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愛していると言えば、嘘になる  作者: 青砥緑
試されるとき
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おかえりなさい その1

 セオドアは家に着いた瞬間をおぼろげに覚えている。通りから家をみてようやくと辿りついたかと思ったところも覚えているのだが、どうやって家に入って、どうして寝台に寝ているのかはさっぱり記憶にない。何度かぼんやりと目を覚ましたが、そのたびに小さな歌声が聞こえて、それに聞きいっているうちにまた寝てしまうことを繰り返した。随分と時間がかかったように思うが、やっと体の痛みを感じることができるほどはっきりと意識が戻った。夢かと思っていた歌声は相変わらず続いている。聞き覚えのある旋律に、首だけを動かして周りを見回すと見慣れた自室の枕元に思った通り杏奈が腰かけている。声をかけようにも、喉もひりついて声が出ない。それでも僅かなうめき声に杏奈はぱっと口を閉じて窓を見ていた視線を彼に戻した。

「セオドアさん。」

 返事をしようとして声が出ないのを見て、すぐに枕もとにあった水差しをとって差し出してくれる。水を吸うことすら今のセオドアには力のいる作業だった。なんとか喉をうるおして深く息を吐く。

「セオドアさん、お帰りなさい。」

 にっこりと微笑んだ杏奈を見て、セオドアは言葉に詰まった。ただいま。会いたかった。心配をかけて悪かった。そう言わなければならないのに言葉がでない。会いたいと思い詰めすぎていたせいか、いざ本人を前にすると何を伝えればいいのか酷く混乱した。あまりに綺麗に笑ってくれるので夢のように彼女が消えてしまうのではないかという気すらしてきた。家に戻ったところから夢なのではないだろうか。彼はやがてゆっくり口を開いた。小さくかすれる声に杏奈は耳を澄ませた。

「俺は生きているよな。」

「はい。」

「これは夢じゃないよな。」

「はい。」

 杏奈は彼の動かない右手をそっと握った。そうやってまだ少しぼんやりとしているセオドアの顔を見つめる。会えない間に髪が伸びて、髭も伸びて、痩せて、顔色も悪くなった。けれど柔らかな薄茶色の瞳も薄い唇も変わらない。手だって形は少し変わってしまったけど、覚えている通りに大きくて温かい。杏奈が手から視線をセオドアの顔に戻すと、静かにセオドアの瞳から一筋涙が零れ落ちるところだった。杏奈ははっとして彼の頬に触れる。触れられてやっとセオドアは自分が泣いていることに気がついたようだ。

「ふふ。」

 セオドアはそう言って目を伏せた。今の彼には自分の涙をぬぐうこともできない。

「まさか、泣くとは思わなかった。」

 涙はそれきりで、彼は声を震わすこともない。ただ少し潤んだままの瞳で微笑んだ。


「俺はお前の笑顔を見るために帰ってきたのだな。やっと帰ってきた気がする。」


 懐かしい我が家を見たときよりも、二十年以上見慣れた自分の部屋の天井を見たときよりも、杏奈の笑顔を見たときに自分がいるべきところに戻ってきたと心が解けた。そんなセオドアの心のうちが、すぐには分からずに杏奈は数回瞬いたが、やがてその顔にふわりと笑顔が広がった。それを見ていたセオドアの笑顔が大きくなる。杏奈はそれを見て更に嬉しくなる。

「ただいま。」

 セオドアがそう言うと、杏奈も何度も頷いた。

 やっと、帰ってきた。やっと、会えた。


「心配をかけて悪かった。」

 一つ言葉を口にすると、解けたように滑らかに話すことができた。セオドアが謝ると杏奈は少し泣きそうな笑顔で答えた。

「帰って来てくれたから許します。行方不明と聞いたときはもう会えないかと思いましたけど。」

「帰らないつもりなどなかった。ちゃんと戻ってくるつもりだったさ。」

 セオドアがいうのを聞いて杏奈は眉を寄せる。

「でもとても危なかったと聞きました。無理で無茶で無謀だったと。」

 そんなことを杏奈に吹き込んだのは誰だと苦々しく思うが、言われても仕方がない。確かに多少の無理は承知だった。セオドアが黙ってしまうと杏奈はまた続ける。

「だから私、すごく後悔したんです。あのときにどうしてすぐに答えなかったのかって。どうしてすぐに好きですって言えなかったのかって。」

 言いながらセオドアの帰りを待っていた時を思い出したのか杏奈は目にいっぱいに涙を浮かべる。

「もうずっと言えなかったらどうしようって。」

 今にも涙はこぼれそうなのに、杏奈はそれを堪えてしっかりとセオドアを見つめた。

「帰って来てくれたら一番に言うことに決めてたんです。」

 杏奈は息を深く吸う。少し前は、これを言えば大変なことが起きるかもしれないと思った。けれどセオドアに会えないかもしれないと思って、その怖れは自分を守るためのものであって、彼の為ではないと分かった。彼が自分を好きだと言ってくれるなら、自分が答えればきっと喜んでくれるだろう。杏奈はセオドアのために差し出せるものがあるなら、何だって惜しみたくはなかった。それに何より、今は自信がある。これは絶対嘘じゃない。絶対に大丈夫。杏奈は笑顔を浮かべた。


「セオドアさん、大好きです。」


 セオドアは息をのんで硬直したようにじっと杏奈を見つめている。


(ほら、セオドアさんは消えたりしなかった。私もどこにも行ってない。)


 セオドアが目の前に居続けてくれることだけで嬉しくて、杏奈は誰かに感謝する。神様がいるのなら神様。それから絶対大丈夫だと言ってくれた彼女の大事な友達にも。幸せいっぱいに笑う杏奈の姿に、セオドアはやっぱりこれは夢ではないかと思った。目が覚めてすぐこんなに気前よく良いことが起きていいのだろうか。

「何度も何度も、そう言ってもらえるところを想像しすぎて。何だか、これも俺の妄想のような気がする。」

 零れるように呟かれた言葉に杏奈は「え」と声を漏らして彼を思わず見つめた。自分を呼びに来たコンラッドにセオドアの寝言の件を聞いてはいたが、彼がずっと自分のことを思い描いていてくれたのだと思うと胸が苦しくなる。単純に嬉しいのではなく、それを思い描いていたときの彼の置かれた環境を思うと辛くもあった。

「妄想じゃないです。」

 ここにいますよ。と言いながら杏奈は両手でセオドアの手を包んだ。そうするとセオドアは長く息を吐いた。

「アンナが俺を好きだと言ってくれたら、今度こそ遠慮なく抱きしめてやろうと思っていたのに。」

 腕も動かない。セオドアはそう言って情けなさそうに眉を下げた。その言葉を聞いて杏奈はしばらく迷っていたが、やがて立ち上がっておずおずとセオドアの頭を胸に抱きかかえた。

「こ、これでは駄目ですか。」

 セオドアが笑うと吐息が胸元に当たる。くすぐったくて杏奈はぶるりと背を震わせた。

「贅沢過ぎるくらいだ。ありがとう。」

 ぎこちなく動くセオドアの左手が杏奈の背中に触れた。軽く触れるだけで精いっぱいで抱きしめることはできない。それでも杏奈はぎゅっと彼の頭を抱きしめて頬を寄せる。

「帰って来てくれて本当に良かった。」

 杏奈の涙が彼女の頬を伝ってセオドアの頬に零れ落ちた。

「ありがとう。アンナ。」


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