おかえりなさい その2
やがて杏奈は恥ずかしそうに身を起こし、涙を拭って立ち上がった。
「今、男爵様とチェットさん呼んできますから。皆さん、とても心配されているんですよ。」
セオドアは名残惜しく、立ち上がろうとする杏奈を止めようとして咳き込んだ。痛み止めが切れているので咳き込むと背中と肋骨が両方痛んで涙が滲む。杏奈も満身創痍の体のどこに触れていいのか分からずに手を中途半端に浮かせたままだ。
「兄さん、起きたの?」
咳が聞こえたのかチェットが飛び込んできた。今度はその声に呼ばれた様に、後ろからコンラッド、男爵、アデリーンが次々にやってくる。しっかりと目を開いているセオドアの様子に誰もが目を輝かせた。
「本当に、よく帰ってきた。」
男爵は優しく声をかける。
「心配をかけてすみませんでした」
セオドアが謝ると男爵は「全くだな」と頷きながらも息子の動かない手をとって離そうとせずにその場に佇んでいた。無口な父と息子はそれ以上言葉もない。チェットは目に涙を浮かべてセオドアを覗きこむ。
「ああ、良かった。お医者さんは痛み止めのせいだっていうけどずっと寝てばっかりだから心配したよ。痛いところは?気分はどう?」
セオドアが何か答えようとするとコンラッドに先を越された。
「チェット。骨が割れてるんだから右腕は痛いなんてもんじゃないと思うぞ。脚もあの傷では当分痛むだろう。左肩の打撲もひどいしな。痛くない方が心配だ。」
コンラッドが淡々と指摘するたびに、セオドアは言われた個所の痛みが増すような気がした。骨が折れたとは思ったが、割れているとは普通の骨折ではないのではないか。
「骨が割れて?」
聞き返すと、今度は男爵が「酷い骨折だそうだ。お前は自分の骨を煎じ薬にでもするつもりだったのか。」と言い返してきた。想像しただけで今までの倍も痛い気がしてくる。
「本当によく生きて、しかも自力で戻ってきたよ。信じらんない。だいたいどうやって馬にのったのさ。両手使えないのに。早く人手を借りてくれたらもっと早く手当てできたのに。」
文句を言いながらもチェットは半泣きだ。先ほど着替えさせてやった時に体中に広がる大小の痣と切り傷、正体不明の腫れを目にした。街でときどき拾ってやる袋叩きにあった不良少年達よりもっとひどかった。それなのにこの兄は来る日も来る日も馬にゆられて一人で帰って来たのだ。とても信じられない。
「すまん。」
「本当だよ。全く皆どれだけ心配したか。アンナなんて心配し過ぎて五日も寝込んだんだからね。」
チェットの言葉にセオドアとアンナが一斉にピクリと身じろぎした。
「アンナが?」
「そうだよ。仕事もずっと休んで首にされたら兄さんのせいだからね。責任もって嫁に貰ってあげるんだよ。」
チェットが言い立てるのを杏奈を除く一同はうんうんと頷いて聞いている。
「ちょっとチェットさん。私が倒れたのは私の自己管理が悪いのであってセオドアさんの責任じゃないですから。」
杏奈が慌てて手を振ると、セオドアはそのやり取りを複雑そうに見ていた。
「アンナ、大丈夫なのか。倒れたって。」
「大丈夫です。大丈夫。今のセオドアさんよりは全然。」
悪気はないのだろうが痛いことを真顔で言い返されてセオドアは言葉に詰まる。コンラッドがたまらずにふき出した。
「そらそうだ。今のお前に心配されたくはないだろうな。」
「あ、いや。そんな意味ではなく。なんというか私は元気だと言うことを。」
しどろもどろになる杏奈は言われてみれば少し痩せたかもしれないが、元気そうだ。変わらない様子を見てセオドアは静かに笑いを浮かべた。
アデリーンと杏奈が帰った後で、セオドアはコンラッドを近くに呼んだ。
「どうした?」
歩み寄ってきた友人に低い声で問いかける。
「村はどうなった?」
コンラッドは黙ってセオドアをじっと見下ろした。村人が彼にした行いを彼は覚えていないようだ。もし、覚えていないのならわざわざ知らせる必要があるだろうか。この家にいる限りセオドアの耳に入る情報は制限できる。少なくとも今はまだ、知らせるべきではないと思った。彼の体が無事に治ることが分かるまで、これ以上セオドアを傷つけることを知らせたくはなかった。少しくらい彼に心の休まる暇があってもいいはずだ。
「お前は今は自分の心配をしておけよ。村のことはモーガン隊長に任せておけ。」
セオドアはコンラッドから目を逸らさない。じっと見つめられてコンラッドはため息をついた。
「そんなに焦らなくても誰も手柄を横取りしたりしないぞ。」
「・・・コンラッド。」
しばしコンラッドはセオドアを睨んでいたが、引き下がらないセオドアに根負けして「ああ、もう」と声を漏らした。
「分かった分かった。村は半分方無事だ。捕り逃した盗賊もその日のうちに一網打尽だ。お前が粘って足止めしたおかげだよ。」
コンラッドが言ったことは全て事実だ。セオドアはそれを聞いて長く息を吐いた。全てを救えるとは思っていなかった。最後まで見守れなかったセオドアはむしろ全滅を最も恐れていた。けれど半分は助かった。その言葉はセオドアの肩を軽くしてくれた。あのとき引き返さずに火の手の上がる村に飛び込んだことは無駄ではなかったのだ。
「そうか。」
「よくやったよ。」
複雑そうに微笑んだコンラッドは「しばらくお前はとにかく休めよ」と、どちらにせよ身動きもとれそうにないセオドアに言いつけた。