか。」
見兼ねた部下の一人が小声でささやくと、ザカリーは実に渋い顔で杏奈を盗み見た。確かに明らかに挙動不審だが、このくらいのことで仕事を投げ出させるのはザカリーの主義に反する。
「アンナ。随分落ち着かないようですが、具合でも悪いのですか。」
彼が声をかけると、杏奈はぱっと顔を上げて「大丈夫です。元気です。」と答える。必要以上に声が大きいのが気になるが、元気であるなら急いで帰す必要はない。お前も仕事に戻れ、とザカリーが横に立ったままの部下に告げる前に彼も杏奈に問いかけた。
「それじゃあ、心配ごとでも?」
すると、杏奈は「いや」と口ごもる。
「俺でできることなら相談にのるよ?」
調子に乗って部下が言うのを聞いて、ザカリーはこっそり彼の向こう脛を蹴飛ばした。涙目になった部下は恐る恐るザカリーを振り返ったが、もう彼は興味の無さそうな顔で自分の書類を眺めている。その背中に向かって部下は恨めしそうな声を上げる。
「ザカリーさーん。」
「話を聞いてやるんだろ?お前の休憩時間をそれに充てるなら構わんぞ。」
男性の部下には思い切りぞんざいな言葉遣いのザカリーは、勝手にしなさいと言って目を逸らした。どうも見逃してくれるらしい。部下は脛を摩りながら凛々しい笑顔を浮かべた。
「よし、アンナ。優しいお兄さんに言ってごらん。どうしたんだい。」
杏奈は頭の中にたくさんある疑問や不安のどれを聞いたものか悩んだ。この部屋にいる騎士達は決して口は軽くないし信頼できる相手だが、お友達ではない。個人的過ぎず、でも彼の休憩時間を割いてもらうのだから質問は大事なものに絞って簡潔にしなければ。結局一番気になっていることを聞いてみることにした。
「ちょっと気になったというか、知りたいことがあって。ふつう結婚って付き合い始めてからどのくらい経ったらするものなんでしょうか。」
静まり返った室内にサワサワと中庭の木々の揺れる音だけが残った。全員ペンも書類を繰る手も止めてしまっている。
「え、結婚?」
「あ、一般的にです。一般的にどうなのかなって。思って。」
別に自分のことではないとのだと言いながら杏奈の声はどんどん小さくなってしまう。
(あの野郎。行方不明になって散々心配かけて帰って来たと思ったら、けろっとして出てきやがって。しかも毎日行きも帰りもアンナと一緒に見せつけてんのかと思ったらもう結婚だと?ていうか、俺もまだなのに生意気な。)
優しいお兄さんが色々と去来する思いを抱えている間に、もう一人静かに話を聞いていた部下がぽつりと呟いた。
「さすが疾風。」
その言葉にザカリーが、たまらずに肩を揺らして笑いを堪える。部下は自分の返事を待っている杏奈を思い出して慌てて咳払いをした。
「結婚は、うーん、そうだな。俺の場合って俺はまだしてないから参考にならないな。」
その回答がまた心の琴線に触れたらしいザカリーはもう書類を読むふりを諦めてあからさまに笑っている。
「ちょっと、ザカリーさん。そんなに笑わないでくださいよ。」
「ふふっ。すまんすまん。」
「全然悪いと思ってないでしょう。そうだ、ザカリーさんは奥さんと結婚されるまでどのくらいかかりました?」
「え?そうだなあ。2年くらいか。」
「結構長いですね。」
生真面目なザカリーのこと、この人と決めたらすぐに結婚を申し込んでいそうだと思った部下がそう言うと、杏奈も「2年って長いんですか?」と興味津津に聞いてくる。
「いや、特別長い感じじゃないけど。職業柄かもしれないけど騎士はこれと決めたら早く結婚する人が多いから。幼馴染とかでもなくて3年を超えたらちょっと珍しいかな。」
うかうかしていると遠征があったりして平気で半年や一年会えなくなる。騎士は長い春を楽しむには向かない職業だ。
「そうですか。じゃあ1年とか2年とかが普通ですか?」
「1年くらいが多いけど。でもさ、こういうのって普通とかあってないようなもんだからね。半年くらいで決める人もいるよ。」
「決めると言う意味なら、私は一カ月かかっていませんよ。」
さらりとザカリーが口を挟んできて部下も杏奈も思わず彼を振り返る。
「その後遠征が続いて式を上げるまでに2年かかっただけで。」
彼はそれが何か、というように二人を見返した。
「一カ月・・・。」
杏奈が考え込んでいると、ザカリーはコツコツと拳で机を叩いた。
「さあ、心配事はそれだけですか。気が済んだら仕事に戻りなさい。それ以上の相談は当事者同士でしてください。」
部下はもう杏奈の相談に乗る気はなくなったらしく、大人しく自分の机に戻っている。杏奈もはっと顔を上げて「すみません」と謝るとまた仕事に戻った。そして一枚書類を読んでから「あれ、当事者?」と小さく呟いてまた耳まで真っ赤になっていたが、部屋にいた他の三人は揃って聞こえないふりをしてやりすごした。