神の使い達
蜜色の瞳が机の上の香水瓶をじっと見つめている。ミラードは、かれこれ一時間は手元に返ってきた香水瓶を前に考え込んでいた。
この香水は自分が買い求めた時は、普通の香水だった。それが数カ月ぶりに見かけたら、誰かに何かの術をかけられていた。ミラードが術としてできることは治癒だけだが、その元になる神力を感じ取ることや、そこに込められた力の方向性を読み解くことはできる。元々、夜光草の香水にある心を落ち着ける、深い眠りを助け、良い夢に導くという効果と同じようなものを感じた。深い眠りに誘う術。ただ杏奈は深く眠りすぎていたように思う。眠るというより、魂が抜けてしまっていた。一体誰がこのようなことをしたのか。人間には物に何かの術をかける技術はない。だとすれば、これができるのは人ならぬものでしかありえない。答えは明白に思えるが、ミラードはなかなか信じる気になれなかった。
(神の使いがこんなことをする理由がどこにある?)
杏奈はおそらく青い瞳の大白鳥に会ったことがある。伝承では水辺によく現れるので湖や川の守護者だと言われている有名な神の使いだ。彼女が目を覚ます瞬間に見えた大きな羽も無関係ではないように思う。大白鳥は今でも杏奈のことを見守っているのかもしれない。そして目を覚まさない杏奈を助けてやった。ここまではたくさんの憶測があるにせよ、筋が通っているように思える。
(でも大白鳥が助けてくれるなら、あの狼が僕に会いに来る理由がないんだよなあ。)
そもそも神の使いが人間の理解できる理由で行動しているという保証はどこにもないのだが、腑に落ちないものは腑に落ちない。
ミラードは香水瓶の蓋に人差し指を乗せて瓶を揺らしながら、しばらく考えていた。思いつきで栓を空け、香りをもう一度確かめる。それから、そっと瓶を傾けて中身を掌にとってみようとしていたところで、唐突に部屋の中に自分以外の気配を感じた。
「それを返してもらいたい。」
振り返れば、そこには白狼が大人しく座っていた。何となくもう一度くらい現れそうだと思っていたおかげで、ミラードは昨夜よりずっと落ち着いていられた。記憶より少し小さく感じる狼をじっと見つめ返す。ミラードが黙っていると狼の方が少し居心地悪そうに尻尾を動かした。
「返せと言われても、これは僕がアンナに贈ったものですよ。最初から一度も貴方のものであったことはないでしょう。いつの間にか術はかけられたようですが。」
ミラードが言うと、狼は尻尾をまた大きく一度動かした。
「それはそうだが。ちと強い力を込めすぎた。このままにしてはおけん。」
「私は人助けは好きですが、意味が分からないことをさせられるのは、あまり好きではないのですよ。」
ミラードは香水瓶を手の中で弄びながら床に座っている狼を見下ろした。
「返してほしいという事情と、そもそもどうして私の贈り物に勝手に手を加えてくれたのか。教えていただけたら協力して差し上げる気になるかも。」
狼は大きな牙をむき出しにウウウと恐ろしげな唸り声を上げた。
「秘密は守りますよ。」
ミラードは微笑んで付け加えた。
大きく開かれた窓から夏の夜風が吹き込み、白いカーテンが揺れる。
ミラードは机に肘をついて、細い顎を支えながら横目に薄青い香水瓶を見た。ミラードは視線を下げると狼に向かって声をかけた。
「私は貴方のことを何と呼べばいいのでしょう。神の使いは複数存在することが疑いの余地のないことになった以上、少なくともその大白鳥と貴方を呼び分ける名前が必要です。」
神の使いというのは、人の前に姿を現すときにそのときどき適当な姿をとっているだけで実は一つの存在ではないかという説がある。しかし、今しがたこの狼が別の神の使いのために、この術をかけたのだと説明したことによって、その仮説はミラードの中で棄却されることとなったのである。
「名などない。そもそも我々はこうも度々見えるべきではないのだ。二度と会わぬのならば名など不要であろう。」
(誰のおかげで再びどころか三度会うことになっていると思っているのかな、この狼さんは。)
ミラードは狼の言葉に苦笑いを浮かべた。子供の頃に胸に抱いた厳かな印象は先ほど来の狼の様子で粉々に砕け散っている。言葉づかいは古めかしく、いかにも含蓄のあることも時折口にする。しかし今回は自分に弱みがあるせいか落ちつかなさそうに尻尾を振ったり、言いにくい時には唸り声を上げたり妙に人間くさいのだ。
ミラードは笑みを浮かべたまま香水瓶をコトリと床に置いた。狼が顔を上げて良いのかと問うようにミラードを見た。
「神の使いは神と人や獣の間を媒介するものでしょう。貴方の話を聞いて貴方達自身もまた神と人の間のような存在なのではないかと思ったのです。大きな力を持ち、長い時間を生きるけれど、間違いもするし失敗もある。そうと分かれば、私は貴方を失敗を責めることはできません。貴方がそれを悔い、また正そうとするのなら尚のこと。」
ミラードは自分も床に膝をついて狼に視線を合わせるように座り込んだ。
「お持ちください。いつか貴方にかけてもらった餞の言葉のお礼に今日のことは全て僕の胸にしまっておきますよ。」
狼は青い瞳でミラードを見つめ、それから視線を香水瓶に戻した。それはあっという間に光に包まれてそして消え去った。
(やっぱりね。僕が良いと言おうが、悪いと言おうが片付けられるものなんじゃないか。それなのに、僕に話をしたんだね。)
ミラードはそれを口にはしなかった。狼は彼の贈り物に勝手に術をかけてしまたことを反省しているのだろう。だからこそ、次はきちんとミラードの許しを得ようとした。ミラードはただそれを嬉しく思った。
(こんなことを言ったら不敬なんだろうけど、なんだか愛すべきものなんだな。神の使いというのは。)
狼は遠い昔に犯した罪に囚われ、死の淵という寂しいところでわだかまっている別の神の使い、驚いたことにそれは大白鳥だということだったが、をもう一度世界に呼びもどすために杏奈の力を借りようとしたのだと語った。大白鳥と浅からぬ因縁を持つ杏奈のためならば、彼は自分の殻を破って過去を乗り越えてくれるはずだと言う。因縁の細かいことまでは分からない。それでも狼が大白鳥のことをとても大事に思っていること、大白鳥が杏奈を大切にしていることくらいは分かった。そしてミラードにとっては、それだけで良かった。
人には人の領分がある。それを踏み越えようとは思わなかった。
「面倒をかけたな。悪かった。」
「いえ、もういいんです。私はアンナが幸せであってくれたら良いのですから。」
ミラードがそう言うと、狼はふわりと立ち上がった。去っていく狼の背中にもう一言声をかける。
「またお会いできるのを楽しみにしていますよ。狼さん。お友達にもよろしく。」
狼の尻尾が深く項垂れたので、この呼び名は気にいらなかったのかもしれない。そう思いながらミラードは窓から飛び去っていく狼を見送った。
(とんでもない世界の秘密を知ってしまった気がするなあ。)
子供の頃に神の使いに出会った記憶と切り離せない子供の頃の辛い思い出。杏奈が神の使いに会ったことがあるとようだと知れた時に、何か変わるかもしれないとは思ったけれど、今回の出来事でミラードの過去を見る目、神の使いへの想いすっかり塗り替わった。神の使いも間違える。これを知っているのは世界中で自分と、もしかしたら杏奈だけだが、もう知ってしまったミラードにとっては他の人のことなど関係ない。神の使いですら、あれほど長く生き、大きな力を持つものですら迷い、間違うのだ。そう思えば人の過ちを許すことがずっと容易く思える。人は間違える。けれど、それを悔い改め変えて行くこともできる。今日知った秘密を口にすることはできないけれど、この秘密はこれからの自分をもっと寛容にしてくれるだろう。
(こうなると、ますます司祭は天職だという気がしてくるなあ。)
ミラードは微笑みを浮かべながら窓を閉じた。