狂った秤
自宅療養中のセオドアの元を見舞いと称してアンドリューが訪れた。道案内をしてきたチェットとコンラッドを従えた彼の訪問の目的がただの見舞ではないことが男爵には分かっていた。それでも男爵は顔色を変えずに自らお茶の支度をして年若い師団長をもてなす。
見舞いといっても体はほぼ治っている。あまりひどい服装で会うのもよくないと着替えたセオドアが居間に姿を見せるとアンドリューは立ち上がって手を差し出した。
「よく帰って来てくれた。」
「ご心配をおかけしました。」
「いいんだ。それが仕事だから。」
アンドリューは爽やかに笑う。それから傷の具合などを簡単に質問して一息つくとアンドリューの表情から笑顔が消えた。真顔になった彼の様子にセオドアは自然と居住まいを正す。
「これまで、セオドアの耳に入らないように皆にお願いしていたことがある。その調子ではすぐに外に出られるだろうし、これ以上伏せておいても良いことはないのでそろそろお前にも話しておこう。」
そう前置きしたアンドリューはセオドアに、彼が盗賊に打たれて気を失った後の出来事を語って聞かせた。なるべく淡々と事実だけを。自分の感情は表さないように。話を知っているはずのチェットとコンラッドは聞きながら拳を震わせているが、余計なことは絶対に言ってはいけないとアンドリューから言い含められているので歯を食いしばるようにして耐えている。セオドアは話を聞きながら、まるでそれが自分の身に起きたことではないように感じていた。驚きが過ぎたのかもしれない。
「村長以下深く関わった者は既に捕えてある。罰は近いうちに決される予定だ。軽くは済まさない。」
アンドリューは話しながらセオドアをじっと見ていた。彼の表情には驚きと戸惑いは浮かんだが、怒りに震えることも、感情的になってアンドリューの話を遮ることもなかった。話を聞いてどう思うか正直なところを聞かせてほしいと言えば、セオドアは黙ってしばらく考え込んでいるようだった。辛抱強く待っていると、セオドアは何かを思い返すようにゆっくりと口を開いた。
「あのとき、村に入ってすぐに縋りついてきた人がいました。腰が抜けてしまっていて、助けてくれと言われましたが、まだそこには盗賊は迫っていなかった。自分でまだ逃げられた。私がそこで馬を降りてしまえば、その人に抱きつかれて身動きがとれなくなると思いました。そうでなくても馬を降りる時間が惜しかった。だから槍で人が近づけないようにして進みました。そういうことが恨みを買ったのかもしれない。」
どこかぼんやりとした口調でいうセオドアにアンドリューははっきりと答えた。
「俺に言わせれば、それは逆恨みだ。お前の判断は正しかった。それは結果を見ればわかることだ。逆恨みでお前に悪さができたのだとしたらその村人は生き残った。しかも元気に。そうだろう。それなのにお前を傷つけたことを仕方ない行為とは言えまいよ。」
その言葉を聞いたセオドアはまたしばらく考え込むようにしていた。俯いて静かに何かを考えている。やがてその視線がまっすぐアンドリューに戻ってくる。それは感情に揺れることの少ない沈着ないつもの部下の顔だった。
「脛当てひとつで、どれくらいの金になるでしょう。その金で何ができるでしょう。」
セオドアはそう言って自分の手足をみた。国王の騎士に任ぜられた誇りがある。だからこそ貴重で大切な防具だが、ただの鉄の塊になったとき、それにどれほどの価値があるだろう。それと引き換えに自分の手足を傷つけ、死んでも構わないと意識の無い自分を捨てた。もちろん不快さや怒りは感じる。けれどセオドアにとってこれは何よりも悲しいことだった。
「何も覚えていないおかげか、それほど腹は立ちません。不愉快だとはいえ恨む程ではない。これを許せば、同じことが繰り返されるでしょうし、村人達の罪は問われるべきだと思います。ただ、私には彼らはこれから生きるために必死だった。必死すぎた。そればかりを考えて鉄の塊の価値と、一人の人間の命の価値を計り間違えた。そういう風に思えます。だとしたら、人の命の価値も分からなくなっているのだとしたら、それこそが恐ろしいことだと思います。そして何より悲しいことです。」
セオドアの言葉を聞いて、アンドリューは喜びに鳥肌が立った。体を傷つけられても、甲冑や剣を奪われても、セオドアの騎士としての心は損なわれていない。アンドリューは今のセオドアの言葉を一言も忘れるまいと心に刻む。セオドアのために義憤に燃えている者たちにどうしても聞かせたかった。それから、これから罪に問われるだろう村の者や罪には問われず、後ろ暗いままに暮らして行くだろう村の者が聞いたらどう思うだろうとも考える。ただ人を恨むのではなく、その人に罪を犯させた何かを探りだろうとするセオドアの言葉は至言だと思えた。
(やはりセオドアをここで失うわけにはいかない。本当に俺は優秀な部下に恵まれたものだ。)
アンドリューは、その喜びを心の中に押しとどめて薄く微笑んで一つ頷いた。
「怒りを押し殺す必要はないが、無理に怒ったり、恨んだりする必要もない。ただ、この事実をお前はこれから色々な形で聞くことになる。さぞ怒っているだろうという者もきっといるはずだ。そういう歪めた形で伝わる前に、知っておいてほしかったんだ。」
セオドアも一つ頷くと、アンドリューは少し姿勢を崩して話を続けた。
「脛当てひとつで買える何かを、必要な時に差し出せるような国にしたいものだな。そうしたら誰も人を襲わないで済むようになるかもしれない。」
そうではないかと問う様子は先ほどよりだいぶ力が抜けていて、もう村の話は峠を越したのだと分かる。誰の返事も待たずにアンドリューは言う。
「ザカリーに進めてもらっている件はその役に立つ気がする。最近分かったが、あれは意外とそういうことを考えるのに向いている。勇猛果敢だけが取り柄ではなかったようだな。」
ザカリーは前線にあるときは骨おしみなく働いてくれた。平民出身であるにも関わらず、その腕と勇気を見込んだ第二師団から引き抜きの話が来たほど、その勇名は広く知られていたのだ。自他共に認める程腕が確かであったからこそ、前線を退いた後に自分の存在意義を騎士団の中に見つけられるかアンドリューは特に案じていたのだが、新しい仕事でも予想より遥かによくやってくれている。
「もちろん、アンナの助けがあることも大きいだろう。あの子の慣習にとらわれない考え方、良いものは良い、悪いものは悪い、そういう揺るがないところがザカリーと合うようだ。うまくやってくれているよ。」
セオドアもザカリーの話は杏奈からも聞いている。まだ前線に立っていた頃はまさに勇猛果敢。泣く子も黙る強面の烈士だったザカリーと、ほんわり穏やかな杏奈の組み合わせは非常に意外だった。杏奈もザカリーを信頼し仲良くやっているのを不思議なものだと思っていたが、アンドリューの言葉に腑に落ちるものがあった。良いものは良い。悪いものは悪い。確かにそういう考え方が似ているのかもしれない。
「アンナも楽しそうです。私のせいでずっと休ませているのがザカリーさんに申し訳ない。」
セオドアがそういうと、アンドリューはふっと笑った。
「まあ、今くらいはいいさ。お前がいない間のアンナはみていられなかったからな。あの子も心を癒す時間が必要だろう。もう不安がらせないようにしっかり捕まえておけ。」
セオドアは思わずチェットに目をやると、弟は小刻みに首を振って俺は何も言っていないと主張する。それではとコンラッドを見ると、こちらも俺は知らないという顔をする。
「誰にも聞かなくても分かるさ。」
そんな三人をみてアンドリューは笑った。それですっかり空気は解けて、その後は和やかに話が弾んだ。
そろそろ去るというときに、アンドリューが一度だけ確認した。
「セオドア、お前は本当にあの村の者を恨みに思う気持ちは湧かないか。それは当たり前のことだ。隠したり我慢することはないんだぞ。怒りや憎しみも時が経てば癒えるが、心を押し殺してはそれも叶わなくなってしまうだろう。」
セオドアは自分が何を答えても、アンドリューは受け止めて一緒に悩んでくれるだろうと思った。そういう人だから彼に憧れてここまできた。そしてアンドリューと同じ場所で働きたいという強い思いが、彼の中にくすぶる僅かなわだかまりを押し流す力になってくれる。
「覚えていたら恨んだかもしれません。だからすぐに気を失わせてくれて良かったと、そう思うことにします。覚えていないことを恨むことができるほど、私は想像力が豊かではありませんから。」
真面目な顔で言うセオドアを見て、アンドリューはにっこりと頷いた。
「本当に、本当によく無事で戻ってくれた。」
アンドリューを見送った後で、セオドアはチェットを振り返った。そして自分の弟をまじまじと眺める。
「何だよ。人のことをじろじろ見て。」
「いや、お前。隠し事が上手になったな。」
幼い頃、チェットは嘘が下手だった。今でも気の置けない相手には気が緩むらしく家族に隠し事をするのは下手なままだと思っていた。しかし、今回チェットは見事にセオドアから村人達の行いを隠し通した。
「知っていたんだろう。俺を林に捨てたのが誰だったのか。」
チェットは目を逸らせて頷いた。
「でも、師団長より前にコンラッドが伝えないでおこうって言ったんだ。兄さんが目を覚まして何も覚えてないみたいなのを見てさ。兄さんにも心を休ませる時間が必要だって。僕もそれはそうだと思ったから黙っていることにしたの。本当ははらわた煮えくり返るくらい怒ってたけど。」
言いながらチェットはにこっとしてセオドアを振り返った。
「でもミラード司祭様のおかげであんまり難しくなかったよ。どこか遠くにいる恩知らずの無法者よりも兄さんが元気になる方が大事だからね。そりゃあ毎日にこにこするのも難しくないって。」
セオドアは久々に弟の頭を乱暴に撫でた。こういう無邪気さは自分には真似できない。
「おかげで助かった。さすがに家についたその日に聞いていたら気持ちも違ったろうからな。」
「満足に手洗いにも一人でいけないのは誰のせいかって?」
茶化すようにチェットが言うとセオドアはしかめっ面で頷いた。ほんの数日のことだが、それはやはり辛い日々だった。それから眉間の皺をといて穏やかな顔に戻って言う。
「アンナのおかげでもあるかな。」
「幸せの大盤振る舞いだもんねえ。そりゃあ、おおらかにもなるよね。」
セオドアは頷きかけてかろうじて踏みとどまった。それをみてチェットは今更なんで照れるのか分からないと言って笑う。最近の二人の幸せそうなことは焚きつけた方が顔をそむけたくなる程だ。
(コンラッドの言葉は正しかったなあ。兄さんが人を恨まないで済んで良かったなあ。)
きっと体はミラードが、心はアンナが癒してくれた後だったから、あれほど穏やかに受け止められたのだろう。チェットは兄があれ以上苦しむ姿を見ないで済んだことをアンナとミラード、それから的確な判断をしてくれたコンラッドに感謝した。