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愛していると言えば、嘘になる  作者: 青砥緑
試されるとき
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あなたを待つ日々

 それから杏奈は毎晩、縋る思いで呼びかけた。できることなら何でもするから帰って来てほしいときつく目を閉じて祈る。そのまま、何とかうつらうつらと眠りに落ちては悪い知らせを受ける悪夢に飛び起きることを繰り返す。夜明け近くに目を覚ますと、もうそれきり寝るのは諦めて裏庭に立って朝日を眺めるのが日課になった。来る日も、来る日も、暗いうちに裏口から滑り出て、白んでいく空を見る。一日を乗り越える勇気を貰うために。夜の間に胸に広がった絶望に捕らわれてしまわないように。朝を告げる鳥の声が大きくなる前に自分を奮い立たせて家に戻り、仕事に没頭してなんとか一日をやり過ごした。

 ザカリー達はもちろん、他の騎士達も杏奈の前であからさまにセオドアの噂をすることは無かった。それでも騎士の訓練所や廊下を通っていると様々な話が耳に入ってくる。アルフレドが家で余計な心配をさせるようなことを口にしなくても、杏奈はやがてセオドアの姿が消えた顛末の一端を知ることになった。何十人もの盗賊相手に一人で立ち向かい、有名な盗賊の頭領に打たれて動かなくなったと。そして教会にかくまってもらうこともなく打ち捨てられ、騎士達がやってきたときには姿はなかったという。その話は杏奈を苦しめ、同時に幾ばくかの希望を持たせる。誰も彼を運び去っていないなら、自分の脚でどこかへ行ったのかもしれないではないか。どこかで生きていてくれるかもしれないではないか。生きているのなら、なぜ名乗り出て来ないのか。歩ける程に元気ならどうして帰って来ないのか。それを考えないようにしながら杏奈はなんとか心の均衡を保っていた。


 あまりに痛々しい彼女の様子にザカリーもアルフレドも少し休んだ方がいいのではないかと杏奈に言ってくれた。しかし、杏奈は仕事を休んで日常を断ち切ってしまうことがセオドアの不在を認めてしまうことになるようで怖かった。気遣いに感謝しながらも、休みは断り、なるべく心配をかけないようにと昼の間は笑顔も浮かべたし、努めて快活に振舞うように心がけた。もちろん仕事も手を抜かない。

 無理に休ませれば緊張の糸が切れて寝付いてしまうかもしれない。杏奈の様子からそう感じたザカリーは、倒れるまで働かせてやろうと腹を括った。表面上はこれまでと変わらぬように接し、仕事も任せる。ぼんやりしていれば注意もした。


 杏奈はセオドアを信じようとし、必死に足掻いた。けれど、良い知らせは届かず、彼女の心は段々と疲れていく。そして、かつてセオドアが必ず夜は明けるから怖いことはないと言ってくれた夜明けの光の力すら、彼女の助けにならなくなってしまった。朝日は、いつの間にか、セオドアのいない一日を告げるだけの残酷な存在になってしまった。それでも朝日を眺めることを止めることができずに杏奈はその光を受け止める。


(セオドアさん。何にも怖いことなんかないって言ってくれたけど、怖いこと、ありましたよ。朝が来てもセオドアさんがいないこと。朝が来て、太陽が昇っても貴方がいないと清々しい朝の空気だって、ただ冷たいだけなんです。ねえ、今日は帰って来てくれますか。)



 杏奈の願いも虚しく日々は過ぎる。満足に眠れないまま動き回る生活は徐々に彼女の体力を奪っていった。そして、とうとう杏奈が眩暈を起して立ち上がれなくなったところで、ザカリーから当面の休暇が申し渡された。

「心配でこちらの仕事が手につかない。迷惑です。」

 杏奈は言い返す言葉もなく、迎えにきた執事に支えられて仕事場を後にした。


 やっと居場所を得たと思った仕事さえ満足にできない。杏奈を失意に打ちのめされた。ザカリーの言葉は厳しくても自分を思いやってくれていることは分かる。でも、彼らが、もしも杏奈が帰ってくるのを席を空けて待っていてくれたとしても、セオドアが帰って来なかったら自分はきっと立ち直れない。あの静かな部屋に戻ってザカリーと仕事をすることももうない。そう思うと焦燥感と苛立ちに襲われる。何もかもそうやってまた失ってしまうのだろうか。今度は嘘なんてつかなかったではないか。それなのにまた私は何もかも失って、一人ぼっちに戻るのか。睡眠不足と幾重にも重なる不安の中で杏奈は、あらゆるものが自分の手をすり抜けて消えて行ってしまうような錯覚を覚えていた。



 夜、アデリーンは薬のおかげで寝ている杏奈の部屋を訪れた。浅い眠りについている杏奈の青白い頬を見て静かにため息をこぼす。これほどまでに思い詰めるほど、思っていてくれる娘を置いて帰って来ないなど愚か者のすることだ。国で一番かと褒められた足はどうしてしまったのかと胸の中で甥を責めた。アデリーンも騎士の妻である。待てど暮らせど帰らない相手を待つ気持ちは痛いほど分かる。何の知らせもないまま必ず生きて帰ると信じて待つ日々は辛い。まして、他の者が帰ってきたのに自分の夫が帰って来なかった日など、夜などなくて良いからすぐに明日にして次の帰還者達に会わせてくれと思う。

 覚悟していてそうなのだ。急な出立で挨拶もできなかった杏奈は、どれほど辛いだろう。最後にセオドアが彼女に会いに来た日に二人が何を話したのかは誰も知らない。ただの世間話ではなかったことは、女中がみかけたそのときの様子から推測できるが真実は彼らしか知らないのだ。一体、なんと声をかけてやればいいのだろう。枕元に腰掛けて杏奈の髪をそっと撫でながらアデリーンは口惜しさに目頭が熱くなった。気休めを言うことは簡単だ。彼はきっと帰ってくる。もちろんアデリーンだってそう信じている。けれど、信じても信じても帰らない人がいることも知っているのだ。無責任なことは言えなかった。

「アンナ。貴方は倒れていたら駄目よ。テッドが帰ってきたら飛びついて、転ばせて、いっぱい文句を言って、何も言い返せないくらい思いっきり抱きしめてやらなきゃいけないんですからね。」

 アデリーンは小さな声で語りかけてから、ふと視線を上げた。文机の上に飾ってある青い香水瓶が目に入る。

「あら。」

 中身はまだ半分以上入っている。そういえば以前これをもらったという話しをしていたと思い出して香りを確かめればやはり夜光草の香水だった。アデリーンは瓶を持って杏奈の枕元に戻り、枕の脇、左右に一滴ずつ香水を落とした。

「せめて今日は深くお眠りなさい。」

あ、奥さん。そいつは!

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