この腕で抱きしめたい
セオドアの帰宅後二日目。改めて彼を訪ねたアデリーンと杏奈は期待と緊張を抱えて玄関の扉を叩いた。ミラードの力でどれほどの傷が癒されたのか。ひしゃげていた手や腕は治るのか。不安な面持ちで待っていた二人を出迎えたのはチェットの明るい笑顔だった。
「おはよう。いらっしゃい。」
その顔だけで、上手く行ったのだと二人は確信した。それでも確認するまでは、と綻びそうになる口元を抑えて彼に尋ねる。
「チェット。テッドの怪我はどう?」
「うん。昨日ミラード司祭様がね、できるところまで治して下さって随分いいよ。さすがに一度には難しいからしばらく通って下さるって。」
「そうなの。まあ、良かった。」
アデリーンと杏奈は顔を見合わせて、ほっと笑顔を浮かべた。
「兄さん、もう起きてるから会ってみれば分かるよ。兄さーん、お見舞いに来てくれたよー。」
大きな声で二階にいる兄に声をかけながら、チェットは二人をセオドアの寝室に案内した。ノックも無しに扉を開くとセオドアは枕に背を預けて寝台に身を起していた。今朝は髪を梳いて髭を整える余裕があったらしく、それだけでも随分としゃっきりして見えた。
「あら、髭があると急におじさんみたいね。テッド。」
アデリーンは朗らかに甥をからかう。
「起きていて大丈夫なの。」
「ええ。疲れたら横になりますし。」
「あなた、それはそうだろうけれど。」
身も蓋もない返事を返したセオドアを責めようとしたアデリーンはシーツの上で組まれた彼の手が目に入ると、はっと顔を上げた。
「テッド。手を見せて頂戴。」
彼の差し出した両手を見てアデリーンは涙をこぼした。杏奈も思わず手を伸ばしてその手に触れる。彼の手は全く元通りに治っていた。そして手を差し出した両腕の動きも滑らかで昨日指一本動かせなかったはずの右腕にも何の違和感もなかった。
「良かった。本当に。」
「心配をかけてすみません。腕と手は昨日ミラード司祭殿が治癒してくださってすっかり元通りですよ。」
証拠を示すようにセオドアは二人の前で腕を曲げ伸ばしして見せた。感動している二人の背後でチェットがにやりと笑う。
「最初に手を治してくれるなんて気が気が利いてるよねえ。やっぱり手が使えないと不便だものね。」
弟の意図を察しきれずに、セオドアは言葉通りに受け止めた。手が治るまでは、扉をあけることも食事をとることも何も一人ではできなかったのだ。寝込んでいる間も含めて随分人の手を煩わせただろうという自覚はある。
「お前やコンラッドには随分世話をかけたな。」
「それはまあ、お世話いたしましたけど。」
悪びれずにチェットは笑う。
「困った時はお互い様だから。」
それからセオドアにだけ分かるように視線で杏奈を示してみせる。
「でもほら、人に頼めないっていうか頼みたくないようなことだってあるからね。」
そこまで来てセオドアはやっと昨夜からの事情を飲み込んだ。誰か、というか十中八九間違いなくチェットが、昨日のセオドアと杏奈の会話を盗み聞きして、ミラードの耳にも入れたに違いない。手から治すのは元々の予定通りだったかもしれないが、彼の去り際のあの台詞は、せっかく抱きしめようと思っていたのに、とぼやいたセオドアの言葉を受けてのものだったのだ。
「お前。」
セオドアは怒ればいいのか、呆れればいいのか何とも言えない顔で弟を見た。生死の淵を彷徨ってきた兄を迎えてすぐにすることが盗み聞きとはどうなのだ。
チェットは何も言わずににんまり笑うと「じゃあ僕は仕事にいくから、叔母さん、アンナ。後はよろしく。」と爽やかに去っていってしまった。
「腕だけじゃなくて疲れも随分良さそうじゃない。顔色が良くなったわ。」
アデリーンの言う通り、体が水で満たされた桶にでもなってしまったような重苦しさはだいぶ楽になった。体の重さも目が良く見えなかったのも極度の疲労と貧血が原因だろうとミラードが言っていた。それも腕を治す過程で元通りとは言わないが多少の改善が見られた。あとは食事と休養で自然と治るのを待つことになっている。食事は急に食べると腹を壊すと忠告されたが、それでも久しぶりに空腹を感じて今朝は果物を口にすることができた。
「お昼にスープくらいは食べられるかしらね。あっという間に痩せちゃって。」
アデリーンにしてみれば姉の死後、我が子のように思ってきたセオドアである。あれこれと世話を焼きたがる。しかし杏奈がそっと部屋を出て水差しを持って帰ってくると「あら、いやだ」と立ち上がった。
「すっかり話しこんじゃったわね。男爵様にご挨拶して、それから、そう。お昼の仕込みもしてくるから、アンナしばらくお願い。」
わざとらしいほど唐突にセオドアとの会話を打ち切ると、そそくさと去っていく。気を利かせてくれたということだろう。
(昨日の話、チェットの奴いったいどれだけ吹聴したんだ。)
この調子では何もかも父親にまで筒抜けなのではないかとセオドアは苦り切った顔でアデリーンを見送った。
静かになった部屋に残された二人は、どちらともなく目を合わせて困ったような笑顔になる。
「座ったらどうだ。」
セオドアが枕もとの椅子を示すと、杏奈はおずおずと腰かけた。会えたら話そうと思っていたことが色々あったのに、こうして向かいあうとなんだか気恥ずかしい。杏奈は意味もなくスカートを握ったり伸ばしたりしながら、何から話そうかと考える。困ったときはやはり天気の話題からだろうか。まだ外に出られないのに返って辛いだろうか。怪我のことはあまり触れない方がいいのだろうか。
逡巡する杏奈に気がつきながら、セオドアも久しぶりに自由に動く手を持て余してまごついていた。杏奈に触れたい。けれど治ったからと唐突に彼女に手を伸ばすのは性急すぎるのではないだろうか。それになんだかチェットやミラードの笑顔がちらついて癪に障る。別に触れ合うことは第一ではない。自分が杏奈に求めていることはもっと内面的なものであって、と誰に聞かせるでもない言い訳を考えてしまう。
「あの。」
やっと杏奈が口を開いた。
「うん。」
「あの後、セオドアさんが最後に会いに来て下さってから色んな事があったんです。全部話すと長くなっちゃうと思うんですけど。」
「俺も全部話すと長くなるぞ。」
お互いに色々あった。二人はまた見つめ合って今度はおかしくて笑ってしまった。
「じゃあ、順番にしましょう。一つずつ。」
「そうだな。」
ではまず私から、と改まった調子で杏奈が話し始める。セオドアに聞いてほしい嬉しいことがたくさんあったのだ。良い話を聞いてセオドアにも少しでも明るい気持ちになってほしい。一緒に喜んでほしい。そう思ってザカリーの下で仕事をもらえた話をする。
セオドアは新しい仕事をもらえたことを生き生きと話す杏奈は少し見ない間に本当に大人びたと思う。自分のことになると急に自信を失くして俯きがちになってしまっていたのに。セオドアは彼がいなくてもしっかり前に進んでいた杏奈を頼もしく、誇らしく思いながらも少し寂しい気持ちも感じる。
「なんだか急にしっかりしたな。俺がいない方がいいのかもな。」
冗談交じりにそういうと、杏奈は眉を吊り上げてセオドアを見つめ返した。
「冗談でもそんなこと言わないでください。」
口調は怒っているのに見る間に目は真っ赤になる。
「本当に心配して。ずっと会いたかったのに。」
そう言ってセオドアの手を何度もぺちぺちと叩く。手はちっとも痛くないが、胸は痛んだ。
「すまない。」
「もう二度と言わないですか?」
「言わない。約束する。」
「セオドアさんがいない方がいいなんてこと、絶対ないんですからね。」
言いながら今度はセオドアの手を逃すまいとするように握りしめる杏奈がいじらしくてセオドアはずっと気を逸らしてきた衝動を抑えきれなくなった。杏奈の手を引いて引き寄せると自分の両腕で抱きしめる。胸の打ち身に杏奈の頭がぶつかるとひどく痛んだが、今はそれどころではない。
「分かってる。分かったから、泣かないでくれ。」
「泣いてません。」
泣いていないと言う声はもう鼻声だ。杏奈はセオドアの寝巻の胸を握って目を閉じた。少し痩せてしまった胸に顔を寄せると、心臓の音がする。抱きしめていてくれる腕は昨日は片方を持ち上げるだけで精いっぱいだったことが嘘のようにしなやかで力強い。生きて帰って来てくれた。そしてきっと元気になる。それをどれだけ自分が喜んでいるのか、この人は分かっていないのではないかと思う。涙をこらえながら、どうしたら分かってくれるのだろうと考える。温かい腕の中で彼にしがみついていると、セオドアの髭が耳をこすった。珍しく顎が全て覆われる程伸びた髭は髪よりも硬くて少し痛い。顔を逸らすようにずらすと隙間のあいた首筋にセオドアが顔を埋めた。肩を震わせる杏奈を宥めるようにセオドアの手が背中を撫でる。そのまま自分の手で彼女に触れられることを確かめるようにセオドアは腕を緩めずに、無言で杏奈を腕の中に閉じ込め続けた。
やっと気が済んだセオドアが顔を上げる頃、全ての抵抗を封じられていた杏奈はすっかり途方にくれた顔をしていた。
(かわい過ぎる。)
頬を赤らめて自分を見上げる様子にセオドアは胸の中で独白して、口に出しては何も言わずに彼女の頭を自分の肩にもたれさせて肩を抱く。杏奈は素直にセオドアにもたれてぼんやりとしていたが、やがて自分のおかれた状況を思い出したようだ。杏奈は彼にもたれたまま緩慢に聞いてくる。
「セオドアさん」
「なんだ?」
「今、もしかして誤魔化そうとしました?」
「そんなことはない。反省している。」
セオドアが大真面目に答えると、杏奈は体をよじってセオドアを睨んだ。
(反省しているっていうのと、さっきの行動はまるで逆のような気がするんですけど。)
口に出すのは恥ずかしくて目だけで恨めしげに表現すると、セオドアはちょっと眉を寄せた。杏奈の言いたいことは分かるが、彼としては不用意な発言を十分反省している。ただ、その直後に杏奈が可愛くてしょうがなくなってしまっただけなのだ。さすがにそこまで正直に言う気にはならないので言い訳のしようがない。
「もう言わないから。勘弁してくれ。」
情けない調子で言うセオドアを見て、杏奈は許してあげることにした。それでも流された様になるのは嫌だと杏奈はしゃきっと身を起した。それから、いつのまにか引きずりあげられていた寝台から降りると椅子に座りなおした。そして背筋を伸ばして顎をそらして「今回だけですよ」と言う。
「分かった。」
セオドアが神妙に頷くと、杏奈はいつもの笑顔に戻って「離してくれないからびっくりしました。」と少し大袈裟に胸を押さえた。セオドアは何も言わずに笑っている。彼はその穏やかな顔から一瞬で彼女を捕えて離さない男の人に豹変してしまう。男性はいつも女心は分からないというが、杏奈にしてみれば男の人だってさっぱり分からないものだった。