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愛していると言えば、嘘になる  作者: 青砥緑
試されるとき
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帰っておいで

 杏奈は五日間眠り続けていた。

 もはや杏奈のかかりつけ医になっている軍医がみても深く眠っているだけにしかみえないと言う。しかしこれ以上目覚めなければ衰弱し過ぎる。司祭に来てもらう手続きをしようかとアデリーンが決意したころに、ミラードが自分から訪ねてきた。彼には珍しく手土産もなく、開口一番に杏奈はどうしているかと問うてきた。

「それが。」

 アデリーンがここしばらくの様子を説明するとミラードはすぐに様子をみることに同意してくれた。

「診るだけならば、教会の承認はいりません。治癒を施すとなるとそうもいきませんが。」

 早口にアデリーンに答えながらミラードは杏奈の部屋や案内され、寝ている彼女の枕元に膝をつく。

 顔色はよくは無いが、といって悪すぎもしない。五日も寝ていておかしな表現だが睡眠不足程度の顔色だ。呼吸も安定。たしかに寝ているようにしか見えない。しかし杏奈の気配がなかった。心、魂のようなものが体を離れてしまっている。これでは起きることはないだろう。


「起きて、アンナ。いい夢をみられるようにとは言ったけど、いい夢過ぎて起きてくれないのは困りますよ。」


 心が体を離れているものは治癒でも治す術は無い。普通に起こすように声をかけるしかなかった。


(肝心なところで不親切だな。これじゃあ手の打ちようがないじゃないか。)



 ミラードは昨夜、二十年以上ぶりに再会した白い狼のことを思い出して眉を寄せる。

 それは風のない夜に足音もなくミラードの部屋に佇んでいた。ミラードはなんとなく気配を感じて机から振り返り、見慣れた居室に静かに座っている白い狼を見つけて瞠目した。まさかまた出会うことがあろうとは思っていなかった神の使いが、自分の部屋を訪れるという事態に頭がついていかなかった。

「人の子よ。」

 白い狼はミラードの記憶そのままの声で話しかけてきた。

「小さな娘を呼びもどさねばならん。これ以上彷徨っていては帰って来られなくなるだろう。」

「娘?」

 唐突な言葉にミラードは凍ったように固まっていた足をぎこちなく動かして狼の方へ近づいた。狼は逃げずに鼻先でミラードの差し出した指に触れる。そうすると脳裏にいくつかの映像が浮かんだ。横たわる杏奈と枕元に控えている女中。青白い顔をして椅子に崩れ落ちる杏奈。駆け回る騎士達。馬から落ちて行くセオドア。

「どういうことです?」

 ミラードは膝をおって青い瞳を覗きこんだ。聞きたいことがたくさんある。最初に狼の言った小さな娘のことは何となく分かった気がした。セオドアの噂は聞いている。心労に耐えかねた杏奈をなんとかしなければならないのだろう。

「あなたは、どうして僕のところへ。」

 問いかけの途中で狼はすっと立ち上がる。ミラードに頭をすりつけるように寄ってきた。

「お前に詫びねばならん。お前の好意を無にするつもりはなかったのだが思った以上に強情な奴らだ。」

 狼は言いたいことだけ言うとミラードの背後に回り込んだ。慌てて振り返ると青い瞳が穏やかに自分を見つめていた。

「立派に育ったものだ。頼んだぞ。」

 ミラードがもう一度狼に近づく前に、彼は窓をすり抜けて飛び出して行った。そして去っていった後に残されていたのがかすかな残り香。いつか杏奈に贈ったものと同じ夜光草の香りだった。



 言いたいことだけ言って去っていった様子から神の使いというのは存外勝手なものだというのは分かったが、それでも姿を見せるからには、ただならぬ理由があったのだろう。とにかく気になって朝一番で杏奈に会いに来たというわけだ。もう五日も目を覚まさないと聞いて呼びもどすと言うのは目を覚まさせることだというところまでは納得がいった。呼ぶと言うからには彼女の心はどこか違うところに留まっているようだ。どこに行ってしまったのだろう。無駄を承知で部屋を見回したミラードはふと枕もとの香水瓶に目を止めた。いつか自分が送った夜光草の香水。まだ僅かしか減っていない。


(これか?)


 昨日、白い狼からはこの香りがした。そして狼は自分に詫びるとも言った。これに何か仕掛けたのかもしれない。ミラードはそっと香水を手にとった。柔らかい香りは普通の香水と変わらない。しかし集中すれば香水自体に見知った力の流れを感じた。杏奈に治癒を施した時も感じた神の力と似て非なる不思議な力。


(神の使いの力ということなのかな。人の贈り物に余計なことをしてくれるね。何の力なの、これは。)


 香水の栓を閉めてミラードは杏奈の頬に触れた。杏奈がの心がどこかに閉じこもっている理由は分かっているのだ。声さえ届けば心を開いてくれると確信がある。問題はこの香水に込められた何かにそんな力があるかどうか、さっぱり分からないということだ。しかしやってみて損はない。ミラードは再び杏奈に声をかけた。


「アンナ。アンナ。君の待ち人が見つかりましたよ。もうすぐ帰ってくる。早く起きないとお迎えが間に合いません。」


 その言葉に控えていたアデリーンと女中は顔を見合わせる。まだセオドアが見つかったという報は届いていない。

「テッドが、いえ、セオドアが見つかったんですか。」

 アデリーンが問いかけると、ミラードは目を細めて頷いた。

「もうすぐ知らせが王都へ届くでしょう。」

 アデリーン達は手を握り合い涙を浮かべた。歓声を上げるにはまだ早い。けれど久しぶりの良い知らせだった。


「アンナ。セオドアが意識を取り戻すときには君が居てあげないと彼が可哀相ですよ。」


 あの白い狼が見せてくれた景色の中に騎士達に担がれて馬車に積まれるセオドアの姿もあった。彼はうわごとのように繰り返し杏奈の名前を呼んでいた。酷い姿だったが、助かると直感した。何度も重傷者の治癒に立ちあってきた勘にはそれなりに自信がある。彼はきっと王都へ帰ってくるはずだ。自分の手の届くところにきたら必ず治してやる。白い狼のおかげでセオドアが命を落としかけた顛末まで理解したミラードは絶対に彼を死なせるつもりはなかった。


「君が自分のために倒れたなんて聞いたら、向こうもまた倒れてしまう。私の声が聞こえていますか。さあ、目を覚まして。」


 ミラードは声をかけ続けながら彼女の気配を懸命に探った。帰って来い、と強く願う。


「ミラード様、少しお休みされては。」

 女中の一人に声をかけられてミラードは、差し出された水を口に含む。そのまま、ミラードがじっと杏奈の寝顔を見つめていると、不意に僅かだが何かの気配を感じた。はっとしたミラードはグラスを女中に慌てて押しつけて意識を集中させる。


(これは、アンナの気配が戻ってくる。)


 杏奈を治癒した時に感じたのと同じ何かが彼女の背中を押している。杏奈の気配はあっという間に近づいてきて、彼女の体の内側にピタリとおさまった。その瞬間、ミラードの目には大きな翼が杏奈を抱いているように見えた。それはすぐに粉のように崩れて消え去る。そしてミラード以外の人間にも分かる変化が訪れた。

「ん。うう。」

 小さなうめき声を上げて杏奈が眉を寄せる。やがてゆっくりと瞼があがり緑色の瞳が現れた。

「アンナ!」

 控えていた女中が叫び声を上げて杏奈のに飛びついた。

「おはようございます。」

 酷くかすれた声で杏奈がいうと。女中は泣き笑いで「ちっとも早くないわよ!あんた五日も寝てたんだからね!」と叫んだ。杏奈はぼんやりした表情で返事をしながらぐるりと部屋を見渡す。ふわふわと彷徨った視線がミラードを捉えるとそこに焦点を結んだ。


「ミラードさん。」

「はい。」

「呼んでくれましたか。」

「はい。」

 にこにことミラードが頷くと、杏奈の目からぽろぽろと涙がこぼれた。

「あれは本当?」

「本当ですよ。帰ってきます。だから早く元気におなりなさい。」

 ミラードはそっと杏奈の頭を撫でて、あとは今自分にできることはないと席をアデリーンに譲った。ミラードは去り際に誰にも気づかれることなく香水瓶を手に取って、それを懐にいれてヴァルター家を辞した。

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